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一太子様は恥を忍んで打ち明けるらしい

 「入らねぇんすか?」

 「…」


 すっかり夕闇が地上を支配し、しかし歓楽街はその闇に包まれてこそ本領を発揮する。

 カララ通りの人通りは、二刻前と比べて比べ物にならないほど増しており、店の前で突っ立つ二人連れを邪魔そうに避けていく。


 その店は、もちろんトールが行きたがった店だ。

 酒と食事よりも甘味が主力と言うこの店は、外観だけだと少し古めの酒場にしか見えない。

 だが、よく見ればその古さも「綺麗に整えられた古さ」であり、酒と脂で燻され、床も何もかも粘性を帯びているような古さではなかった。


 つまり、雑誌の記事の通り、お洒落な店だ。店主の美意識が徹底的に貫かれ、それが「良い!」と洒落者を自認する人々に賞賛されている店だ。

 

 飾り気のない扉を開けて店内に入って行く人々も、歓楽街で飲んで遊んで…という風情はなく、夜の遊びではなく食事や交流を楽しみに来ています、と言う層である。

 赤ら顔で陽気に酔っぱらいながら突入していくものなど一人もいないし、値段だけしか見ないで買われた服を着ているものもいないように思えた。

 

 これから、トールとしろが店内に入れば、少なくとも後者は二人発生するが。


 「別に、行かねぇなら行かねえでいいっすけど…」

 「いや…行く」


 そんな険しい顔しなきゃ飯屋に入れないなら、行かなきゃいいのに…としろは思ったが、トールはさらに眦を吊り上げて足を前に進めた。


 トールの手が扉を押し開く。内側に開いた隙間から、魔導燈のやや朱色がかった光がこぼれ出た。

 それに僅かに目を細め、更に前へと踏み出す。


 「笹熊の巣穴に踏み込むんじゃねぇんすから…」

 「なんだそれは」

 「シラミネの山にいるバケモノっす。人を巣穴に持って帰って食うっす」

 「物騒なのがいるな…」


 しかし、その物騒なバケモノの話題で少し緊張が解れたのだろう。

 トールは顔を平常に戻し、店内を見渡した。

 外観より広く感じる店内には、卓が十ほどあり、すべて埋まっている。壁に直接埋め込まれた柜台カウンターもあり、そちらは少ないながらも空きがあった。

 どうやら待たずに済みそうだと、しろは胸を撫でおろした。いたたまれなくなって帰ることにした雇い主が泣きだしたら困る。

 

 空いた席にいけばいいものかと足を進めようとする前に、男が一人近寄ってきた。手に注文を書き付ける帳面を持っているところを見ると、店員だろう。

 二人をじろじろと眺めまわした後、口の端を嫌な感じに釣り上げて首を振る。


 「満席でね。またの機会を」

 「空いてるっすよね?席」

 「満席だよ」

 

 店員の言葉に、近くの柜台に陣取る客たちがくすくすと笑う。


 「よくあんな格好で外を歩けるな」

 「やめなよ。まだ子供だもの。お母さんに服を買ってもらっているのよ」

 「それにしたって、ねえ?」


 そんな声に憤りを感じるより、「知らないって怖い事っすね」としろは横に立つトールを伺う。

 前にも同じように揶揄われて、その時は何も買わずに帰ったという事だから、怒り狂って不敬罪で全員処したりはしないだろうが…

 

 「…どうするっすか」

 「…満席、と言うのであれば、致し方なかろう」

 「そっすか」


 声は低いが、いつもの低さだ。怒りを押さえつけているわけではない。

 まあ、客を見た目で追い出すような店で食うより、そのあたりの食堂で甘くない夕食を摂った方が絶対に美味いに決まっている。

 トールには悪いが、甘味よりも普通の食事がしたいしろにとっては、ありがたい事態だ。

 さすがに少し気の毒だし、自分の仕事でもあるから、美味い甘味を出す店でも聞きこんでやろうか、と思案する。

 

 「いくぞ」 

 「うっす」


 踵を返し、店員と客の嘲笑を背中に受けながら入ってきた扉を、今度は引き開けようとしたとき。

 扉が、勝手に開いた。


 扉を押し開けて入ってきたのは、長身痩躯の男。

 ただ、左側頭部は毛がかられ、右側頭部は伸ばして複数の三つ編みを垂らし、女物の胡服を纏っている男だ。

 胡服は無数の蝶が飛び交い、裾付近には色とりどりの花が咲き誇る絵柄が染め抜かれている。お洒落と言えばお洒落なのだろうが、店の雰囲気にはあまりそぐわず、なによりちょっと攻め込みすぎだ。


 男は二人を見下ろし、それからにっこりと満面の笑みを浮かべた。特に、トールに向けて。


 「お帰りになるところなの?お食事には満足していただけた?」

 「え、いや…その…」


 背を屈め、トールの顔にねっとりとした視線を送る。その圧に負け、アスランの雷神は数歩後退した。

 

