一太子様の部下たちには不満があるらしい
歴史上、最も広大な領土を誇った国は何処か、と聞かれれば、多くの史学者は大陸の西半分を支配した、カナン帝国を挙げるだろう。
その歴史が最も長い国は何処か、と問えば、カナンという名称自体のもととなった、カーラン皇国と答えるだろう。
そして今現在、最も栄えている国は何処か、と続ければ、全てのアスラン人はこう答える。
それは勿論、我が大アスランだ!と。
アスラン王国。
大陸中央部を治める大国であるその国の名が、歴史に躍り出たのは二百年ほど前。
東のカーラン皇国の狩場として使われていたタタル高原、その獲物として追われ殺されていたヤルクト氏族の一人の青年によって興された。
青年はヤルクト氏族を纏め、同じように虐げられていた他氏族を従え、枯野に広がる火のように、天空を切り裂く鷲のように、怒涛の勢いで勝利を積み上げた。
わずか十余年。
たったそれだけで、開祖クロウハ・カガンはタタル高原から南下し、もともとヤルクト氏族が暮らしていた大草原を奪い返し、カーラン皇国の討伐軍を肉の山と変え、「アスラン王国」の建国を宣言したのだ。
以来、約二百年。
アスラン王国は強大な軍事力を背景に、東西南北あらゆる国との交易をおこない、栄えてきた。
真冬に夏の花を求めることも、真夏に白い雪を贖う事も、この国の王都、大都ではただの買い物に過ぎない。
そこそこ大きい商会の支店にでも行って対価を払えば、翌日には用意ができたと連絡が来るし、対価を倍にすれば当日にだって手に入る。
さらに言えばその対価もまた、他国では実現困難な例えを現実にするものとしては、破格の安さだ。
花一輪、椀いっぱいの雪で、大都の平均的な一日の給金と同程度の金額になる。
それを大都の住人たちは、「馬鹿らしい。花や雪で腹は膨れない」と鼻で笑うし、他国で生きる人々は、「やはり夢物語だ」と嘲笑するだろう。
ただ、他国で生まれ、大都にやってきた人々だけが、その凄まじさに身震いし、興奮する。
そして、アスラン人と共に謳う。
大アスランの繁栄と、これからも続く平和と安寧を。
何故なら、現アスラン王である、八代大王は戦に強いのは勿論、内政に関しても手堅い。
大胆な改革や新法の制定を行ったわけではないが、逆に言えば迷走もしないのだ。
アスランの法を守り、実力主義の推進によって人材を登用し、交易に関しても盛んに推奨する。そのために必要な街道や港湾、運河の整備をきっちりと行う。
戦に強いからと言って他国へ侵攻も行わず、だが、叛乱や庇護下にある国への侵略には容赦はしない。
本人の強さとは裏腹に、史書には「治世の名君」と記されるような御方だ。
八代大王が王座に座る間は、商売が滞るような戦や混乱などは起きないだろう。
しかし、八代大王もすでに五十路を超え、人生を折り返している。
君主制の欠点として、王が変われば一気に国が傾く危険がある。五代から八代までの四人のアスラン王たちは名君だった。はたして、その次もそうだと言えるのか。
だが、アスラン人たちは明るく笑い、これからも続く安寧と繁栄を謳う。
何故なら、九代大王もまた、間違いなく名君になると信じているからだ。
今はまだ太子であるその御方の名を知らないアスラン人は、生れて三年未満の赤ん坊だけだろう。
それほどに高名なのは、むろん理由がある。
まず、贔屓目や忖度なしに、強い。
少年…いや、子供と言っていい年齢から人並外れた武と魔導の才を現し、十三で初陣に立って十五年。一度もその軍旗には土がついたことはない。
個人として強いのは勿論、指揮能力も卓抜しており、一太子直属の部隊である星龍親衛隊は、行軍の速さでアスラン軍随一を誇る。
