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一太子様はお忙しくなるらしい

 しろがへんてこ一太子に雇われてから、はや一月あまり。

 大都には夏の気配がひそやかに、しかし確実に訪れていた。


 「おお!これが『彩の雫』か!」


 菓子類も色鮮やかな品が増えてきた。現在、トールが手にしてはしゃいでいるのは、その日入荷した新鮮な果物を絞って作るのが売り文句の菓子である。

 よく日を浴びた果物そのものの色合いをした菓子は、トールの動きに合わせてプルプルと震えている。


 販売は早くても昼過ぎ、しかも何時になるか確定しないという代物だ。しかもすぐに売り切れる。店の前で待てるか、待てるものを派遣できる者でなければ買うのは難しい。

 一応は忙しい身分である一太子とその側近たちにとって、可愛い店以上に入店困難な店であった。


 「よくやったぞ!しろ!」

 「もっと感謝して報酬上乗せしてくれてもいいっすよ」

 「うむ!一年以上買えなかった菓子だからな!早速食おう!茶を淹れる!」


 全部で十個の色とりどりの菓子を独り占めする気はないようだ。

 どれほど評判の菓子であっても、トールは必ず居合わせたものにも振舞う。もっとも、常にいるウー老師もマルトも、甘すぎる菓子を食わされるのは拷問に近く、品物によってはお断りしているが。


 「これならばお前らも食えるだろう」

 「私たちは、ひとつを三人で分けますよ。最初の一口二口が一番おいしいですからね」


 そう言って、にこにこと皿と匙を人数分出してくるラーシュは、しろの予想通りあっさりと何処の誰とも知れない怪しい存在を受け入れた。

 むしろ、「良かった。これで殿下のお望みが叶いますね」と喜んでさえいる。

 疑わないのかと一応問うてみると「私の十倍は疑り深いウー老師が疑っていないので、よろしいかと」と微笑んで言われて納得した。


 しろが出入りするのは、星龍府しょくばではなく星龍宮じたくだが、マルトとウー老師も星龍宮に住んでいるし、ラーシュも三日に一度はトールの終わらなかった仕事に付き合ってやってくる。

 礼儀正しく温厚で優しい男…などと言う人種が本当に居ることを、しろはラーシュで確認した。

 それでいて、実力で精鋭中の精鋭を集めた星龍親衛隊の長を務めているのだから、完全無欠とは一太子の事ではなく、この親衛隊長の事ではないかとすら思う。


 唯一の欠点と言えば、その一太子に盲目的と言えるほどの忠誠を発揮しており、尻拭いでも何でも嬉しそうに片付けてしまうところだろうか。


 そんなわけで、しろはあっさりとトールの側近たちに受け入れられた。

 いつもの三人以外にも時折顔を出す面々はいるが、誰も彼もしろに対して疑いの目を向けることも排除しようとすることもない。

 ついにはトールの両親、つまりアスラン国王と后妃にすら目通りすることとなったが、「美味しいお菓子あったら、私たちにも買ってきて欲しいな!」と八代大王にお小遣いを渡され、「ごはんはちゃんと食べるんですよ。これ持って行って」と后妃には食事の包みを渡される。時間が合えば、昼食夕食を一緒に摂ることさえある。