 「満席だからって、追い返されるとこっすわ」


 もごもごと口を動かすだけで声を出せないトールに変わり、しろが答える。

 もしかして、へんてこ太子なのバレたっすかね?と思ったが、バレたらねっとりした視線は送らないだろう。普通、即座に平伏する。


 「満席ィ?」


 男は背を伸ばし、店内を眺めまわした。

 そして、トールたちの数歩後ろで硬直する店員に視線を止める。


 「アラ、ごめんなさいねぇ。見落としがあったみたい。ご案内しますから、ついてきてね」


 店員の顔は目に見えて青褪めて行っていた。盛り上がっていた客たちも視線を落として黙りこくり、いたたまれなくなるような沈黙が周囲に満ちる。


 「あ、あの、旦那さま…」

 「あとで、店員にはしっかり教育しておくわ。店主として、ね」


 氷のような一瞥を投げかけた後、店主はスタスタと店内を進んでいく。トールとしろは一瞬顔を見合わせ、それから後に続いて足を進めた。

 先ほどの空間にいるのは、気まずいを通り越していたたまれない。しかし、そっと店から出て行くのもなんだか怖い。

 そうなると、道はもう進むしかない。


 「こちら、お使いになって」


 案内されたのは、店の奥の階段を登った先だった。

 二階席にはひとつしか卓はなく、店主の頭は天井すれすれだ。おそらく厨房の上の空間を利用した場所なのだろう。

 

 「ここ、ワタシが選んだお客様しか通さない場所なの」

 「そっすか」

 「うーん、ボウヤもなかなかね。あと十年たったら、楽しみ」

 「ソッスカ」

 「今、御品書き持ってくるから、待っててね」


 上機嫌そうに歩み去る店主の姿が見えなくなるまで、何とはなしに無言で見送る。

 その頭の先が階段の先へと消えてなくなると、トールが深く溜息を吐いた。


 「…なんとか、なったな」

 「顔が良すぎるのも考え物っすねっていうか、よくアンタのツラわかったっすねえ。さっきのヒト」

 「む?」


 一応正体を隠す為、トールは帽子を目深にかぶり、口許まで隠す首巻をしている。 

 僅かにのぞく部分だけで顔立ちは推測もできないこともないが、先ほどの店員たちのように、野暮ったい服装の方が余程目に付く。

 

 「やっぱ都会はいろんなヒトがいるっすね」

 「それはそうだろう。人が多い方がいろいろな人間が集まる」

 「あのヒト、女物着てたっすけど、顔は男のままっつか、髭生えてたっすよね」

 「俺の友人にも、男だが女性の服を好むこのが二人いるが、女性の服を着る理由はその方が綺麗だからだそうだ。男物の服は、形が美しくないからイヤだと」

 「友人居たんすか…」

 「い、いる!まあ、その…多くはないが…」

 「大丈夫っすか?そのヒトら、本当に友人っすか?」

 「友人だ!不安になるような事を言うな!一人は立場上、友人とは言えないが…」


 立場上という事は、現在は臣下とその主になってしまったから、という事だろうか。それとも、敵国の人間だとか。


 「父上の第五夫人だからな。友人と言うのも…義理の親子であるわけだし」

 「は…?」

 「もとは士官学校の後輩でな。卒業後、星龍親衛隊で鍛えて送り出した。その後、目覚ましい武勲を上げた奴だ。俺の目に狂いはなかった」


 だからきっと、サモンも今に…ともにゃもにゃと呟く。そのサモンとやらがなんだか知らないが、先ほど話題から引っ張ったからには、その友人は「男」だ。


 「第五夫人って…男がなれるもんなんすか?」

 「ああ、シラミネでも同性婚は禁じられているのか?他国はそうらしいな」 

 「いやだって、御世継産むのが、お妃様の仕事っしょ?男は産めねぇっす」

 「后妃、王配は王、女王と対の存在ゆえに必ず異性でなければならないが、我がアスラン王家には俺と弟!と、更にもう三人弟がいる。これ以上弟妹が増えることは喜ばしいが、増えずとも問題はない」

 

 しかも一太子が正室たる后妃の子で、有能かつ輝かしい実績付きともなれば、これ以上王の子が増えるのは寧ろ火種になりかねない。

 だから若い側室が欲しければ、産まない男を…と言うのは道理にかなっているのか…?


 「大王さまは、后妃様を溺愛されてると聞いてたんすけど…やっぱ、若いカラダに負けたんすか…」

 「父上を若さだけで倒せるような戦士がいるとも思えんが」

 「物理的な話じゃねぇっす。夜、布団の中でいたす方っすよ」

 「…父上は、母上と同衾なされた翌日、とてもご機嫌になられる。息子としては、やや複雑なものもあるな。つい先日も、な。うむ…」


 眉を寄せてやや視線を落とす。その気持ちはなんとなくわかった。ある程度成長した後、両親が男女であることを見せられるのは何と言うか、困る。

 だが、今はその話をしていない。 


 「でも、若いお妃増やしたんしょ?」

 「カイゲンのことか?確かにカイゲンは弓の名手ではあるが、父上に勝てるとは思えんが…弓を射る隙を見せていただけるかどうか」

 「だから物理じゃねぇっすってば!なんで、第五夫人さんを娶ったのかって話っす!」

 「ああ、それは俺が頼んだ」

 「友人をはけ口にどーぞしたんすか!?ちょっと見損なったすよ!」

 「な、何故責められているかわからんが…」


 音が出ないようにテーブルを手で打つしろに、トールは首を傾げながら説明を始めた。


 「カイゲンは高名な武門の家の出でな。その祖は五代に仕えた『有翼の』イントルだ。そんな家で生まれ育った奴の将来の夢は、お姫様だった」

 「…は?」

 「うむ。戸惑うのも無理はない。何せ、姫と言うものは生まれついてなるものであるゆえ、かなわぬ夢であるからな」

 「いや、そこじゃねぇっす…」

 「お姫様になって、綺麗な服を毎日着る。それが奴の夢だったが、姉君に打ち明けたところ、王家に生まれないとお姫様にはなれないと言われて真実を知り、三日三晩泣き明かしたそうだ」

 「何歳の時の話っすか」

 「十歳と言っていたな」


 その年齢まで思い至らないのもどうかと思うが、武門の家に生まれた男子が「お姫様になる」ことを夢見ているとは、周りも思ってもみないだろう。思ってみるわけがないから、わざわざ教えない。それはそうだ。

