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一太子様は疑われているらしい

 「とりあえず、だが。髪を一本くれ」

 「…結構上級の変態さんなんすか?」

 「何故そうなる?」

 

 ややトールから身を逸らすしろに、トールは怪訝な顔を向けた。


 「おや、宮に連れて戻られるので?」

 「問題がなければな。この服装では、夜はともかく昼は暑かろう。それに、店に入って嫌な思いをするやもしれん」

 「あー…前に、どっかのお店で他のお客さんに、ダッさ!て言われて殿下泣いたもんねえ」

 「…いや、あれはだな、言われたことに対してではなく、それでいたたまれなくなって帰ってしまったゆえ…食えなかったことが悔しくてだな…」


 泣いたことは事実なんすか…としろは思ったが、どうやら案じているような事には使われないようだ。

 手入れがされず、我ながら酷いなと思う髪を一本引き抜き、トールへと差し出す。


 「うむ」

 「…わっ…」


 受け取った髪を掌に載せ、トールは左右の手を肩幅ほどに開いた。

 途端に、その掌の上に青く輝く陣が現れる。


 「陣を見るのは初めてか?」

 「書いてあるのはみたことあるっすけど…」


 隠し切れない好奇心が揺れる眼で、しろは青く輝く陣を見つめた。


 陣は、アスラン独自の魔導術式だ。

 西方の詠唱にかわり、記号を組み合わせ、効果を発揮する。

 

 石や金属に刻めば、何度でも同じ効果を発揮することができ、アスランの各所を繋ぐ転移陣もそうして半永久的に発動し続けている。

 また、魔力を凝らせた結晶である魔晶石を組み込むことで、魔導の心得のないものでも同じ効果を得ることが出来るため、アスランでは魔導具が生活の一部になっていた。

 こんな場末の店でも、天井から吊り下げられた灯りは、蝋燭や松明の生み出す明りではなく魔導具だ。


 しかし、その反面、紙や何かに「記す」ことが必要なため、発動に時間がかかる。そのため、アスランの魔導士はあらかじめ書き記した陣を持ち歩くのが基本である。

 それを己の魔力でやってのける魔導士は、トールを含めアスラン全土でも十人いるかいないかだろう。


 「ふむ。髪が燃えたり爆発四散したりはせんな。問題なし、と」

 「それで何がわかるんすか?」

 「お前を転移陣に通しても、死にはしない、という事がわかる」

 「は?」

 「転移は魔力に弱い体質だと、魔力酔いを起こす。で、稀に心臓が破裂したり脳が溶けたり、穴と言う穴から血を噴き出す…事もある。それ故、通す前にこうして試さねばならん」


 それ以上口には出さなかったが、百人に一人くらいは死ぬ。そのため、軍の移動などには転移陣は使えない。

 そうでなくとも、多人数を通す陣は構築が難しい。トールでさえ、即席で構築するなら十人程度までだ。

 

 「死にはしないって事は、死ななくてもどうにかなるかもって事っすか?」

 「いや、せいぜい軽い眩暈を覚えるくらいだろう。ひどい魔力酔いを起こす奴は、髪がチリチリになったりする」

 「俺がそーゆーヒト~。でも、気にせず突っ込まれたよねえ」

 「死にはしないから良かろう。では、俺は先に戻る」


 色褪せた絨毯に、その模様より遥かに美しい青い光が奔り、咲く。

 陣の心得がないものが見れば、不可思議な模様が連なる万華鏡のようだ。

 

 ちなみに、心得があるものが見れば、『転移』『発動』と言う記号の他は住所が書かれているのがわかる。


 「行くぞ」

 「…ここに、入るんすか」

 「うむ。特に身構える必要はない。マルト、飲みすぎるなよ。スットコドッコイ、ツケをこれ以上増やすなよ!俺は銅貨一枚も払わぬからな!」

 「財布の厚みの範囲で遊びますとも~」

 「ちゃんと見とくから。じゃあ、またね。しろちゃん~」


 しろは、僅かに悩み…そして、一歩を踏み出す。

 素足が陣に踏み込むと、淡い光に包まれる。しかし、足だけ先に転移するとはならないようだ。


 「まだ発動を待機しているからな。出ると、僅かに落下する。だが、着地に気を付けるほどではない」

 「そうすか」


 完全に陣の中に進めば、少し暖かかった。

 自分の手が青い光に包まれ、輪郭がぼやけるのを見て、柘榴色の双眸はさらに好奇心に塗りつぶされる。

 