 絶対、これはこの人たちがおかしいっすよね…と思うものの。

 蔑まれることもなく一人の人間として接せられ、時には子供として甘やかされ、心配される。

 その居心地の良さは、どうしようもなく抗いがたい。


 そして、星龍宮の居心地が良ければよいほど。取り巻く人々を知れば知るほど。

 あのクソ野郎の言いなりに、命を奪い続ける自分が嫌だった。

 この場所にいてはいけない。相応しい人間ではないと、一番わかっているのは…自分だ。


 けれど、これも仕事だからと足は星龍宮へと続く転移陣に向かってしまう。

 そんな自分がつくづくと…嫌だった。


 その日も、「頼まれたのだから。仕事だから」と言い訳のように繰り返し、菓子を買って転移陣に踏み込んだ。


 「あれ?」


 転移陣が設置された部屋から出ると、人の気配がいつもより少ない。

 もちろん、一応多忙な一太子であるから、いないこともままあるが、そういう時は人の気配が少ないのではなく、無人になる。

 誰もいなければ昼寝でもして待っていろと言われているので、しろも気にせず、すっかり顔なじみになって懐いてきたベンケを腹に乗せて本当に寝ていたりするのだが。


 「星龍君わがきみは本日、実に萎れて会食に出かけられたぞえ」

 「そっすか」

 

 星龍宮のいつもの部屋には、ウー老師が一人でいた。ただでさえ細い目をさらに細くして、薄着の女性の絵が表紙の雑誌を捲っている。

 

 「まあ、そう言った社交も必要であるからなあ。おぬしの買うてきた菓子、まさに金丹になるじゃろて」

 「そういうのもダメなんすか」

 「大丈夫だと思ったのかえ?」

 「いや…ムリっすね」


 足に顔をこすりつけるベンケを抱いてやりながら即答する。あの人見知りが、仕事だからと「知らないヒト」とにこやかに食事を楽しめるわけがない。


 「ラーシュ殿も同席しとるで、なんとかしてくれるじゃろ。菓子は焼き菓子か?」

 「生菓子っす」

 「ふむ。なれば、冷蔵庫にいれておいてくりゃれ」

 「うっす」


 『冷温』の陣により常にひんやりと冷たい冷蔵庫は、魔導燈と並んで大都に普及している魔導具だ。夏は腐らないよう、冬は凍り付かないように食べ物を保管できる。

 蓋を開けると、緑茶が半分ほど入っている硝子の瓶子がすでに陣取っていた。


 「その茶、飲み干して場所を作ると良いぞえ。喉も乾いとるじゃろ」

 「有難くいただくっす」


 今日は三軒の菓子屋をまわったから、冷たい水分はお世辞ではなく有難い。大都の夏はからりと乾いて日差しがきつい。快適ではあるが、喉は乾く。

 一緒に冷やされていた椀に茶を注ぎ、飲み干す。瓶子が空になるまで三杯、立て続けに干した。


 「あー…美味い」

 「干天の雨水は天上の美酒にも勝るっちゅうてな。腹も減っておるなら、卓の上にある果物やらなんやらも食うてよいぞ」

 「飯は食ったっす」


 二軒目の菓子屋の隣が、飯屋だった。菓子屋の主人の叔父夫婦の店だそうで、菓子を買ったら割引券をくれた。ならば当然行くだろう。

 入ってみると、塩を振って蒸した羊肉と生の香草が饂飩の上に乗せられ、そこに自分の好みで調味料を足していく拌麺リューミン専門の店だった。屋台でもよく見かけるが、さすが店だけあって調味料の数が多い。

 しろは柑橘の汁を混ぜた豆醤を匙一杯麺に絡ませ、大盛りをがっつりと堪能した。香草を二回まで無料で追加できるのも良かった。


 次は麺のおかわりもしようと思っていることも付け加えて話すと、ウー老師はニヤニヤと唇を曲げて頷く。どう見ても悪意がある顔だが、これが素であることはさすがに覚えた。


 「そういう店なら、喜んでお供するんじゃがなあ」

 「太子様が食いに行くような店じゃねぇっすけど、おっさんならいいんじゃねえっすか?」

 「知られると『何故誘わなかった!』とかうるさいでなあ。行ったら隅で無になるくせに。まあちゅうわけで、もうしばしして落ち着いたらば案内せえ」

 「忙しいんすか?」

 「あとひと月で夏の大祭(ナーダム)であるからのお」

 