 いや、それでも十分おかしいが。

 

 「しかし、奴は諦めなかった。成長し、王の妻になればお姫様にはなれなくとも、妃には成れるという事に思い至った。その夢を実現するため、ますます武芸の腕を磨き、戦術を学び、身体を鍛え上げたのだそうだ」

 「実現の方法が完全に狂ってるっすわ」

 「そして、隣国キリクの援軍に赴いた戦いで大きな武勲を上げたのだ。すでにその時千人長であったし、万人長になるには若すぎる。褒美は何が良いか、友人であり元上官であった俺が聞いたところ、『妃になりたい』と申してな」

 「へー…」

 「最初はまだ妻帯していない俺にという事だったんだが、俺も最初の妻をその…愛のない婚姻で迎えるのは、な?ゆえに、父上の第五夫人にと推薦した」

 

 少し照れた様子の伏し目は、見る者によっては強烈に度数の高い美酒だろう。しかし、今見ているのはしろなので、出涸らしの茶よりも心が動かない。


 「幸い、俺の友人であったときから母上とも面識があり、気に入られていたからな。母上も可愛い服や飾りを贈る相手が出来て嬉しいと仰られ、父上はかなり首を横に振っていらしたが、そういう事になった」

 「御父上に謝った方がいいんじゃねぇすか?」

 「カイゲンは将として非常に優れている。いざと言う時、後宮の警護軍を率いて父上と母上の御身、それに幼い弟たちを守るに足る男だ。それに、断って気を悪くし、アスランと同じく男も妃になれるメルハ諸国のどこかにでも出奔されたら困る」

 

 しろの中で、めまぐるしくアスラン王国八代大王の人物像が変わった。

 最初の「なんかすげー王様」から「若いカラダを欲するおっさん」そして「可哀そうなヒト」へと。

 友人を父に差し出したのではなく、父を友人に差し出す息子と言うのはどうなのだろうか。アスランの為にはなっているのだろうが。


 「この年で夫人増やすのは恥ずかしいと仰っておられた父上も、現在ではカイゲンを信頼し、良く我が家の夕餉にカイゲンも招いているほどだ」

 「愛とかいらねーんすか。アンタは必須らしいっすけど」

 「家族としての愛情はあると思うし、カイゲンは父上と母上を敬愛している。いずれカイゲンが嫁を娶れば、生れた子は親族として可愛がることだろう。…俺や弟がその時独り身であれば、圧が凄まじいことになりそうだが」

 

 夫人が嫁娶るのはいいんすか…と内心に呟く。口に出してもおそらく「何か問題があるのか?」とか言われるくらいだろう。

 これはこの一太子がおかしいのか、この国の王族がおかしいのか。

 たぶん、どちらもだ。


 「おまたせ!お品書きをどうぞ」


 ちょうど会話の途切れた頃合いを見計らっていたのか、店主の声が響き、そして階段から姿を現す。

 その途端、ぴたりとトールは口を閉ざし、気配までスン、と小さくした。


 「あの本に載ってたやつ、頼むんじゃねぇすか」

 「…」

 

 無言のまま、小さく頷く。


 「『甘い岩屋』おひとつね!他には?」

 

 あの揚げ菓子の山盛り、そんな名前だったのかと思いつつ、しろは品書きに目を走らせた。

 必死に覚えたから、ある程度は字も読める。しかし、並ぶ料理の名前から、どんな料理なのか推測はできなかった。

 『黄の奔流』とか『夜霧百里』という料理名から、アスラン人なら「あれか」と思いつくものなのだろうか。


 「…腹減ってないか?」

 「声ちっさ!そりゃ…まあ」


 腹が空いたと言うより、満腹と言う感覚を久しくしろは忘れていた。

 シラミネにいた時は、腹が減れば山に入ってその恵みで腹を満たすこともできたが、大都では金がなければどうしようもない。

 

 「苦手な味は」

 「辛いのは、ちょっと…」


 辛みは、故郷にはない味だ。岩塩が取れたから塩はあったし、蜂の巣を見つけたり、甘葛を煮詰めて甘みを摂ることもできた。

 けれど、香辛料の味は舌に覚えがなく、単純に苦痛をもたらす味としか感じられない。


 「…辛くない料理を二人分。あなたの判断に任せる。それと茶を。あと、その『甘味の岩屋』にあう酒を、くれ」

 「辛くない料理ね!かしこまりました!」


 店主はうっとりとトールを斜め上から見下ろしている。その視線をうけて、トールは何とも言えない曖昧な笑みを浮かべていた。

 歌でも歌いそうなほど上機嫌で店主が去って行くと、トールは卓にへにゃりと潰れた。


 「弟よ…兄は、兄は頑張ったぞ…知らない人と、話したぞ」

 「アンタ、俺とは普通にしゃべってたじゃねぇすか」

 「俺は今、弟に飢えている…よって、自分より年下の相手とならばわりとどうにかできる…。店主も年下かもしれんが、あまり近いと、な…うむ」

 「どういう理屈っすか。まあいいっす。アンタと打ち解けるのも、今日の俺の仕事っすしね」

 「うむ…」


 しろは黙って、トールが話し始めるのを待った。

 