 「いくぞ」

 「!」


 それは、本当に一瞬。

 いや、瞬きをする暇すらなかったかもしれない。


 無意識に着地の衝撃を膝を曲げて打消し、伸ばせば。

 そこは場末の安酒場ではなかった。


 素足が伝えるのは、硬くごわついた安物の絨毯の感触ではなく、ふっくらとくるぶしまで埋める柔らかさ。

 お世辞にも綺麗とは言えない足の裏で踏むのは、罪に問われるんではないかと危ぶまれるほど美しい、青銀色の敷布。

 現在、しろが世界で一番嫌いなクソ野郎が自慢していた、大兎の毛皮でつくられた敷布に似ている。だが、それよりも大きく毛足も長い。

 

 足を動かして良いものか、しろは迷った。これが大兎の毛皮なら、確か青銀は珍しく、大変に高価な最高級品だ。

 あのクソ野郎の自慢が真実なら、薄茶色の一番見掛ける色の毛皮でさえ、羊百頭分の毛皮と同じ値段になるらしい。それより大きく、最も珍しい色なのだから…千頭分、いや、そもそも金で買おうとして買えるのだろうか。


 「…アンタ、そうだとは思ってはいたっすけど、すげー金持ちなんすね」


 なるべくつま先立ちで立ったまま室内を見渡す。

 壁際には長櫃や棚に衣文掛けが置かれ、その上やあちこちに毛皮や毛布を敷いた籠や箱がある。おまけに、何故か枝がそのまま突き出している木が中央付近に鎮座していた。

 

 「なんでそんな立ち方を…」

 「なんとなくっす」

 「そうか。まあ、好きにするとよい。ああ、それと先ほどの問いの答えだが、金持ちではあると思うぞ。無駄に使うことはできぬが、甘味を買うくらいは問題ない」


 がたがたと棚から籐で編まれた籠を引き出し、そこから服を取り出していく。夏用の胡服一式に、別の籠から肌着も登場した。


 「肌着はまだ着ていないやつだからな」

 「いや、って言うか、何で服だしてるんすか?」

 「む?先ほど言っただろう。夏にその服では暑かろうし、ろくでもない奴に嫌な言葉を投げつけられるやもしれん。だから、着替えた方が良かろうとな」

 「服買うような金の余裕はないんで、いらねぇっす」

 「俺も服を買うのは苦手だ…。店員が寄ってきて、何かお探しですか、などと聞かれたら…」


 そもそも、服を選ぶこと自体苦手を通り越して何をしたらいいか分からないというのに、そこに見ず知らずの店員から質問されたら、うっかり魔力を暴走させてしまうか、泣くかもしれない。


 「だが、安心せよ。これを着ると良い」

 「だから!金払えねえって!」

 「…?ああ、金は要らぬ。母上から頂いたのだが、俺にはやや小さくてな。一度着たが、窮屈で…」

 「小さい…っすか」


 ほぼ全てのものを天に与えられているトールであるが、唯一貰えなかったもの。

 それが、身長だ。


 とは言え、決して矮躯というわけではない。人並、と言うか、長身ではない程度だ。むしろトールの顔に見上げるような長身は似合わない。絶対に違和感がある。


 しかし、出来る事なら…少なくとも弟より、大きくありたかった。

 その弟は、男女ともに背が高いヤルクト氏族の中でも「大男」と呼ばれるほどの身長であるが。

 