 なるほどと、しろは頷いた。

 夏の大祭について、しろが知っていることは少ない。

 少ないが、あちこちその話題で持ち切りだし、それ用の衣裳が服に並んでいる。


 新年祭ツァガーンサルと夏の大祭は、アスラン人にとってとても楽しみで、重要な行事のようだ。

 特に、寒くて各家親族単位で祝うしかない新年祭と違い、夏の大祭は様々な催しが行われ、十日も続く。大通りは屋台で埋め尽くされ、特に東西南北の大道が交差するジルチ広場は大変な賑わいになる…と聞きかじっている。


 「まあ、新年祭と違うて、夏の大祭は王家主体の祭りではないが、ちゅうてもなあ。挨拶のひとつもせにゃならんし、競技の観戦もせんとなあ。となると、警備をどうするかこうするかと、詰めにゃあならんで」

 「おっさんは何もしねぇんすか?」

 「末将それがしのなすべきは、それそのような折に過不足なく動く体制を構築する事ゆえ。…と薄着のおなごでも眺めていたいところではあるが、もう十日もすれば星龍府に軟禁じゃな」

 「大変っすねえ」

 「星龍君もたいそう弱るでな。おぬしの仕事、毎日になるやものう。何せ、夏の大祭限定の菓子も多いし、先日、そればかり纏めた本を読みふけっとった」


 暑いうえに人ごみの中、菓子を買いに走り回るのは確かにしんどいが、嫌ではない。だが、毎日となると。

 しろの手は、無意識に服の上から腕輪を抑える。


 毎日。

 その間、あのクソ野郎からの「仕事」がない…と言う幸運は、あるだろうか。

 