もとから遊牧民で構成されたアスラン騎兵は行軍が早いが、その中でも特に速いことで知られ、あまりの速さに「雷霆軍」と異名をとるほどだ。
雷霆を率い、また、本人も雷の魔導を得意とするところから、いつしか一太子は「アスランの雷神」と国内外に呼ばれていた。
その名の由来に、アスラン王家特有の淡い色合いの金の髪と、黄金色の双眸もまた、一役買っているのは間違いない。
雷神の風貌については、諸国で差異はあるだろう。しかし、大陸東部で広く信仰され、アスランの守護神でもある雷帝リューティンは、金の髪の美丈夫とされている。
そんな雷帝の配下たる雷神もまた、涼やかな相貌の若い武人として描かれ、各地の雷帝神殿には鎧兜よりも花が似合うような佳人の像が建てられていた。
そんな雷神像よりも「アスランの雷神」の方が見眼麗しいと、アスラン人たちは胸を張る。
なにせ、敵将に「負けたのは其方の顔に見惚れたからだ!死んでもいいから一晩共にさせてくれ!」と叫ばれて以来、戦に出る時は顔を隠す面をつけるようになった…と言う逸話があるほどだ。
そう。強いだけでなく、見目も良いのだ。
そして、内政についても申し分ない実績がすでにある。
西方国境サライを中心とした一帯を直轄領として問題なく収め、国政にも深く関わっている。
軍事ほどには得意ではない、と言うのが本人の言で、他者も認めるところではある。それ故に無駄に提案することも、既に検討が繰り返させて作成された政策に異を唱えることもない。
父王と同じく、治水事業や新たな産業の育成、教育の普及などの献策には熱心に目を通すが、戦を起こし領土を広げる策には首を振る。
つまりは、性格も実にまっとうで、己の力の誇示や欲の為に戦を起こそうなどと考えるような人柄ではない。
纏めれば、大国の王族…それも長子として生まれ、溢れかえるような才能に恵まれ、おまけに敵将すら惑わすような美貌の持ち主であるが、それに奢ることも溺れることもなく、国の繁栄と民の安寧を第一に考えられる…アスラン王国の一太子とは、そういう人物なのだ。
そんな傑物に、人気が出ないはずはない。
誰もが九代大王に代替わりしても、大アスランは安泰だ!いや、今よりもっと繁栄するぞ!と胸を張るのも、無理らしからぬことだろう。
まあ…内側と外側では、どんなものであれ、見る目の違いと言うのは出てくる。
それを具現化した御仁であるのも、残念ながら真実なのだが。
とにかく、その一太子。
トール・オドンナルガ・アスランを外から見たら、非の打ち所がない完璧無比の王子様、なのである。
***
五日ぶりに、トールの姿が王城内宮にある星龍府の執務室に現れたのは、そろそろ始業の鐘がなる…そんな頃合いだった。
「おや、お早いお戻りで」
ひょこりと執務室に入ってきて、まだいるはずのないその姿を見つけたのは、ひょろりと長い男だ。貧弱だが長い口髭と顎髭を生やし、カーラン風の袷の装束を纏っている。
年のころは推測しがたい。まだ四十にもなっていないようにも、還暦を超えているようにも見える。
肌の張りなどを見れば、まだ老いによる衰えは少ない。しかし、その細い目の奥に収めらえた双眸は、長い年月を…それも、平坦ではない年月を見てきた。そんな油断ならない光を湛えていた。
しかしながら、この男を一言で表現するならば、「胡散臭い」の一言で足りる。
どこからどう見ても、一太子の政務室に入れるような顔をしていない。だが、入り口で歩哨をしている騎士は、一礼の後、男を通していた。
警護に当たる新人騎士は、まずこの胡散臭い男ことウー・グィー、自称ウー老師は一太子の参謀であり、一太子の腹心であるからして、取り押さえないように…という事を学ぶ。
その姿を満月色の双眸に捉えるいなや、トールの口許が不機嫌そうに歪んだ。