 いつでも弟の頭に簡単に手を伸ばし、撫でまわせるくらい…そして、軽々と抱っこしてそのあたりを歩き回りたかった。

 現在の身長でも腕力的には軽く抱えられるし、そんなことをしようとすれば、弟は猛烈な抵抗をするが、それはそれ、である。

 

 「た、丈はともかく、胸回りや袖回りがな!」

 「丈 あってるなら、着れるんじゃねぇすか」


 近寄ってきたトールが差し出した服は、確かにしろなら少し余る程度に着れそうだ。

 しかし、身長でいえば、トールとしろの差分は拳ひとつ程度。ぴったりとした造りの服ではないから、問題ないように思える。


 小さくて着られないと下げ渡す口実にしているのであれば、それは少し、気に障った。


 「これを見てもそう思うか」


 些かムッとした顔をしながら、トールは着ていた胡服の袖をまくる。

 上腕まで無理矢理露出させると、その状態で力を込めて腕を曲げて見せた。


 途端に筋肉が膨らみ、鍛え上げられた戦士の腕であることを証明する。


 「…顔に似合わず、ムキムキなんすね」

 「俺が得意なのは刀だけではない。長槍も振るえば、大斧も使う」

 「騎士様なんすか」

 「将である前に、騎士であり、戦士だ」


 アスランでは、騎士とは身分ではなく職業である。

 士官学校に入学し、卒業し、試験に合格することで資格を得る。他にも千人長以上の武官が推挙し、その上官が許可すればなれるが、こちらの道は士官学校入学卒業よりも厳しい。

 