 最近、仕事の頻度は下がってきている。

 それはしろを慮っているのではない。あまりにも手広く仕事を受けすぎて、苦々しくあの男を見る者が増えてきたからだ。

 男の周囲の人間のひそひそ話では、アスランの法を司る御史台からも目をつけられた可能性があるとか。


 今更か、とも思うが、御史台が優先するのは、アスランの民を守ることである。男がおもに食いものにしているのは、異国から攫われたり、売られてきた人々だ。

 そうなると、余程目に余らない限りは後回しにされる。その余程をやりすぎたから、ほとぼり冷めるまでおとなしくするつもりのようである。

 とは言え、十日に一度は呼び出され、あの夜からすでに三人分。しろは手を血に浸していた。


 そんな手で、菓子を買うのか。

 あの人たちの前で笑うのか。


 内なる声は、そのたびにしろを責め立てる。

 それでも、この心地良い場所に縋ってしまう自分の弱さに、反吐がでそうになる。


 いっそ、全て打ち明けて、助けを求めてしまおうか。

 暗殺などしたくない。あの人を、俺を助けてください、と。


 何度、そう思い…そして、首を振ってきた。

 しろがなにをしてきたか、マルトは間違いなく知っているだろうし、トールたちも聞いているに違いない。

 だから、打ち明ければきっと助けてくれる。そう思う。思うが。


 それを情けないと思う自分と、万が一…しろの生業を知らずにいてくれていたのだとしたら。


 あのよく表情を変える、けれど暖かな満月色の双眸が。

 穢い、と嫌悪感に染まったら。


 「…のう」

 「え、あ、なんすか?」


 声と視線に、しろは慌てて顔を取り繕ってウー老師を見た。

 胡散臭い参謀の視線はもうすでに、しろから雑誌に移っている。


 だが、確かにその目は、しろを見ている。そう感じた。


 「昔なあ、ある国に超絶有能な男がおったんよ」

 「はあ…」


 ウー老師の口から出てきたのは、しろが予想もしていない話題だった。

 流石にどう対応してよいかわからず、肩の上に陣取るベンケを撫でて続きを待つ。


 「戦略戦術並び立つものなく、主君の覚えもめでたかった。それでなあ。小人共に疎まれた」

 「よく聞く話っすね」


 何せ、この大都の片隅程度の広さと人口のシラミネでさえ、権力争いはあるのだ。ウー老師の語る『国』が何処かは知らないが、シラミネより小国という事もないだろう。


 「超有能将軍であった男の妻は、その国の敵国の出身でな。なので、敵国と通じとると言われたわけよ」

 「通じてたんすか?」

 「ないない。しかし、讒言された事、主君が疑い始めたことを、男は超有能ゆえに素早く察知した。でな、それが『事実』としておのが罪になる前に、妻を殺した」

 「…は?」

 「殺して『疑われた事、誠に我が不徳にございまする。かくなるうえは、身の潔白をば証明せんと決意いたしました』と涙ながらに語ったわけよ。お前らに疑われたから、罪のない嫁を殺したんだぞ、とな。そうすることで、自分が優位に立てると、こう思ったわけじゃな」

 「最悪っすね。それのどこが超有能っすか」


 半眼でウー老師を見ながら言ってやるが、顔色にも表情にも変化はない。いや、頁を捲って「うほ」と小さく声を上げて目じりを垂れさがらせているが。

 

 「超有能じゃが、男はまだ理解しきっておらんかったのよ。本当に、生れた家やら自分の邪魔になるという理由で、人を人を思わぬような連中がおるっちゅうことをな」

 「自分が疑われたからって奥さん殺すヒトも十分ド腐れ外道っすよ」

 「そうじゃな。だがなあ。男は少なくとも、無実の女一人の命は脅しになるほど重い。相手も罪の意識を持つじゃろとは思うとった。ま、そんなこともなかったわけであるがのう」

 「その外道、どうなったんすか」

 「結局、疑われた程度で妻を殺したド腐れ外道と懲戒されて、その国を追い出された」

 「当然の結果すね」


 頷きながらも、何故そんな汚点のような過去を話すのかといぶかる。

 男、と言っているが、おそらくウー老師本人の話だ。超有能とか言いやがるあたりが特に。この男、滅多に人を褒めないし。


 「同じ話を星龍君にしたらばな。ものすごおく呆れかえった顔をされたあと、『疑われた時点で周りに相談すればよかったのだ。一人で抱え込んで始末をつけようとするからそうなる』と仰られたわい」

 「…」

 「まあ、もっともよ。それなりに、信にたるものはおった。疑われて辛いと相談すれば、主君に執り成しもしてくれたやもしれんし、こんな国はさっさと出るべきだと勧めてくれたやもしれん。どちらにせよ、妻を殺した上に追放なんちゅう一人負けは避けられたじゃろうなあ…。ムホホ、このおなご、イイ脚しとる」

 

 一人で抱えるな。

 それをしろに伝えるために、自分の罪を、最大の失敗を、語ったのか。


 「…その奥さんに、悪ィことしたなって、思ってるっすか?」

 「さあてな。その超有能な男もすでにかの地では故人よ。死人がなにを悔いておるかなど、末将には測り知れん。しかし」


 すい、と視線が雑誌から上がった。

 しかし、今度はしろを見ていない。しろの方を向いているが、見ていない。


 「男はそれ以降、敵以外を殺すことはのうなった。政敵であろうと、目障りな邪魔者であろうと、な」

 「そっすか」

 「そも、暗殺やらなんやらで解決できることなんぞ、たかが知れとる。正々堂々と罠を張り巡らせて失脚させた方が良いのであるよ」

 「正々堂々罠は張り巡らせねぇと思うっすわ」

 「抱え込み、己一人でどうにかせんと足掻くのは若さの特権よ。しかれど、ほんのちょいとな、己に負けてみることで成長できるのもな。若いうちだけよ。年食えば、負ければ負けただけズルズル堕ちていくゆえな」

 