 「…」

 「…」

 「…」

 「…」


 トールは身を起こしたものの、さらけだした口許に曖昧な笑みを浮かべたまま黙っている。


 「なんか、話すことねぇんすか」

 「…何を、話せばよいのか…」


 さっきまでベラベラ話してたくせに、と思ったが、よくよく思い返してみれば、トールから何か話題を振ったことはほとんどなかった。名乗ろうとした時くらいか。


 「何でもいいっすよ。好きなことで」


 なにせ、あの『アスランの雷神』だ。武勇伝には事欠かないだろう。

 他人の自慢話と言うのは退屈なものだが、それも仕事のうちと思えばいい。


 「弟が生まれたのは春の日、一際よい風の吹く日…」

 「ちょっと待てっす」

 「む?」

 「会ったことねぇ弟さんの誕生を語られても、反応に困るっす」

 「す、好きなことというから…」

 「それで弟さんの誕生について語られるとは思ってもみなかったすよ!!」


 色々と端々から伺えてはいたが、この男、どうやら弟溺愛者ブラコンらしい。

 弟、というのは同腹の弟である二太子ナランハルのことだろう。

 そこそこの武勲を上げているらしいが、一太子と比べてあまりにも話題に上らない。昨年の秋に視察に行った隣国で襲われ、現在は療養中らしい…と言うことくらいしか、しろは知らない。


 「では、いったい何を語れば…」

 「戦の話でもなんでもいいっすよ」

 「戦は好きなものではないからな…」


 困ったように呟くトールに、しろは目を瞬かせた。

 しろが知る限り、武人と言うのは戦の話が大好きだ。

 武功を上げたとか、敵を打ち破ったという話が好きなものと、戦った強敵の話が好きなものがいるが、水を向ければここぞとばかりに語りたがるものである。


 「戦うの、好きじゃねえんすか」

 「好きではないな。強くなりたいとは常に願っておるし、その為の努力は惜しまぬが、戦わずに済むならばそれが一番いい」

 「じゃあ、何のために強くなるんすか」

 「…諦めぬ為だな。己が弱いせいで誰かを、何かを、諦めたくはない。俺はわりあいに強欲なのだ。諦めるという事が、我慢ならぬ」

 

 もう十分に、トールは強い。

 戦う力も、権力も、この世でトールより上のものは、指折り数える程度だ。もしかしたら父王一人しかいないかもしれない。

 

 だが、まだ足りないと。

 その満月色の双眸は静かに語る。


 「それに、兄として負けるわけにいかんのが二人ほどいてなあ」

 「弟さんすか?」

 「弟に刃を向けられた時点で俺は死ぬ」

 「うわ…」

 「まあ、弟分だ。二人とも強くなるという意志はおそらく俺以上。気を抜くと負けるかもしれん。だが、まだ駄目だ。あやつらは、もっともっと強くなる。俺を負かしたらそこで満足してしまうだろうからな。それはいかん」

 「そういう事言っていると普通にいいお兄さんっぽいのに、なんで実の弟さん絡むと頭悪くなるんすか」


 せめてもう少し、このヒト格好良いんじゃないかと思わせてほしい。

 その辺の奴が見て失望したらどうするんだと考えている自分に、しろは唖然とした。

 今日初めて会った、金で繋がるだけの人間だ。

 なのに何故、失望して顔を歪める奴という、想像上のものでしかない存在に憤りさえ感じている。

 これは、拙い。あまり傍にいたらいけない。


 そんな危機感すら覚え、思わず立ち上がろうと腰を浮かしかけた時、階段をあがる足音がした。


 「はーい、『白の饗宴』お待たせ~」


 店主自ら運んできた深皿は、芳香たちのぼる料理で満たされている。

 乳を煮込んでいるのだろう。とろりとした汁の中に白っぽい肉がごろごろと転がっていた。


 「豚肉と蕪と牛乳で煮こんでいるの。西方風の面包パンをつけて食べてね」

 「う、うむ。美味そうだ」

 「あと、お茶ね」


 店主の後ろからは、引き攣った笑い顔を浮かべる店員が現れた。手に持つ盆には、茶の入っている硝子の瓶子と椀、それに籠に盛られた白っぽい面包が乗っていた。


 「食べ終わった頃、お目当てをもってくるから」

 

 先ほどの注文でいろいろ使い果たしたらしく、トールは曖昧な笑みを浮かべたまま、何度も頷きを繰り返している。

 店主が店員を引き連れて去って行くと、目に見えて安堵していた。


 「食おう。冷めては旨さが半減する料理のようだ」

 