 良いところの坊ちゃんぽいし、士官学校卒業かなとしろが考えていると、突然トールの動きが止った。


 「何かを忘れていると思っていたが…俺としたことが、名乗っていないな」

 「ああ、そういや…紹介を頼んだのは、『灰色蜘蛛』って聞いてるっすけど」

 「そういえば、そんな名前で呼ばれているのだったな」


 くすくすと笑いながら「蜘蛛苦手なのにな、あやつは」と続け、それが可笑しかったらしく噴き出している。


 「暗殺者を誘い込んで殺す暗殺者っすよね。蜘蛛はぴったりの仇名じゃねぇすか」

 「本人が聞いたら、嫌な顔をするから言わんでやってくれ」

 「…暗殺者の機嫌を気にするんすか」

 「俺はあいつを暗殺者と思っておらん。元暗殺者ではあるが。今は俺の守護者スレンだ」

 「スレン…?」

 「分かり易く言えば…己が一部だ。己が嫌なことはされたくないし、やりたくもない。だから俺は、マルトが蜘蛛と呼ばれるのが嫌ならば、やめてくれと言う」

 「全然、分かり易くねぇっすけど」


 変な…いや、甘い御仁だ。

 あの男は、元暗殺者などではない。

 現役かそうでないかくらいは、見れば見当がつく。あの男は、間違いなく現役の暗殺者だ。


 このお坊ちゃんが騙されているのか、それともわかっていて使っているのか。


 おそらく、後者だろう。しろの嗅覚はなは誤魔化されない。

 だが、同時に裏家業の人間独特の饐えた臭いが、あの男にはなかった。

 暗い道を歩くうちに、両手にも両足にもべっとりと張り付き、剥がれない。血が腐った臭い。

 そのあたりが、「やや違う」という事なのか。


 それなら、自分もこのお坊ちゃんに使われて、菓子を買うのを生業にしたら。


 視線を落とす手は、荒れてはいるが血や腐肉で汚れてはいない。

 しかし、しろの嗅覚は嗅ぎ付けてしまう。

 擦っても、擦っても…奮発して買った石鹸でも落とせない、胸の悪くなるような、甘ったるい臭い。


 この臭いを漂わせたまま、探し求めているあの人に会うのか。

 生きていてくれるとも限らないけれど、どうしても会いたい、あの人に。


 「どうした?」

 「…何でもねぇっす。で、アンタのお名前は?」

 「ああ、すまん。横道にそれたな。俺はトール。トール・オドンナルガ・アスラン」

 「…は?」


 アスラン(この国)にやって来て、秋から冬、そして春を迎えた。

 その名が誰を示しているのか、それくらいは知っている。


 「一太子…?」

 「うむ。俺やマルトとあのアンポンタンしかいない時は、好きに呼べ。だが、それ以外のものがいる時は、オドンナルガか殿下と呼ぶように。怒られてしまうからな」

 「いや、そういう事じゃなくて…」


 しろの背筋を通り抜けた感覚の事を、何と呼べばいいのか。

 驚愕と、困惑と、恐怖と…そして、少しばかりの納得と大きな「そんなわけあるか!」と言う否定。


 『灰色蜘蛛』が巣を張って守っているのは、高貴な方と聞いたことがある。それがまさか、ここまで高貴な人物とは思わなかったけれど。

 だが、だがだ。


 トール・オドンナルガ・アスランと言えば、『アスランの雷神』『天駆ける龍』『地上の嵐』などなど、大層な呼び名を敵味方につけられ、しかもそのどれもに名前負けしていない。そういう人物のはずだ。


 確かに、噂に聞いていたように顔が良い。それは認める。

 しかし、『アスランの雷神』が菓子欲しさに人を雇おうとしたり、服装がダサいと言われて泣いて帰ったりするか?

 そもそも、菓子が欲しければ菓子屋ごと買えばいい。それくらいできる金はもっているだろうし、菓子屋の方も喜んで「一太子の菓子職人」になるだろう。


 「ふつー、王子様の部屋って、もっとキラキラしてて、お側付きも百人くらいいるもんじゃねぇっすか?」

 「他国の王子についてはよく知らぬが、俺は今年で二十八歳の成人した男だ。大抵の事は一人でできる」

 「…部屋も、確かに高そうな家具っすけど、結構普通だし」

 「品質が大変に良いものだぞ。おじい様に御譲り頂いたものもある。造られて五十年は経過しようとしておるのに、壊れん」

 「月替わりで買い替えたりしねぇんすか」

 「何故そんな無駄なことを…気にいった家具を長年使った方が良いではないか」


 足元の毛皮と言い、確かにこの部屋には金がかかっている。

 しかし、端と端に立ったら叫ばないと声が届かないような大広間ではなく、やや広い程度の部屋だ。

 むろん穴倉のようなしろのねぐらに比べれば、水溜りと湖くらいの差はあるが、それは比較対象が悪い。

 あのクソ野郎の部屋ですらこの部屋の倍はあったし、壁が見えないほど趣味の悪い彫像や壺が置かれていたし、裸同然の恰好をした女がいつ呼びつけられても三人は侍っている。

 一太子は贅沢を好まないとは聞いたことがあるが…それにしても、質素すぎるだろう。

 

 だが、同時に、嘘はついていない。そうも思う。

 何故なら、王族の身分を騙ることはそれだけで死罪だ。明らかに嘘、冗談とわかるような場合であっても、見せしめに処される。

 それも、処刑は四肢をそれぞれ牛に繋いで引き裂く牛裂きか、荒野に箱に詰められて放置され餓死させる箱刑か、なるべく苦しませて殺す方法になるのだ。

 