 視線はまた雑誌へと戻り、口は言葉を騙ることなく「むふふ」と締まらない笑みを浮かべるだけの存在に成り果てた。

 しろはベンケを抱えたままいつも座る座布団の上へと移動し、目を閉じる。


 正直に言えば、この胡散臭い軍師をトールが信頼し…スットコドッコイとかアンポンタンとかタワケとか、散々罵るが…重用しているのを不思議に思っていた。

 マルトもその経歴は真っ黒ではあるが、性根は清らかとはいかないまでも無欲に近く、欲しがるのは酒だけだ。


 ウー老師はごく普通に強欲だ。

 賄賂でいつも懐を重くしている、と言う噂はたぶん真実だ。実際に金を貰っているところを見たこともある。

 罪を犯したものから執り成しを依頼され、悪事を有耶無耶にしたこともあるらしい。まあ、それについては、おそらく素直に罪を贖った方が良い結果になりそうな気もするが。ウー老師が、握った弱みを有効活用しないわけがない。


 トールが好むとは思えない人物であるが、しかし、ほぼ絶対と言っていい信頼をこの胡散臭い男は勝ち取っている。

 それだけ有能だという事かと思っていたが。


 (それだけじゃ、ねぇんすかね…)


 トールなら、しろが何かを抱えていたと感付くだろうか。

 かもしれない、と思っても、それをどう切り出して良いかわからず、困り果てるだけになりそうな気もする。

 そのあたりを埋めるのが、この参謀の役目なのかもしれない。


 (まあ、そのうちわかるか)


 いつものように腹の上で眠りだしたベンケが、柔らかく暖かい。

 その心地いい重さが、眠気を誘う。


 (もっと、自分が嫌いになったら…許せなくなったら…)


 抱え込めなくなったら。

 その時は。


 柔らかな眠りに落ちて行きながら、しろは「その時」が来ないことを、細やかに祈った。


***


 願いはかなわないもの。

 期待は踏み躙られるもの。


 それは、もう、嫌と言うほど知っていた。知っていたが。


 「お望みの大物だ。これがうまくいきゃ、お友達を身請けできるぜえ?」

 「!!」


 胡散臭い軍師に諭されてから三日後。

 ずいぶんと久しぶりにしろを呼び出した男は、これ以上ないほど厭な笑みを浮かべて待っていた。


 「なんせ、ほんっとに大物だからな」

 「どこのどなたっすか」


 大商会の主人か、それとも高官か。貴族の家長かもしれない。

 どちらにせよ、しろが断ることはない。首を縦に振るしかないと、男の顔は言っている。


 「夏の大祭の時にゃ、色々と催し物があるんでね。お前のお友達、そこで売ろうと思ってたんだが、間に合ってよかったなあ?おい」

 「…で、標的は」

 「焦んなよ!」


 男はゲラゲラと仰け反って笑う。その横から、この間とは違う女がしろへと紙をもって近付いてきた。

 差し出された紙には、標的の情報が記載されている。


 「!!」


 強張ったしろの表情に、満足げに男は笑みを深くした。


 「大物だろお?まあ、俺が言うのもなんだが、そいつは腐り切った悪党でよ。やるのは難しいが、心は痛まないぜ?たぶんな」

 「…」

 「依頼元はよお、そいつの甘言にのって賄賂を贈った将軍サマ…いや、将軍様になれなかった御方でな。賄賂つくんのに、婚約者を売ったらしいぜえ?なのにだ、金だけとられて、そいつの名前は将軍サマの名簿になかったってワケよ。そりゃ、ぶっ殺したくもなるよなあ?」


 黄ばんだ質の悪い紙に書かれている顔は、細い目に、ひょろりと貧相な口髭と顎髭の伸びた胡散臭い中年の顔。

 一太子の参謀ウー・グィと説明が添えられている。

 

 「なんでそんなんが一太子の参謀になってんのかねえ?ま、有能なのは間違えねぇみてえだし?一太子も下々のもんがどうしゃぶられようと、気にもなんねぇってとこだろうなあ」