 二人の前に置かれた深皿…と言うより、木製の鉢と言った方が良いだろう。そこに料理はたっぷりと盛られ、皿と同じ木で作られた大きな匙が刺さっている。

 小さな木製の深皿も二つ置かれ、そこにも匙が入っていた。つまりは、取り分けて食べるようだ。


 「苦手なものはないと言っていたな」

 「ねぇっすけど…」

 「うむ」


 トールの手が深皿を取り、鉢から料理をよそう。そして、しろに差し出した。


 「え…」

 「ん?苦手なものはないのだろう?」

 「ねぇっすけど…俺が食うものと、その、同じ皿からとるの…気にしねぇんすか?」

 「何故?気にするような事か?」

 「普通、気にすると思うっすよ」

 「そうなのか。シラミネの習いか?」


 いや、世界共通だと思うっすよ、と答えようとして、しろは言葉を飲み込んだ。

 このへんてこ太子が気にしないのなら、それでいい問題だ。


 「かもしれねぇっすね。アスランじゃ気にしないんすね」

 「ああ。舐めまわした匙や箸が突っ込まれた料理から取り分けるのは、さすがに家族や友人以外は御免こうむるが…」

 「そりゃそうっす」

 「これこのように、とりわけ用の匙があるのだから、それも問題ない」

 「そうっすね」


 頷きながら『白の饗宴』と名付けられた煮込みを、匙で掬いとる。

 口に運び、舌に乗せれば、まず広がったのは熱さ。そして肉の旨味、蕪と牛乳の甘さ。


 「うまいな」

 「…っす」


 熱くて、美味い。

 どれだけ久しぶりだろう。そう感じたのは。

 誰かと、食事を共にし、その美味さを分かち合えるのは。


 「…ほんと、美味いっす」

 「うむ。食事が美味い店は甘味も期待できる。今宵は共に来てくれてありがとう。俺一人であったら、おそらく店に入れなかった」


 にこにこと上機嫌で匙を運び、「美味いなあ」と呟く。

 心からそうとしか思っていないとわかる顔に、しろは内心で白旗を上げた。


 深入りしない方が、やっぱり良かった。

 駄目だ。もう、自分は目の前の人物を「どっかの誰か」と思えない。

 絆されるとは、こういう事か。人たらしめ、と内心に悪態を吐き、料理を負けじと口に運ぶ。


 互いに二皿おかわりしたところで、煮込みも面包もなくなった。

 少し冷めた茶を含めば、どうしても脂の味が強く残る口の中が洗われていく。

 どちらともなく満足げな溜息を洩らし、食事の余韻を楽しんだ。


 「はーい、お目当ての登場ですよ」


 茶も二杯おかわりし、食事の余韻から覚めた頃、店主が今度は一人で現れた。

 盆の上には本に載っていたよりも個数を増したように思える、揚げ菓子の山と薄い緑色の液体が入った硝子の杯。


 「アフダル産の葡萄酒よ。ボウヤには、カーラン産のウーシャン茶。色が同じで、同じもの呑んでいるみたいでしょ?」

 「お、お気遣い、感謝いたす」

 「いいの!ワタシ、美しいものに尽くしたいだけだから!じゃあ、最後まで楽しんでね!」


 とびきりの笑顔を見せて店主が退出していく。それを曖昧から引き攣り笑いに種類を変えたトールは見送り、そして菓子の山に視線を戻した。

 途端に、引き攣り笑いが満面の笑みに変わる。


 「うむ!うむ!実に良い!」

 「うわ…こってりした料理の後に食いたいもんじゃねぇっすね」

 「そうか?実に美味そうだと思うが。お前も食えるだけ食ってよいぞ」

 「じゃ、一個だけ…」


 揚げ菓子(ボールツォグ)は、しろも良く食べるアスラン料理だ。

 油でぎとつき、咬み砕くとぼそぼそと咥内の水分を持っていくが、腹持ちが良い。

 値段もひとつ銅貨十枚程度と安く、屋台で気軽に買い求めることもできるから、身形を気にする必要もない。


 だが、まあ胃に余裕はあるしと口に運んだ揚げ菓子は、今までしろが口にしていたものと違っていた。

 さっくりふんわりと軽く、ほのかな甘さが広がる。腹にはたまらないが、いくつでも食えそうだ。


 「ウルムがついている部分も食うと良い。果物を乗せるとなおよいぞ」

 「ウルム?」

 「乳を温めるとできる膜を集め、砂糖や蜜を入れて練ったものだ。ここのは、蜜を入れているな。この仄かな甘みと酸味は、柑橘の花の蜜で作らせた蜂蜜か」


 そう言われて、試さないわけにはいかない。

 揚げ菓子同士をくっつけ、山を形成するためにウルムは使われているようだ。なるべく多くついている部分を引き抜き、近くにあった赤い実を乗せる。

 落ちないように急いで口に運べば、赤い実の酸っぱさとウルムの甘さが素晴らしい。これだけで食べても絶対に美味いと確信できる。

 しかし、そこに揚げ菓子が加わると、さらに美味さが増す。ひとつだけ、と思っていたのに、気が付けば三つ四つと手が伸びていた。


 「よし、お前は甘いものが好きだな!これからも同行を頼んだぞ!」

 「いいっすよ。コレ次第でどこまでだってお供するっす」


 指で輪を作って見せたのは、わりと精一杯の矜持。

 己が仕えるのはただ一人と決めているのだから。簡単に変節してやるものかと。


 「酒も実にあう!アフダルの葡萄酒はもともと好きだが、これは良いな!」

 「酒なんすよね?なんか、泡出てません?」 

 「アフダルの葡萄酒の特徴だな。僅かに発泡している。美しい緑の中、白い玉が浮かんでは弾けるを見るのも好きなのだ」

 「甘味にあう酒なんすか?酒ってふつう、しょっぱいモンを肴にするっしょ」

 「俺は旨いと思うぞ。この酒はほのかに甘く、口当たりがいい。実にこの揚げ菓子にあっていると思う」


 杯を口に運び、ぐ、と飲んでは揚げ菓子を頬張る。頬に赤みの予兆もないところを見ると、かなり酒はいける口らしい。


 文字通り山だった揚げ菓子は、あっという間に二人の口の中に消えた。

 最後に一口残していた酒と茶をそれぞれ飲み干し、「ぷはー」と満足と満腹と書かれているような息を吐き出す。


 「店は混雑しておるようだし、会計を済ませて出よう」

 「そっすね」


 階段下からは喧騒が昇ってきている。

 とは言え、夜の歓楽街にありがちな、がなり声や怒鳴り声に調子が外れた笑い声ではなく、大勢の人間が喋り楽しんでいる…そんな賑やかさだ。

 