「…なんでお前は俺より遅いのだ!このスットコドッコイ!」
「始業には遅れとりませぬぞ。いやあ、星龍君よ。昨日行った店はかなりの当たりでしてなあ。婀娜な女将が切り盛りしておる店なのですが、抱えておる妓女がこれがまた、少ないながらも粒ぞろいで…」
「お前はそれより先に俺に言うことはないのか!!」
朝から元気よく怒鳴る主を、ウー老師は軽く観察する。
窮奇を討伐した、と言う一報は既に受け取っていたが、帰還の報告は受けていない。
だが、装備はすでに解かれ、朝日の色に輝く髪やよく日焼けした顔にも、旅塵の汚れは見受けられなかった。
しかし、その麗しい顔には疲れが張り付き、目の下には隈が滲んでいる。飛ばす叱責も、知能が下がった感がある。
つまり、疲れや睡眠不足は解消されておらず、戻ってすぐに湯浴みして着替え、ここに来たのだろう。
負傷はない。ただ単に、疲れているだけ。そうウー老師は結論付けた。
まあ、星龍君が虎の成り損ないのようなバケモノごときに負けるとは微塵も思ってはいなかったが、それでも五体無事な姿を見れば安心もする。
なので、ウー老師はゆっくりと頷きながら、答えた。
「特にありませぬなあ」
「おはようございますとか、色々あるだろうが…。はあ、弟よ。兄は、兄は疲れたぞ…」
ぶつぶつと呟きながら何かを撫でさするトールを後目に、ウー老師は室内をざっと見渡した。
無事な主をこれ以上観察しても時間の無駄である。それよりも、今後に関わる現在の状況を把握しておきたい。
その状況把握の結果、同行した親衛隊長の顔がないなと首を傾げた。忠義の塊のような御仁であるため、トールが休まない限りは同じように執務室に姿があるはず。
「ラーシュ殿はご一緒ではなかったのですかな」
「窮奇の死体を大都まで運ぶため、転移陣を遣わずに帰還する。ラスはその出立を見送り、ルミル氏族長開催の宴を終えてから戻る予定だ」
僅かに視線を逸らしながら答える主に、ウー老師の眉がわざとらしくぴくりと跳ねあがった。
「…逃げましたな」
「仕方なかろう!し、知らないものの方が圧倒的に多い宴など、無理だッ!」
それでも帰還に五日もかかったのは、なんだかんだと引き留められたからだろう。確か、ルミル氏族長には二十歳前後の娘がいたはずだ。
そのご令嬢か、それとも。
本人からすれば、良く知らない相手に迫られるなど不快を通り越して恐怖以外何物でもないのだが。
あちらこちらのご令嬢ご婦人だけでなく、公達まで「あわよくば!」と一太子の寵愛を狙っている。
なまじっか、出奔中の王太子が異国で出会った美しい少女に一目ぼれし、結ばれた結果生まれた…と言う背景があるものだから、同じように劇的に恋に落ちると思われている節がある。二十八にもなって独り身なもので、余計に期待を持たせてしまうのだろう。
まあ、そういう事は起こりえないとは言い切れないが、今のところ逆効果にしかなってない。
「宴っちゅうのは、わりとそーゆーものではございませんかなあ」
「王宮で開かれる宴は、知っているものの方が多い!」
「顔知っとるくらいじゃ、人見知りする方が何をおっしゃる」
「お、お前はあの、なんかこう、挨拶してちょっとしたら話すことがなくなって、何とはなしにお互い笑っているだけの時間の気まずさがわからんから!」
それはよく知っている。
だが、ウー老師は大人なので、当たり障りのない会話を続ける術を身につけているだけだ。
この二十八歳児は良く喋るが、それには最低十回くらいは既に仲良くなっている者と同伴で会って、打ち解けなくてはならない。
その前に一対一になったら、ひたすら曖昧な笑みを浮かべて「あ」とか「うう」とか言葉と言うより鳴き声を漏らすだけだ。
「末将、話題尽きた事ありませんのでなあ」