 「…」


 違う!と叫びかかった衝動を、どうにかしろは堪えた。

 ただ、顔色や表情までは誤魔化せない。青褪めている自覚がある。


 しかし、それを男は別の意味にとったようだった。


 「ビビってるねえ。ま、しゃーねぇわ。無理ならいいぜ。お友達も諦めることになるけどよ」

 「…」

 「三日、待ってやるよ。よおっく考えろよお?」


 そう言いながらも、男はしろが首を横に振るとは考えていない。

 そしておそらくは、しろが依頼をこなすとも、考えていない。


 しろのもうひとつの「仕事」が何か、男は知らないはずだ。

 身形や栄養状態が良くなっているのは気付かれているし、それを揶揄されてもいる。野良猫が飼い猫になって、家の中の太った鼠を食えるようになったのかと。

 しかし、その「家」がまさか星龍宮だとはわかるまい。わかる方がおかしい。

 

 今のしろの立場を利用すれば、ウー老師の暗殺が成功する可能性もなくはない。

 けれど、その前提がなければ、多少実績はあるとはいえ、「便利に使える」程度の暗殺者に、こんな大物を依頼などしない。

 

 男としては、しろが失敗しても問題ないのだ。

 依頼主は賄賂を払うのにも苦労するような立場の人間である。おそらくは、依頼料を作るために、男に誰か…もしくは自分を売ったのだろう。

 失敗したからと言って、男が不利になるようなことはない。もしも依頼主が御史台に駆け込んだとしても、正式な借用書を見せて「借金を踏み倒すために出鱈目をいっている」と逆に訴えることすらできる。


 つまり、男は失敗前提でこの依頼を受けた。

 しろをそろそろ始末しようと考えたか、別の意図があるのか。

 どちらにせよ、男がチラつかせている身請け話は、絵に描いた餅よりも食えない代物だ。


 今か。

 今、動くべきか。


 男の周りにいるのは、裸に近い女三人。

 余裕で躱せる。だが。


 金箔で飾られた趣味の悪い衝立の向こうに、人の気配がある。しかも、複数。

 女三人を盾にされれば、間に合わない。


 「いい返事、待ってるぜえ?」


 ニタニタと嗤う顔から何とか視線を離し。

 しろは、その場から逃げた。一瞬でも、髪一本分でも早く遠くに。

 どうしてと泣きわめきたくなる衝動を、堪えながら。


***


 「ん?どうした。夜に訪なうとは珍しいな。腹でも減ったか?」


 もし。

 あのクソ野郎を殺すなら。

 護衛すら動けなくなるほどに動揺させて、隙を作るしかない。


 つまり、返答の起源である三日後までに、ウー老師の首を持ってく。

 

 失敗すると決めてかかっている暗殺しごとだ。

 それが成功してしまえば、それはそれは動揺するだろう。


 こみあげる吐き気を喉の奥で圧し留めながら、しろは転移陣に踏み込んだ。

 トールはいろいろと忙しい。この時間ならラーシュはいない。

 マルトが動き出すには、まだ早い。


 だから、夜の始まりともいえるような、今頃なら、もしかしたら。

 ウー老師、一人になっているかもしれない。


 一人でいてくれ。

 一人でいないでくれ。


 交互に絡みあうように。

 湧き出る願望に目が回る。


 そして、転移陣の間から出た、しろの柘榴色の双眸に映ったのは。

 風呂上りらしく、濡れっぱなしの朝日の髪を垂らし、満月色の双眸で食い入るように紙面を見つめる、一太子。


 「あ…」


 膝から、力が抜けた。

 へたりと絨毯に座り込んだしろに、ベンケが駆け寄って顔を寄せる。


 「ああ…」

 「おい、どうした!何処か痛いのか?眩暈か?熱とか…ええい、侍医を、侍医を呼べ!」

 「ち、がう、っす…。あ、あはは…良かった…」


 零れる涙を、ベンケのざらざらした舌が舐めとる。結構痛い。

 痛くて、暖かくて、新たな涙が頬を伝った。


 「ほ、本当にどうしたのだ?何か、哀しい事があったとかか?その、俺はたぶん役に立たんが、話を聞くことはできるぞ。あと、その、あれだ、慰めるとか…あ、ああ!子守唄は得意だ!弟によく聞かせて寝かしつけた!眉間に皺を寄せて聞き入ってくれていたぞ!」