 「良い店だ。また来たい」

 「次はあの店員、すぐに席に案内してくれるっしょ」

 「そうだな」


 くすくすと笑いながら階段を降り、会計を済ませ、名残惜しそうな店主にトールが引き攣り笑いを返し、夜の街へと歩み出る。


 目指しているのは、カララ通りから外れた住宅街の一角だ。

 大都の通りは東西南北を貫く「千羊大道」と「万馬大道」を始めとし、大きな通りには名が付き、そうではない道には番号が振られている。

 目指す一角は、数字が振られた道に沿って、小さめの家が立ち並ぶ。古い家が多いのは、前々から住宅地であったからだろう。


 まだ寝静まるには早い時間だが、人通りはなく、家の窓から漏れる灯りも少ない。

 それはこの辺りの家の主の多くが、旅商人だからだ。


 アスランは交易の国である。商業は保護され、税は最後に持ち運ぶ商品を売る地で支払う事となっており、町を出入りするたびに賄賂を払って許可を得なければ二進も三進もいかない、などという事はない。

 他国で商品を売って戻ってきたときも同じだ。馬車や背負子に詰め込まれているのが商品か銭かの違いはあれど、支払うのは最終目的地だけとなる。


 さらに大都が最終目的地かつ、大都に住居があれば、その税を大都に入った時ではなく、あとで役所に収めに行く事も許されている。

 つまり、荷を売って金が出来てから税金を納められるし、もしも売れなければ価値が下がったという事で、税金自体が見積よりも安くなるのだ。

 

 だから、旅商人たちは小さく古く、安い家を大都に買い、戸籍を置く。

 実際に住むことはあまりなく、大都へ戻ってきたときに使う程度だ。一年二年留守にすることも珍しくはない。

 

 そんな旅商人の住まいの一角に、トールの隠れ家もある。

 

 隠れ家と言うか、抜け道と言った方が適切かもしれない。

 三室しかないこの小さな家には、星龍宮へと繋がる転移陣が設置されている。

 菓子を買いに行ったり、街へと繰り出すのに、わざわざ王宮の門を通り抜けては時間もかかるし人目につく。

 なので、トールはこうした『隠れ家』を幾つも持っていた。


 通路として使っているだけの家ではあるが、転移陣が設置された一室以外は、ごく普通の家のように装われている。

 寝室としている部屋には寝台が置かれ、服やらを入れておくための箪笥もあり、ここで着替えて行くこともあるらしく、中身も入っていた。


 「俺の今夜の仕事は終わりっすね」

 「ああ。善い夜だったな。実に良かった」

 「そっすね」


 本当に、いい夜だった。

 食事は美味く、そして、久しぶりに「なんでもないこと」を話して、笑って。

 忘れていた。自分はもともとおしゃべりで、一人で過ごすよりも誰かと一緒の方が好きで。


 「そうだ。今後の事なのだが」

 「あの口入屋を通すっすか?」

 「いや、それでは限定の商品が売り切れる恐れがある。お前はこの近くに住んでいるのか?」

 「まあ、そんなトコっす」


 正確には、カララ通りから入った先の、所謂貧民窟だ。

 だが、それを口にするのは嫌だった。「善い夜」から現実に引き戻されるのは、もう少し先にしておきたい。


 「持ち家か?」

 「まさか。その日払いの宿っすよ」

 「ならば、問題ないな。ここに住んではくれまいか?」

 「は?」

 「お前がここに住んでいれば、いつでも呼べるし、お前も暇なときに来れるだろう?我ながら良い提案だと思うのだが…」


 しろは呆然と、小さな家を見回した。

 狭く古いが、しっかりした壁と屋根があり、家具もある。


 「水道は引いているし、厠もある。風呂はついていないが、うちに入りに来ればよかろう。厨房もないが、湯沸かしの魔導具はあるぞ」

 「…いいんすか?」

 「悪ければ提案せん」

 「けど、こっからもそっちに行けちまうんでしょ?…どうして俺をそこまで信用するんすか?寝首かかれるかもしれねぇっすよ?」

 「できるものならやってみろ、と言っておいてやろう。少し、見てみるか」


 ふふ、と口の端に笑いを乗せたトールの気配が、変わった。


 「…!?」


 荒れ狂う向かい風をまともに受けたような、息苦しさと圧。 


 それを受けて思い出したのは、故郷の山々に住まう魔獣のこと。

 笹熊は人を襲う恐ろしい魔獣だが、それよりもシラミネの民が畏れる存在。


 「らごう様」と「それ」は呼ばれていた。

 見た目は、狼に近しい。しかし、狼には前を向いて生える角も、身体と同じ長さの尾もなければ、うっすらと発光してもいない。

 

 「らごう様」は人を襲うわけではない。ただ、通るだけで家は薙ぎ倒され、畑は抉られ、もしも人がいれば圧し潰される。それだけだ。

 笹熊は人を敵と見做しているが、「らごう様」は気にも留めない。

 人がどれほど手を尽くそうが、傷ひとつ付けられないことをわかっているのだ。ちょうど人が、羽虫を鬱陶しがりはすれ、憎み恐れはしないように。


 このヒトも、同じだ。


 何とか唾を飲み下し、しろは理解した。

 圧倒的に強いからこそ、無暗に警戒する必要がない。

 信じたいと思えば、それでいい。


 ふ、と圧が消えた。トールは体勢も変えず、相変わらず口許に笑みを浮かべて立っているだけである。


 「俺は、普段魔力を意識せずに自分の周囲に張り巡らせている。防護壁、というほど立派なものではないが、致命傷になるほどの攻撃を当てるのは困難だろうな」

 「あっさり言いますけど、人間離れしてるっすね…」

 「先ほどは、その無意識の魔力を『意識』した。あの程度まで出力を上げれば、矢の百本くらいならば防ぐ」


 とは言え、戦の最中などはいつでも大規模な術式を展開できるよう、防護に使う魔力も使ってしまうので、万能とは言い難いのだが。そのため、トールの身体のあちこちには、様々な傷が残っている。