 しろを騙す為に、そんな危険な行為はするまい。する意味がない。

 だから、この御仁は間違いなく、このアスラン王国の一太子だ。


 それは理屈で理解している。けれど、『アスランの雷神』が菓子食えなくて泣くとか、認めたくない。理想と現実の折り合いがつかない。


 「…騙されたっすわ。そういや、ある意味騙しているって、マルトのにーさんも言ってたっすね」

 「俺は騙しているつもりなど全くないが…ああ、これも証拠になるか?」


 そう言って、トールの手が被っていた帽子を取る。

 途端にこぼれ出る、淡い金の髪。


 朝日の髪と、満月の瞳。

 アスラン王家の血を引くものだけ現れる、黄金の血脈(アルタン・ウルク)の証。


 それは、まさに闇を祓う光の色で。

 思わず、一瞬…しろは目を固く瞑った。


 「どうした?」

 「なんでもねぇっす…」


 縋りついて助けを求めてしまいたくなる、そんな光は…あまり見てはいけない。

 期待は、裏切られる。信頼は、踏み躙られる。

 それを、嫌と言うほど見てきたのだから。


 「さて、では着替えると良い。俺は続きの間に行っている」

 「…俺が金目のもの盗んで逃げると思わねぇんすか」

 「マルトが信用している仲介人の紹介であるなら、そんな馬鹿な真似はしないだろう。まして、俺が誰かを知った後ではな。さらに言えば、ここはアスラン王宮にある、星龍宮だ。ここから明らかな盗品を持って逃げうせるのは、なかなか骨が折れる」

 

 淡々と述べる理由は、ぐうの音も出ないほどに正しい。

 聞こえの良い名でバケモノ呼ばわりされている、しかも権力まで有り余るほど持っている相手を虚仮にできるほど、しろは馬鹿にはなれなかった。

 それに、万が一そうしたとしても…この一太子は「そうか」と笑って諦めそうな気もする。それもなんだか、腹立たしい。

 ようは、何をしてもどうにでもなる小物だと思われている。そういう事だ。いや、実際にそうなのだけれども。


 「その辺の、取るに足らないどうでも良い奴」と思われたくない。そんな矜持が残っていたことを、昨日までの自分は驚くだろう。

 ただ、この時点のしろは、そんな自分に気付く余裕さえなかった。


 いざ、渡された服をまじまじと見てみれば、特段高いものではなさそうだが、言った通り新品同然だ。ほつれも汚れも、皺もない。

 これほど言っているのだから、借りることはいい。だが。

 

 「…俺、最近、ろくに体洗ってねぇし…」

 「ん?」

 「借りて返した後…服も汚れちまうから」

 「別にそう臭わんし、気にせんでも良いと思うが…まあ、それは各々の気分というものであるしな」

 「水路で、三日に一度くらいは水浴びするっすけど…見つかると、衛兵に捕まるし」

 「大都の水路は浴場ではないし、冷たく深く流れが速い。それゆえ、水路での水浴びは厳しく禁止しているのだ」


 確かに、毎回水は骨まで凍えるほど冷たかった。あの中に落ちれば、水練の心得があろうと、水に沈む以外何もできないだろう。手足は僅かな時間で動かなくなり、意識も薄れていく。

 

 「それでも、水を飲もうとしたり、水浴びをしようとした挙句、流されて死ぬものが後を絶たない。お前は今まで無事でよかったな」

 「盥に水汲んで、それを使ってたっすから」

 「そうか。ああ、そうだ。体の汚れが気になるのであれば、風呂を使えばいい」

 

 名案!と言う顔で提示された解決方法に、しろは目を瞬かせた。


 風呂は…正直に言えば、ものすごく入りたい。

 シラミネは、守護神であるシラミネ様が住まう谷を始めとして、あちらこちらに温泉が湧き出ている。

 里には浴場が大小合わせて五つあり、住人たちはその日の気分でどこに行くか決め、暖かな湯に身を委ねて一日の終わりとしていた。


 アスラン人には、本来ならば「入浴」するという習慣はない。

 草原に穴を掘り、上に天幕を建てて作る蒸し風呂は古くから親しまれているが、湯船に湯を張り、そこに浸かるという行為は「物好きが無駄に金をかけてやること」という意識だったらしい。

 

 しかし、トールの母である八代后妃は、カーラン皇国の東南から嫁ぐ時、「毎日お風呂に入れること」を条件にしたのだという話が、大都の住民たちに瞬く間に広がった。


 后妃はその美しさで大王に一目惚れされ、今でも夫妻の仲睦まじさ…と言うか、夫から妻への熱愛は有名だ。

 となれば、「毎日入浴することが、美しさの秘訣なのでは?!」と女性たちと一部男性が色めき立つのは自明の理。

 それに素早く乗っかったのが、目ざとい商人たちである。


 湯を沸かすこと自体は、『加熱』の魔導具を使えば難しい事ではない。

 そして大都は北と東を人造湖に守られ、遥か北の「尽きぬ山(ヘルムジ)」から無限に水を召喚する水門を擁する都だ。

 多少裕福な家庭なら、地下水路から水を汲み上げる水道を家に引いている。

 