それは星龍君がお子様なので…とは言わず、自分を上げることにした。その方が、相手も突っ込みやすい。会話とは、そういうものである。
「お前は口から先に生まれたような奴だからな!!俺は頭から出てきたから、無理なのだ!」
案の定、少し嬉しそうに乗ってきたが、やはり返答の頭が悪い。寝かせた方が良いかもしれない。
「結構な割合の人間が頭から出ておりますがなあ」
「うう、弟、弟よ…!お前がいれば、兄は、兄は初対面の人間とでも喋って見せるのに…」
「若君は初対面の相手とでも即打ち解けますからなあ。星龍君はその横で曖昧な笑み浮かべて立ってるだけでござりましょーが」
「黙れ!真実は時に人を刺す凶器なのだぞ!」
「まあ、末将の故国では、真実突き付けられて全身から血を噴き出して憤死する御仁もおりましたし」
何人かの死にざまを見たり聞いたりした記憶を辿って応えると、主はあきらかに怯えていた。
「…こ、怖いな。お前の故国の人間…。会えるものではないが、絶対に、遭いたくない…。いきなり血を噴き出されたら、どうしてよいか…」
「ご安心を。見ず知らずの御仁にあったからと言っていきなり血を噴き出したりはしませぬな。一発芸ではござりませんので。ああ、末将もそんなに血気盛んな性質ではござりませぬぞ。ご安心を」
ホッホッホ、と笑って、ウー老師は己が席に腰を下ろした。
見たところ、主の文机の上には、何かの案件書きされていると思しき書が広げられている。
それ以外には特にないようだから、今日は急ぎの案件であっても自分に回すようにと言いつけるか。そう思いつつ、自分の黒檀で造られた文机の上を見た。
アスランでは椅子は基本的に使わない。
異国仕立ての座敷のない飯屋や酒場などは椅子と卓が置かれているが、ここは一太子の執務室である。
床には分厚く毛足の名が絨毯が敷かれ、更に人が座る場所には、毎日洗って取り換えられる羊の毛皮と、綿のたっぷり入った座布団が置かれていた。
まだその黒く艶めく文机の上には、何の書類も置かれていない。
代わりにごろりと寝っ転がり、ウー老師に白い牙をチラ見せしてくる獣がいた。
「星龍君。娘々をどかしてくだされ」
「ベンケ。そのスットコドッコイは臭いから、こちらに来なさい」
「ぷきゃ!」と一声挙げて、主と同じ毛色の小さな獣は、大きく跳躍してトールの机の上に着地した。その衝撃で広げていた書類がぐしゃりと歪む。
始業前から星龍君が手を付けていたという事は、かなり急ぎかつ重大な案件であろうよなあとウー老師は思ったが、黙って髭をしごくに留めた。
破れてはいないようだし、ここで騒ぐと余計に面白がって書類を引き裂く。
雷公猫と言うこの小さな猫は、大都一帯の草原や北のタタル高原に住む野生の獣だ。
大変に愛くるしい見た目をしているが、「駱駝の首を咬み千切る」猛獣として知られ、遊牧民は決して巣穴に近付かない。子猫から育てても懐くことはないので、愛玩動物には決してならない。
しかし、何故か若い巣離れしたばかりの雷公猫は、気に入った人間についてくることがある。
たまにウー老師を見て白い歯を剥き出しては、せっせと毛繕いを繰り返すこのベンケもまた、そうしてトールにくっついてきた雷公猫だ。
ベンケはトールらに言わせると、雷公猫とは思えないほど人懐こい、らしい。
トールだけでなく、その家族…より正確に言えば母と弟…にも懐いているし、ラーシュにも擦り寄る。今は別任務に就いている書記官の膝の上で寝る時もある。
しかし、ウー老師には懐いていない。理不尽さを感じるが、そもそも猫と言うのは理不尽なものだ。
トールは生まれた時から髪が生えていて、なんだか雷公猫の子猫に似ていたので「トール」と名付けられた、と聞いていた。