 だが、そこを説明する必要はない。しろが危惧しているのは、警戒心を解く自宅での時間だ。


 「それに、マルトがいるしな。だから心配しなくていい」

 「アンタが強いのはよくわかったっす。つーか、ほんと、今日初めて会った人間をよくそこまで信用できるもんっすね」

 「…恥を忍んで言うが」


 く、と顔を逸らし、トールは拳を握り締めた。

  

 「俺は…俺は、人見知りをするのだ…!」

 「わりと知ってたっす」


 しろの回答に、あっけにとられた顔をしているが、なんで気付かれないと思っていたのか。


 「そ、そうか。敏いな」

 「いやー…気付かない方がおかしいっすけど、まあいいっす。続けてくだせえ」

 「う、うむ。弟不足と言う追い風もあれど、お前とはわりと、打ち解けている。これは、俺にしては大変に珍しい事なのだ」

 「へー」

 「俺はそれなりに人を見る目には自信がある。つまりだ!すぐに打ち解けられたお前は、信じるに値するものだと言う事だ!」

 「そっすか」


 一体、自分の何を信じてくれたのか、さっぱり見当もつかないが。

 そう言われて、悪い気はしなかった。


 「んじゃ、ありがたく使わせてもらうっす」

 「うむ!では、これが家の鍵だ!」


 嬉しそうなのは、しろの「次」を、冷や汗たらしながら面接する必要がなくなったからか。

 例えそうでも構わない。打算が一つもない人間関係などあり得ないし、しろだってただ働きをするつもりはないのだから。

 そう、ない。ないつもりだ。


 「あ、この服、次までに洗濯して返すっすから」

 「それは俺にはきついと言っただろう。貰ってくれ。箪笥の隅に追いやられているより、服にとっても良いだろう」

 「んじゃ…ありがたく」

 「他にもそういう服があるから、明日にでも持ってくるか、マルトに持たせる。もしくは、明日の昼過ぎにでも来てくれ。うむ。来てもらった方が良いな。ラスにも紹介したいし」

 「ラスさん…っすか?」

 「ラーシュ・アーレ。星龍親衛隊長だ。たまにラスにも菓子を買いに行ってもらっていたからな」


 どんな人だか知らないが、菓子を喜んで買いに行くほど暇な人ではあるまい。

 それに、この一太子がしろを紹介すると楽しそうに言うのだから、得体のしれない異国人に対し、ごく常識的な対応をするような人ではないのだろう。

 普通は、主のお側にしろのような怪しい者を近付けたりはしない。だが、この一太子の周囲もへんてこだ。きっと。


 「では、俺は戻る。おやすみ」

 「はい。おやすみなさいっす。明日、昼過ぎっすね」

 「うむ」


 鷹揚にうなずいて、トールは転移陣の設置された部屋に入って行った。なんとなくついて行く。

 青白く光る陣に足を踏み入れながら、トールは笑って左胸を叩いた。それはアスランの軍礼であり、しろの知らない挨拶だったが、なんとなく意味は伝わる。


 「…へへ」


 今朝までの棲家と違い、饐えた臭い、虫や鼠の気配はない。

 最後の一部屋、寝室に入って、寝台に横たわる。


 もし、このまま眠って、目が覚めたらあの穴倉にいたら、自分は立ち直れるだろうか。


 あの人を探す為なら、どんなことでもやるつもりで。

 そして、どんなことでも、やってきた。

 