 「それ、うるさかったんじゃねぇっすか」


 全身の力が抜ける。

 ああ、良かった。

 いてくれて、良かった。


 おろおろとしろの周りを周回する、完全無欠なはずの一太子様。

 

 無欠じゃなくていい。余計なものがたくさんひっついていてもいい。

 このヒトがいてくれて。


 「良かった…」

 「して、どうしたんじゃい?」


 ひょいとその一太子を押しのけ、しろの前に座り込んだ今夜の標的に、しろは無言で依頼書を突きだした。

 これでしろが「敵」と認定されて、処されてもいい。


 トールが甘味を食いながら「このスットコドッコイ!」と喚き、それを涼しい顔で聞き流しながら「で、あそこの店の妓女が」と下種い笑みをウー老師が浮かべ、「せんせーはさあ、元気だよねえ」とマルトが感心し、「まことに」と穏やかにラーシュが微笑む。


 壊したくなかった。

 大都に出て…いや、シラミネにいた時でさえ、ほんのわずかにしか得られなかった、安心できる場所。

 

 それは、「あの人の仇」よりも…ずっとずっと、大切で。


 自分がどうしたいのか。どう思っているのか。

 やっと、しろは理解した。


 ウー老師の暗殺を押し付けられた時。

 全身を揺らした衝撃は、失敗前提の依頼に対する恐怖ではなく。

 仇がとれないことへの嘆きでもなかった。

 

 失敗するのは当然だ。欠片ほどの躊躇いも迷いもなく実行しようとしたところで、マルトに仕留められて終わる。

 だが、そのあと。


 トールの菓子は、誰が買ってくるのか。

 一度前例ができれば、きっとトールはもう次を求めない。


 己の見る目の無さを恥じ、反省し、菓子を買い求めることを諦めるだろう。

 そして、菓子を食べる度に、微かな苦みと痛みを感じるだろう。


 そんなのは、駄目だ。

 このへんてこ一太子は、もっと目を輝かせて、満面の笑みで菓子を食ってもらいたい。


 「おー。あの百人長かのう。依頼人は」

 「せんせー、心当たり在りすぎだよねえ」

 「そも、賄賂で将になろうっちゅうならばな。地方軍あたりで目指さんと。目の付け所が悪い。そんな輩を将にはできんわなあ。配下が無駄死にするわいな」

 「賄賂をとらんと言う選択肢はないのかっ!このスットコドッコイ!」

 「他のどなたかに賄賂渡して、本当に千人長になってもうたら困りまするゆえ。末将が貰っておけば、それは防げますのでな」


 しれっと述べるウー老師に、トールの眉が吊り上がったが…それ以上怒鳴ることはしなかった。

 かわりに、しろの頭をわしわしと撫でる。


 「お前を使おうとしたのは、その腕にはまる腕輪をつけたものか?」

 「…気付いてたんすか?」

 「嫌な魔力だからな。一方的につけた相手に苦痛を与える。外せないのか?」

 「…はい」


 呼び出すときは、こいつからピリッとするが、それだけだと言って嵌めさせられた腕輪は、どうやっても外れない。動かすことはできるのに、肘から下へと進まないのだ。


 「そうか」


 頭を撫でる手は温かく、硬い。

 子ども扱いするなと跳ねのける力もなく、しろは為すがままに撫でられていた。


 「このスットコドッコイの首で良ければ持って行けと言いたいところではあるが」

 「星龍君わがきみ!?」

 「こんなのでも、俺の腹心でな。まだ働かせなくてはならぬ」

 