次代国王になるであろう長子にしては適当に名付け過ぎではないかと、そうウー老師は思うのだが。
まあ実際、星龍君を動物に例えれば、まず出てくるのは雷公猫である。ある意味、慧眼と言えるのか。
「さて、星龍君。その、娘々の足元にござりますのは、急ぎの件ですかな?末将、昨日ちっとばかりはしゃぎ過ぎた故、午後くらいまでは急ぎたくないのですが…」
「ん…まあ、そんな急ぎではない」
「でしたら、星龍宮に戻られておやすみになられては?」
ウー老師の提言に、トールは微妙に視線を逸らした。こういう時、主は割とどうでも良い理由で無理をしている。
さて、何をなさっておいでなのやら…と思いつつ、八割がたまあいいか、と気にしない方に思考が傾きかけた瞬間。
ぴん、と空気が震えた。
ある種類の魔導が発動した際特有のもの。それは、ウー老師にも馴染みのある感覚だ。
トール曰く「空間のずれを修正している…のだと思う。たぶん」ということだが、それよりも、鏡面のような水面に木の葉が落ち、波紋が広がるようなものと言う説明の方が、ウー老師は気に入っている。
転移陣。
彼方と此方を繋げ、一瞬にして万里を渡る魔導。
無論、誰にでも使えるようなものではない。
魔導は、その中でも更に特殊な魔導は、大抵使える一族が限定される。
アスラン王家もまたその一つ。
『転移』の魔導を使うのは、ウー老師が知る限り、アスラン王系以外にはない。それにしても全員が使えるわけではないと聞いている。
まして、人や物資を安定して通せる転移陣を構築できたのは、僅かに三人。
現在、アスランでは転移陣を使用した流通網が完成している。
五代の時代に、そのジルチ王自らが構築した転移陣を、多くの魔導士が日々管理調整し利用していた。
転移陣はアスラン王国の主要都市と繋がり、多種多様な産物が大都に運ばれてくる。
農産物や肉、魚介に玉子と言った食料は勿論、木材や鉱石のような資材もあれば、様々な原材料や完成品までと幅広い。
ただし、魔力抵抗値の低い「生き物」は『転移』に耐えられない可能性が高いため、転移してくるのは「生きていた物」になるが。
その転移陣を新たに構築し、それどころか一瞬で展開させたり、紙に陣を描いて簡易転移陣を持ち運ばせたりできる、アスラン王家の歴史でも唯一と言っていい存在…それが、トールなのだ。本当に、魔導の才はずば抜けている。
「おお、戻ったか!」
そのトールは、満面の笑みを浮かべて勢い良く立ち上がろうとし…文机にしこたま腿を打ち付けて悶絶した。
どかん、といういかにも痛そうな音より一瞬早く、ベンケは机からトールの席の後ろに設えられた止まり木に飛び移り、のたうつ友人を不思議そうに見下ろす。
「ただいま~…疲れたよお…お酒のみたぁい」
そんな惨事とほぼ同時に、執務室の続き間から扉がわりの布を捲って現れたのは、二十代半ばほどに見える青年だった。
灰色の髪を無造作にまとめ、纏う衣服も暗雲の色。
その中でただ一点、首に巻いた布だけが、蒼穹の色をしている。
「あれぇ?殿下何やってんの?」
「勢いよく立ち上がろうとして、腿をぶつけて呻いておられる」
「うわあ。痛そう」
「痛い…痛いが、泣く程では、ない…」
ぐぐ、と腕に力を入れ、トールは起き上がった。ちょっと涙目である。
「マルト。それより、それよりもだ。頼んだものは…」
「あ、はい。これぇ」
灰色の青年の手が、硬い革で造られた箱を差し出す。
アスランではよく見られる箱だ。上部に取っ手がついており、そこにベルトを通して馬の鞍にぶら下げることもできる。
主に、昼食を入れて持ち運ぶのに使われる箱である。
「おお!」
痛がりつつ嬉しがると言う中々難しい表情を浮かべながら、トールは箱を受け取った。いそいそと蓋を開け、中に収められたものを取り出す。