 ごめんなさい。ちゃんと、忘れてねぇっすから。

 でも、今だけ、今夜だけ。


 この『善い夜』に包まれて、眠りたい。


 そう願いながら、目を閉じる。

 睡魔はいつの間にか寄り添っていたようで、意識はふわりふわりと夢に沈んでいく。


 「!!」


 だが。

 不意に走った右腕の刺激に、しろは跳ね起きた。


 トールから譲られた服の袖を捲れば、腕にはまった、何の飾りもない腕輪が目に留まる。

 鈍色に染まった腕輪。

 そこから再び、針で突かれたような刺激が走った。


 「…っクソ…!」


 今夜だけは。

 今夜だけは、嫌だったのに。


 しろはのろのろと寝台から立ち上がり、風呂場で脱いで布に包んで持ってきた元の自分の服に歩み寄る。

 洗濯するぞとトールは言っていたが、返してもらっておいて、本当に良かった。


 あのクソ野郎の前に出たら、せっかくの服が汚れる。


 「…」


 腕輪から発せられる刺激は、だんだん強くなってきていた。

 だが、それに眉ひとつ動かさず、しろは機械的に服を着替える。


 家から出て、鍵を締め。

 小さな銀色の鍵を、大切に懐にしまった。まるでお守りのように。


 夜の中、歩き出す。遠くカララ通りから流れてくる喧噪は、いつもより煩く聞こえた。

 目的地に着いた頃には、腕の刺激ははっきりと痛みと言えるまでに強くなっている。しかしそれでも、しろの表情も心も動かなかった。


 カララ通りから少し離れた場所。

 娼館の主人などが屋敷を構える一角に、しろは足音もなく忍び込む。


 目的地である一際大きく、豪勢な屋敷は、『黒涙屋敷』と呼ばれていた。

 騙され、買い叩かれて身を売る娼婦男娼の涙で建てられた屋敷だと、人々はこの屋敷を見て噂する。

 化粧が溶けた黒い涙。酷使された挙句命を落とし、ろくな埋葬もされず腐っていく死体の眼窩から流れ出る黒い体液。そうしたもので建てられているんだよ、と。


 その屋敷の奥深くに用がある。警備はいるが、しろにとっては無人のようなものだ。

 出入りの瞬間を狙って入り込み、するすると金は掛かっているが悪趣味な屋敷の中を進んでいく。


 他の扉よりも明らかにごてごてとした、金銀がふんだんに使われている扉を開いて中に入ると、甘ったるい臭いが充満していた。

 やっぱり、あの服を着てこなくて良かった。そう心から思う。


 「遅い」

 「ちょっと遠くにいたもんで」

 「晩飯用の鼠でも追いかけてたのか?野良猫みてぇなもんだもんな」


 魔導燈の光でも絹製とわかる光沢を放つクッションにうずもれるように、男が一人と女が三人いた。三人とも、前見た時と違う顔だ。


 甘ったるい臭いの煙を、男は吐き出す。それが出きったのを見計らって、半裸よりも裸に近い装束の女が、煙管を口許に持って行った。

 だが、男はそれに吸い付かず、再び言葉を放つ。


 その声も、言葉も、臭いをつけたらきっと甘ったるい腐臭だ。


 「三日間やる」

 

 女の一人が立ち上がり、しろに歩み寄ってきた。その手には一枚の紙が摘ままれている。

 無表情のまま、女は紙を差し出した。その黒い瞳には、何の光も感情も宿っていない。絶望のさらにそこを見せられ、目を閉じることもできなかった。そんな目だ。


 「嫌そうだなあ。おい。売りに出しちまうぞ?お前のお友達」

 「やらねえとは言ってねっす。二日で終わらせるんで」

 「いいねえ。ま、身請け金までこれであと少しだ。中々死なないせいで息子が殺しを頼んでくる、そのジジイみたいな小物じゃねぇ大物相手なら…あと一回ってとこだ」

 「じゃあ、さっさとそういうの回してくだせえ」

 「わかったわかった、勤勉で結構だ」


 もう、ここに用はない。

 次に用があるのは、この紙に書かれた老人だ。

 悪臭漂う部屋から抜け出し、しろは固く目を瞑った。


 ああ。今は、今夜だけは。

 『善い夜』を過ごしたかったのに。


 だが、それでも。

 どんな細い糸でも。その先に手掛かりがあるのなら。


 「…待ってて、くださいね。必ず…」


 乳兄弟だった。

 ずっとそばについて、一緒に育ち、守るはずだった。

 三歳の時に攫われて、うっすらと、その体温だけ覚えていた。


 隠密の技を覚え、身体を鍛えて、いつか必ず、隣国へ乗り込んで助けると、それだけを誓って育って。

 その大切なひとは、ある日、敵であるはずの隣国の者に連れられて帰ってきた。帰ってきてくれた。

 

 どれだけ嬉しかったか。

 どれだけ、助けに行けなかった自分が不甲斐なかったか。


 なのに、隣国の間諜だと疑うものがいて。

 ある日、今度は同じシラミネの者の手で、あの人は連れていかれてしまった。

 見聞を広めに行きましょうと騙され、人買いに売り渡すためにシラミネから連れ出されて行ってしまった。


 他の任務から戻り、それを聞いたときには、既に十日が過ぎていて。

 休む間もなく追って掴んだのは、南の隣国、アステリア聖王国の辺境の村で、アスラン人の男三人が連れてどこかに行った、と言う情報だけ。

 

 だから、しろはアスランにやってきた。死に物狂いでこの国の言葉を覚え、人買いに関わると噂される人間を探った。その間、金を稼ぐためや脅しの為に、技を幾度も使った。

 そして、このクソ野郎に辿り着き。いや、手繰り寄せられたというべきか。


 シラミネ人を確かに一人買い付けたが、まだ売り物にはしていない。

 身請けしたかったら、その分働け。


 その提案を、しろは飲んだ。奪い返しに行く事も考えたが、何処にいるのかわからない状態で動くわけにはいかない。言う事を聞くふりをして、探る。

 だが、本来、アスランでは、民間での人身売買が禁じられている。娼館で働くのは、あくまでも「本人の借金」を清算するため、という事になっているのだ。

 その裏で他国からも人を買ってくるなど、大っぴらにはできない。発覚すれば主犯は斬首、家財は没収と決まっている。当然、男は用心深く「商品」を隠していた。

 

 伝手も何もないこの大都で、しろがその秘密を探り当てることは不可能に近く。

 冬が始まって終わり春になるこのころまで、男の「道具」として手を血で染めて。


 男が約束を守るとは、しろも思っていない。

 だが、ある程度までは男はしろを「使う」はずだ。ある程度が終わった後、どうやって始末するかはわからないが、その時、必ず男は加虐趣味を満たす為に自ら動く。

 今までも、男の「道具」をしろが始末する側だった時、男は常に同席していた。

 ならば、しろを始末するときもそうするだろう。


 その時が、最後の好機だ。


 本当は、理解している。

 きっと、あの人はもういない。

 あの男が、しろとの約束を律義に守っているとは思えない。


 だから最後。

 最後、汚らしい愉悦に浸るあの男に、狂い死にするほどの恐怖と苦痛を与えて殺す。

 その苦痛を備え、あの人の魂を救い出す。

 復讐がなにも生まないなどと、しろは思わない。きっと、あの男の何千、何万倍も苦しんだあの人の魂は、供物によって救われるだろう。


 「かならず、あなたに報います。それまで、待っててください。ヤクモ様」


 呟く声は、昏く、重く。

 何故か、懐の奥底で、銀の鍵が仄かに熱を帯びたような気がして。

 

 しろは季節外れの冬服の上から、そっと。

 『善き夜』の名残のようなその鍵を、抱いた。

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