 加熱の魔導具付き風呂が何種類も販売され、大人気商品となった。買うのに半年かかった、いやうちは一年だと苦労自慢があちらこちらで繰り広げられる。

 さらに、そうした風呂を買う余裕のない人々のためにと、百を超す浴場が開店した。広々とした大浴場が自慢の店もあれば、貸し切りで入れる浴室を売りにしている店もある。

 入浴代は、安いところなら銀貨五枚ほど。庶民でも十分払える金額だ。


 しかし、その日生きていくのがやっと、と言う暮らしでは、捻出するのが厳しい金額でもある。

 しろも浴場の前までは何度か足を運んだが、結局扉をくぐらず引き返していた。


 「こちらだ。この部屋は寝室手前の、寝台に転がる時間はないが、多少ゆっくりできる時に使う部屋でな。一度、居室に出る」

 

 そう言って指差したのは、二つの布が垂らされた出入口。

 そのうちの一つに向け、トールは歩き始めた。慌てて、その後を追う。


 布を捲って出た部屋は、暗い。すでに夕刻から夜へと移る時間帯だ。当然日は落ちている。

 ぱん、とトールが手を打ち鳴らすと、天井の魔導燈が部屋を照らし出す。

 先ほどまでいた部屋の倍ほどはあり、絨毯が敷かれ、やっぱり木があり、あちこちに籠や箱、それから何故かこちらには、立てられた丸太も置かれていた。

 

 「木が好きなんすか?それとも、王子様的にはよくある飾りなんすか?」

 「ベンケの…俺の猫のものだ」

 「ああ」


 おそらくその猫は、自分よりもずっといい暮らしをしているのだろうな、としろは自虐も込めて思ったが、むしろ、その猫より良い暮らしをしている人間は、どれだけいるのだろうか。


 「今宵は外で食事をしてくるつもりだったので、母上に預けてきているがな。ベンケは母上のつくる鶏の丸蒸しが大好物ゆえ、今頃咽喉を鳴らしているだろう」

 「へえ」

 「塩や調味料を加えず、ただ蒸すだけなのだが、身は柔らかく美味いのだ。人間はそれにタレをつけて食べる」


 まして、后妃手ずから料理された品など、それこそ王族でもなければ口にできまい。

 つまり、あのクソ野郎も猫以下の暮らしってわけだ、とにんまりと笑ってやる。


 「今度、お前にも食べさせてやろう」

 「そいつは楽しみっすね」


 それがこの時一瞬だけの戯言でも構わない。何かにつけて金持ちであることを自慢するクソ野郎を見下せるなら、何だっていい。


 「浴室はここだ」


 どうやら、先ほどまでいた部屋の隣が浴室のようだ。

 布を捲って中に入ると、小さな部屋に繋がっていた。壁には棚が置かれ、大きめの籠には、猫用の布団ではないらしい布が、たたまれて収められている。ただ、猫毛らしきものはついていたが。


 「あがったら、その布で身体を拭くと良い。使った布は、床に置かれている籠に入れてくれ。洗濯に回すものもそちらだ」

 

 差し示した指の先には、取っ手付きの籠が置かれていた。布はありがたく入れさせてもらうつもりだが、さすがに今着ている服…かなり汚い…を入れるつもりはない。


 「湯船はこの先だ」

 