 しろを見つめる双眸は、穏やかで怒りの色はない。

 ただ、その奥底に、抜き身の刃のような意志がある。


 「だが。もう何も恐れることも、案ずることもない」

 「…俺を、殺さねぇんすか」

 「すまぬと思っているのなら、夏の大祭中働いてくれ。買ってきて欲しい菓子はたんとある」

 「…ぜんぶ、買ってくるっす」

 「うむ。頼んだぞ」


 一際強く、くしゃりと掻き混ぜて、トールはしろの頭から手を離した。

 

 「さて。こんな剣呑な腕輪は外さねばならぬし、このまま姿を晦ますのも、後々厄介なことになるやもしれん」

 「さようですなあ。菓子を買いに行った際、絡まれるやもしれませぬ」

 「それじゃ、しろちゃん可哀想だよお」

 「わかっている。しろ、お前のその『雇い主』のもと、次はいつ参る予定だ?」

 「三日後…っすね。それまでに、受けるかどうか決めておけって…」

 「よし。それに俺も同行しよう。なに、()()()わかる」


 絶対に話す気はない。口許に浮かぶ笑みが言っている。


 「な、なにもアンタ自ら乗り込まなくても…」

 「こういうのはな。一番上同士で話し合うのが最も手っ取り早いのだ。だが、その前に、話せる範囲で良い。お前の事情を教えてくれ」

 「…」

 「それによって、()()()()の内容を変えるやもしれぬからな」


 見つめる視線を、しろは俯いて逸らした。

 自分の事情は、まったくトールに関係ない。もし、探している人が掴まっているのだと知れば、ややこしいことになるかもしれない。

 

 たぶん、もういないから、気にしないでいい。

 だから、あの人の事は伏せて…。


 「先ほど星龍君は、『何も案ずることはない』と仰られたではないか。若人の特権、使うならば今ぞな」

 「なんだそれは」


 相談すればよかった。

 それをせず、抱え込んで、全てを喪った。

 いかがわしい雑誌を読みながら、語ってくれた昔日の過ち。

  

 それを繰り返すなと、胡散臭い軍師はしろに注意を促している。


 「俺は…シラミネから、ある人を探して大都にやってきました」


 ぽろりと口から出た言葉は、もう止められなかった。

 抱えていたものは、重くて、大きくて、冷たくて。

 きっとあの人の遺体と同じ重さと、硬さと、冷たさ。


 「お願いします…」


 絨毯に額を擦り付ける。

 ほんの微かに抱く灯が、希望が、そうさせる。


 本当に死んでいる?

 もしかしたら、生きていて、助けを待っていたとしたら?


 抱える遺体の心臓は、ほんの少しだけ、まだ温もりを残していて。

 それが愚かな望みだと、踏み躙られるだけの希望だとわかっていても。


 「お願いします…俺にできることならなんでもします。あの人をヤクモ様を…助けて…助けてください!一太子オドンナルガ!」

 

 返答は、承諾でも否定でもなく。

 少し、不思議そうな問いかけ。


 「ヤクモ、と言うのか。お前のその、尋ね人は」

 「そうっす」

 「シラミネでは、良くある名なのか?」

 「王子と同名付けるなんて罰当たりなシラミネ人はいねえっす」

 「そうか…。そうなのか。ふむ。その、尋ね人を探す為、やはり、その、苦労したのであろう?」

 「俺の苦労なんて、どうでも良い。あの人の受けた苦痛に比べれば…!」

 「そ、そうか。まさに忠臣だな。スットコドッコイにも見習ってほしいものだ」

 「なんか飛び火しとらん?末将」


 顔の下にベンケが入り込み、ぎゅむうと背中で押し上げてくる。

 それにトールも肩を掴んで力を貸し、しろは涙に塗れた顔を上げさせられた。


 「もう一度言う。何も案ずるな。お前も、その、尋ね人も」


 太い笑みを形良すぎる口許に乗せ、満月色の双眸に揺るぎない自信を宿し。


 「俺にすべて、任せろ」


 トール・オドンナルガ・アスランは、そう宣った。

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