どうやら仕事もないのに執務室にいたのは、これを待っていたらしい。
それなら別に私室で転がって待てばいいと思うのだが、どうやら「自分が帰還しているのに仕事をしないこと」に対する罪悪感に耐えられなかったようだ。
「おおお!これが白鷺亭の『なめらかぷるるんうさぎさん』!!」
それは、小さな皿に乗せられた、半球形の物体。
果物で造られた、目口と耳を見れば、確かに兎っぽい造形だ。
「選び抜かれた牛乳を主原料とし、揺らさばこのように波打つように動く!固めるために使われている海藻より煮だした粉も、最高級のものだけを最小限にとどめて使っておる故の柔らかさと書かれていたが!うむ!納得である!」
「あのねえ、注文するときねえ。すっごい恥ずかしかった。もうさあ、自分で買うか、他の人に買いに行ってもらってよお。お店もさあ、すっごく可愛いお店でねえ。俺みたいなの、いるだけで不審だったんだよお」
すんすんと鼻を鳴らしながらマルトが苦労を語る。
昏い目つきの顔色の悪い長身の青年、しかも猫背で服装も暗い色調のものばかり…という風体に、可愛いを前面に押し出した店は確かに似合わない。
「ぬ…しかし、ほら、知らない店に一人で買い物にいって、店員に話しかけて購入など…俺には、その、アレだ。ちょっと、な。うむ…」
「じゃあ、買いに行ってもらいなよお」
「末将は嫌ですぞ。マルトが不審者に見られるような店ですと、末将のような大人の色気を振りまく紳士にも似つかわしくない」
「お前が振りまいているのは決して色気ではないが…ううむ。マシロは今、別任務で居らんし…」
「サモンくんはあ?」
現在別任務に就いている書記官と、この春からトール付きの騎士となった新人騎士は兄弟だ。そして、トールの母方の親戚でもある。
つまりは思いきりコネ採用ではあるが、兄の方は他所に渡すには惜しいと判断した結果であり、弟の方は引き取った先に申し訳ないと苦渋の決断をした結果である。
「サモンはダメだ。王宮の購買で適当な菓子買って帰ってくるか、そのまま家に帰って戻ってこぬ。どんな店だろうと堂々と乗り込むだろうが…成功率が低すぎる」
「本日も星龍君が戻られぬとふんで、堂々と遅刻しとりますしな。ちゅうか、来るのか?あやつ…」
「まあ、確かに仕事はないが…」
サモンの主な仕事は書類運びである。トールがいない間は各部署にまわす書類もない。ウー老師の書類は決まった時間に、他の書記官が取りに来るのでサモンの出番はない。
だが、当然、だからと言ってサボりが許されるわけでもない。
「のこのこやって来たら、尻叩くか…」
「御身がさらにお疲れになるだけでござりましょうなあ…」
「…うむ。まあいい。今はこの『なめらかぷるるんうさぎさん』を味わうことに集中すべきだ!茶を淹れてくる!」
何とか我慢できる程度にまで痛みは引いている。そっと文机に菓子を置き、茶を淹れに行こうとしたトールに向けて、マルトは口を尖らせた。
「本気で考えてねえ。可愛いお店はむーりー」
「むむ…可愛くない店ならばよいのか?」
「そっちならねえ。こないだの、おじいちゃんとおばあちゃんがやってる、昔ながらのお店みたいなのなら、行ってあげるからさあ」
「そうか。ならば…まあ、だがやはり、今は菓子を食ってから考える!」
「もおお。じゃあ、俺にもご褒美ちょうだいよ。お酒のんでいいよねえ?」
「許す。ご苦労だった」
トールの手が懐に伸び、取り出したのは掌ほどの大きさで、親指ほどの太さの筒だ。菓子の代金のように差し出されたそれを、マルトは満面の笑みで受け取った。
「うわぁい」
震える指で栓を抜きとり、一気に呷る。
言えない幸せそうな表情に、ウー老師は生温かい視線を送った。