 脱衣所の先に在る布を捲り、トールが進んでいく。しろも続いた。

 しろが入る直前に、魔導燈が点る。居間よりも柔らかな光だ。


 その光に照らされて艶めくのは、楕円形の湯船。一人用なのだろう。しろやトールなら足を延ばして入れる程度の大きさだ。

 床には黒ずみひとつないタイルが敷かれ、白木の桶と柄杓が小さな陶器の棚に並んでいる。その横に置かれた棚には、同じ陶器の箱が二つ。こちらは白と青に色が分かれていた。


 「青い方が髪を洗う粉石鹸、白い方が身体を洗う練り石鹸だ。嫌でなければ、壁にかかっている糸瓜たわしを使え」

 「王子様って、きれーなおねーちゃんに洗ってもらうんじゃねぇんすか?」

 「浴室侍従官は男だが…洗ってほしいのか?」

 「いや、一人のがいいっす」

 「大浴場の方を使えば、浴室侍従官も待機しているがな。あちらは、騎士や書記官も使う。見ず知らずのものと共に風呂に入るのは、その、ちょっと…気を遣うだろう?」

 「アンタ、大浴場使うたびに気を遣ってるんすか?」

 「俺は、既に顔見知りだから問題はない」


 つまり、顔見知りでなければ使えないのだ。自分の家なのに。

 自分の家に大浴場があるというのは、さすがに王子様っぽいが。


 「湯は暑いのと温いの、どちらが好きだ?」

 「熱いのっすかね」

 「うむ。心得た」


 風呂桶に手をかざすと、底に青く輝く陣が現れた。途端に、湯が湧き出てくる。


 「大浴場に、湯を溜める槽があってな。そこの加熱の陣に近いところから転移させている」

 「そっちが困らねぇんすか?」

 「一定量以下になれば、水が足される仕組みだ。まあ、すこしばかり温くなるだろうが、それくらいは皆気にせず使う」

 「へえ…」


 湯は見る間にたまり、縁から拳二つほどまで水位が上がった。もうもうと湯気を立ち上らせる湯は透明で、浴室と同じく汚れひとつない。


 「では、俺は向こうに行っている。何か困ったことがあれば、呼ぶと良い」

 「…ども、っす」


 ひらひらと手を振って、トールは浴室を出て行ってしまった。

 いくらなんでも、これは厚遇過ぎる、何かの罠では?と疑う自分と、王子様なんだからその辺で拾った野良犬の仔を洗ってやる程度だろうよと楽観視する自分の間で、しばし議論が交わされ…最終的に「風呂入りたい!」と叫ぶシラミネ人のしろが勝った。


 脱衣所に戻り、服を脱ぐ。脱いだ後、この汚れた服を棚や床に置くのはと迷い…取っ手付きの籠にいれた。

 もちろん洗わせるつもりはないが、汚れたものを入れておく籠なら、埃ひとつない棚や床よりまだ罪悪感が少ない。


 柄杓に湯を汲み、手に掛ける。熱めだが、適温だ。

 今度は身体にも掛け、そしておそるおそる、足を湯船につける。


 身体を洗ってからにするべきだったかとは思ったが、それよりも湯につかりたいという欲求に勝てなかった。どのみち、しろ一人しか使わないなら良いだろうと、湯の中に潜り込む。


 「ふ…ああぁ…」


 思わず、声が漏れた。

 

 全身を包み込む、熱さと浮遊感。大都での暮らしで凝り固まっていたなにかが解れていく。

 しばらく天井を見ながら放心して…しろは、自分が涙を流していることに気付いた。


 ぽたり、と湯船に垂れた涙は、黒い波紋を広げる。それは顔や睫毛にへばりついた汚れだったが、まるで自分の中の昏い感情のようで。


 昏い感情も、記憶も、何もかも。

 湯に解け、湯気になって立ち上り、消えていく…そんな錯覚を振り払う気にならず、しろはただ、温もりに身を委ねた。


 もし、騙されて、使い捨ての道具にされるのだとしても。

 この湯の温もりをくれたのなら、それでいい。

 

 菓子を買ってくるだけなんて、信じられないけれど。

 けれど、もしかしたら、本当に、もしかしたら、本気で菓子を買ってこさせるためだけに自分を雇う気なのかもしれない。

 逆に納得できるほど、あの王子さまは変人だ。


 「へんてこ太子って呼んだら、侮辱罪っすかね」


 しろは肩まで湯に沈め、くすりと笑った。

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