この、五年ほど前に主が拾ってきた青年…当時はぎりぎり少年と言える年だったが…は、完全に酒毒が脳髄まで回っていた。
酒が切れると幻覚を見るし、手はわざとやってるのかと訝しむほど震えるし、謎の言語で話し出すしと、どう見ても一太子の傍に置いたらダメな人間だった。
それを「拾ったからには責任もあるゆえ…」と、酒毒が抜けるよう世話を焼き、側近にしてしまったのだから、星龍君は見る目があったと言うべきか、お人好しが過ぎると言うべきか。
実際、マルトが居なければ何度かウー老師は死んでいた。
此度の討伐でも親衛隊に囲まれる自分より、戦闘力がないに等しいウー老師を守れと命じて残したほどに、有能だ。
「しかし、女官や侍従官には頼めませんな」
本来なら、むしろ女官や侍従官の仕事ではある。
トールの命令に否やと答える者はいない。喜んでどんな店にでも買いに行くだろう。
だが、それが問題なのだ。
「そのお遣いの奪い合いで、どれほど浅ましい争いがおこるやら…」
「んー。お遣い行ってもらったら、媚薬くらいはもられそーだよねえ」
「さすがに…と言いたいところではあるが、否定はできぬよのう」
上機嫌で茶の準備をするトールを見ながら、ウー老師は嘆息を漏らした。
この星龍府、そして住まいである星龍宮にも、女官の姿は極めて少ない。
勤めているのは、まだ主が一太子ではなく、一太子の長男であった頃から仕えている年配の女官のみだ。侍従官ですら、同じく古馴染のものしか置いていない。
顔か、生れか、才能か…どれか人より抜きんでていれば、ひとつだけでも人を惹きつける。
それが三つも揃っているうえに、上手くいけば将来の后妃だ。色めき立つな、と言う方が難しいのかもしれない。
本来、王族の婚姻なんてものは政治の一部だ。しかし、八代大王の妻であり、トールの母である后妃は市井の生まれである。
カーラン皇国の東南部を治める地方領主の将の娘と言う、ぎりぎり完全に庶民でもないが、決して高貴な生まれでもない。
つまりは、本来もっとも反対するであろう国王夫妻が、出自で息子の妻を拒絶することはない。子でも孕めば、さらに確実だ。
となれば、多少強引にでも既成事実を作り上げようとするものは出てくる。
媚薬を盛られたトールがどれほど激怒するかを、側近であるウー老師らが想像するのは容易いが、まだ足跡も見つけていない獲物の皮算用をする者には難しいようだ。
ちなみに侍従官も遠ざけておくのは、后妃と言う立場ではなくトール本体を狙う者も男女問わず多いからである。
そうした者たちを不敬罪で処しても文句は出ないだろうが、あまり後味のいいものでもない。ならば最初から遠ざけておこうという判断で、侍従官も女官も少ないのだ。
そしてもうひとつ。新人を入れると人見知りするトールが緊張しすぎて体調を崩すからである。
「つまり星龍君に興味がなく、可愛らしい菓子屋に入っても違和感のないものを探さねばならぬか」
「ばあやさんとかにお願いするのはダメなの?」
「言えばやってくれるであろうがなあ。何せ、侍従官も女官も数が足りておらんのに、余計な仕事を増やすのは気が引けるのう…」
「じゃー、騎士さんとか」
「き、騎士たちはダメだ!」
「なんでえ?」
茶が淹れられた椀が三つ並んだ盆を持ったトールが、大きく首を振る。それでも、椀の中の茶はさざ波ひとつ立っていない。
「その…騎士たちはだな。うむ…いや、そのだ。菓子を買いに行くのは、騎士の仕事ではないゆえ…」
「はあ。無駄に見栄はってますものなあ。甘味は苦手とか」
「んぴゃあああ!!」
謎の威嚇音をあげる主を放って、ウー老師は再び思案を巡らせた。その前の文机に、マルトが茶を置く。こちらは特にお構いなしな動きのため、茶は跳ねて座卓を濡らした。
「となると…新たに雇うしかないかのう。のう、マルト。おぬしの伝手でどうにかならんかえ?」
「俺の伝手え?そだねえ。まっとうなヒトじゃなくて良いなら頼めるかもよ。条件にぴったりなのがいるかはわかんないけど」
「ほう」
茶をすすりながら興味を示したウー老師に、マルトは少し首を傾げてみせた。
「でもねえ。俺が言うのもなんだけど、はっきり言って素性のはっきりしない、怪しいやつだよお?殿下の側仕えにしたら、ラーシュさんに怒られるかもお」
「…だが、お前はもう、可愛い店にはいきたくないのだろう?」
まだ威嚇している顔のまま、トールが唸るように問う。
本気で怒っているときは分かり易く激昂した顔になるので、これはまだ恐れ入るような時ではない。なので、マルトは気にせず頷いた。力強く、何度も。
「俺がねえ、違和感ないのはねえ、酔っぱらいが床の置物になってるみたいな酒場だよう。衛兵さん呼ばれたらどーすんのさあ。殿下を身元引受人にしていいの?」
「う…それは、いろいろと露見してしまうので…」
「でしょお?」
「わかった。マルト、とりあえずその伝手を辿ってみてくれ」
兎の形をした菓子をぷるんぷるんさせながら、「苦渋の決断」みたいな顔をしているのは、「新しい人間」と「食べたい菓子を頼める」のはざまで揺れているからだろう。
だったら菓子の子弟や受け取りは、ウー老師かマルトが行えば顔を合わせることもないのだが、トールは変に真面目な性格だ。完全な私用なのだから、己で頼み、受け取らねば…と思っているに違いない。
「伝手っていうかねえ。紹介所みたいなとこに頼むの。条件に合った人がいれば、雇えるんだよお」
「では、条件としては…まず男女どちらでも良し、でよろしいかな?星龍君」
「ん、んんー…出来れば、男の方が良いな。女性だと、悪い噂が立ったら申し訳ない」
「んじゃあ、可愛いお店に行っても違和感ないか、動じないヒトだねえ」
「後半はともかく、前半はおるんかいな」
「どおかなあ?」
んー?と首を傾げるマルトに、可愛い店でも動じない男はいるのだなと、トールはやや眉を寄せた。
気にせず行ってくれるのはありがたいが、山賊のような見た目で乗り込んでいかれると、本当に衛兵を呼ばれてしまうかもしれない。
「マルト。できれば、前半を重視で…いなければ仕方がない。お前が行っても問題ない店の菓子を所望する…」
「あいあい。あとはあ、俺に任せてもらっても?」
「構わん。最低条件はわかっておるだろう」
「まーね」
傾げていた首を基に戻し、マルトは指を三本立てる。
「まず、殿下に逆らわないヒト」
「うむ。勝手にこっちの方が良いと、違う店に行かれたら困るからな」
かつて、こちらの方が一太子に相応しいと、高級店の高価な菓子を勝手に買ってこられて密かに泣いたことのあるトールである。
それもあって、侍従官や女官には頼みたくないのだ。
「んで、少しは戦えるヒト」
「まあ、いずれは見つかるであろうしのう。すり替わるために殺そうとする輩もおるやもしれん」
トールの国民人気は絶大であり、次期国王は間違いないと誰もが信じている。
しかし、それを避けたいと思う輩もいるのもまた事実だ。
深くでも浅くでも、関わるならばそうした危険からある程度は自分で身を護る必要がある。
「あとはあ、あんまりお馬鹿さんじゃないヒト、だね」
「うむ。その通りだ」
マルトの回答に満足そうに頷きながら、トールはぷるぷると揺れるうさぎの尻…と言うか、背中と言うか、境目はないが、とにかくそのあたりに、匙を差し込んだ。
なお、それほど楽しみにしていた『なめらかぷるるんうさぎさん』だったが、食べてみたら微妙に美味しくなかったらしい。