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一太子様はやっちまったらしい




 ほぉぉ…きゃぁああ…


 それは赤子の泣き声に似ていた。

 悲痛な、母を、助けを求める声。聞けば誰もが耳を澄まし、どこからしたのかと探し出してしまうような。


 しかし、その声が響くのは見渡す限り砂と、岩と、僅かばかりの草が生える荒野。

 こんな場所に赤子がいるはずがない。頑強な遊牧の民ですら、踏み込むのは荒野の外れ、草原と交わる場所までなのだ。


 だが、その本来無人であるはずの荒野に、今は人の姿があった。


 「…駄目だ」


 馬の鞍に手を掛けた少年を、老人の声が止めた。

 二人とも着古した胡服デールに羊皮のマントを羽織っている。

 特徴的なのは帽子で、丸い帽子に色も編みこまれた模様も鮮やかな布を巻き、鳥の羽根を挿していた。

 老人の帽子に差し込まれた五本の羽根は長く、少年の一本だけの羽根は短い。


 この近辺…無漠ゴビ周辺で暮らすルミル氏族に特有の装束だ。


 羽根が長く多いものの言葉を、短く少ないものは「必ず守らなければいけない」。そうルミルに生まれたものは、赤子の時から言い聞かされている。


 少年の動きは、老人の声に縛られたように止った。


 けれど、精一杯の抵抗のように、少年は老人を見る。

 火花が散るような視線に老人は僅かに眉を顰め…ゆっくりと首を振ってみせた。


 「覚えておけ。あれが窮奇ムィバルの声だ。この爺でさえ、聞いたのァ五十年ぶりだが…忘れっこねえわ」

 「でも、じい!兄貴んとこの末っ子が攫われてる!もしかしたら…」

 「とっくに生きてねぇよ。覚えとけ。あの魔獣はそうやって人を誘うんだ」


 老人の言葉に、少年は目を見開き…顔中をくしゃくしゃに歪めて、愛馬の首に抱き着いた。

 

 「あの性悪の魔獣はな、どうやったら人を誘い込めるか、嬲れるか、よぉ知っとるんだ」

 

 老人の声は平坦だったが、その芯には怒りと憎悪が込められていた。


 彼らの集落を窮奇が襲ったのは、一月前だ。

 子羊が生まれる季節は忙しい。気まぐれに天気は春から冬に戻り、夜間は氷がはるほどに冷え込む。

 生まれて最初の乳を飲み、立って走れるようになったら子羊や子山羊を幕屋ユルクの中に入れ、寒さから守る。だから家畜の群れから目を離せないし、草を求めての移動だっていつもよりずっと手がかかる。

 けれど、一年で一番楽しい季節。そのはずだった。


 ある夜、犬たちの吠え声と家畜達の逃げる足音で目を覚まし、武器を取って自分の幕屋から飛び出した少年が見たものは、無残に引き裂かれた幕屋と人体の残骸。

 そして、その一部を咥えて嗤う、一頭の魔獣。


 窮奇ムィバルと、その魔獣は呼ばれていた。


 顔は、隣国カーランでは人面と形容される。

 確かに人に近しいが、完全に人の顔ではない。

 鼻面は前にせり出し、巨大な牙が唇を捲って飛び出している。もし、人間が肉だけを食い、獲物の腹に食いついて腸を食らう生き物をなれば、こんな顔になるだろう。


 その顔が乗る胴体は、虎に似ていた。

 虎の手はこれほど指が長くなく、背から肉翅が飛び出してもいないが、やや赤みの強い茶に黒い縞が入る模様と長い尾は、虎を連想させる。

 ただし、個体によっては縞がなく、単色であったり、縞ではなく斑紋であったりもするので、特に縞の入った魔獣を、彼らルミル氏族は「醜い(ムィ)バル」と呼んでいた。


 やがて隣国カーラン皇国でいう窮奇と同一の魔獣であると断定されると、模様がどうあれこの魔獣は全て「窮奇ムィバル」と記録されるようになったのである。


 窮奇は、無漠の中にある『迷宮』から時折出てくる。


 『迷宮』は異界とこの世界が交わる、特殊な場所だ。

 他国ではその中で産する鉱石や薬草を求めて、命知らずの冒険者たちが潜り、莫大な富と死を産む場所である。

 だがこの地にある『迷宮』は、無漠の中心部近くにあり、とてもではないが人が近付けるような場所ではない。

 

 無漠はその名の通り、何もない地だ。

 ただ砂と、砂にまだなっていない岩が転がり、日が出れば渇きと熱が、落ちれば吐息すら凍てつかせる冷気が全てを覆う。

 この地で生きていけるのは、それこそ魔獣くらいなものだ。


 魔獣は異界との交わりによって生まれた、この世界の道理を超越した存在である。

 とは言え、ほとんどの魔獣は「魔」のつかない獣と大差はない。食べて寝て、子を育み、死んでいく。

 凶暴なものも勿論いるが、熊や虎と同じく、狩れる。

 狩り方は特殊ではあるが、伝説の英雄でなくとも罠にかけ、矢を放ち、槍で突きさせば死ぬ。

 特殊な攻撃方法を持つ魔獣も、やり方さえ知っていれば問題ない。


 しかし、『迷宮』からやってくる魔獣の中には、とんでもなく強力で恐ろしい…災厄としか呼べないような種も存在する。


 窮奇はまさに、そのひとつだ。


 老人と少年の一族は、ルミル氏族の中でも大きめの一族だった。五家族六十人ほどが、無漠の縁を辿るようにして遊牧をしている。

 何故、厳しい無漠の縁で生きるのか。それは、彼らの一族が狩人の一族だからだ。


 無漠からやってくる魔獣を草原に出さないため、狩人の一族は無漠の縁を辿る。

 我らこそルミルの守り人であるという矜持を胸に、遊牧の傍ら狩りの腕を磨き、魔獣を倒す。

 その強さは広く知られており、無漠以外でも魔獣の被害が出れば、助けを求められることもある。


 魔獣は恐ろしい災厄だが、倒すことが出来ればその死体は富へと変わる。歯の一本、血の一滴に至るまで売ることのできる商品だ。

 狩人たちはその金でさらに良い武器を買い、魔獣の革や骨を使って身を護る防具を造る。

 そうやって、無漠の狩人たちは数百年以上暮らしてきていた。


 だが。


 狩人たちを嘲笑い、一家八人を惨殺し、窮奇は夜に消えた。

 すぐに移動と討伐の為の準備に取り掛かり、一族でも特に名うての狩人十人が選抜され、窮奇を追ったが…誰一人、戻らなかった。


 さらに、窮奇は一族を追跡した。狩る側と狩られる側が逆転したのだ。

 幾度か襲撃が繰り返され、六十人いた一族で生き残っているのは…もう二十人もいない。

 そのほとんどは、真っ先に近くの町まで逃がした子供と母親だ。老人と少年の他に狩人として動けるものは、もういない。


 少年の兄は、三度目の襲撃で殺された。町に逃げず、末子と共に残った義姉も、食われた。

 その時、窮奇は泣き叫ぶ赤子を殺さず、咥えて連れ去ったのだ。

 

 もしかしたら、と言う希望と、そんなわけがないという絶望がせめぎ合う。

 兄の末子…少年の甥が攫われて、すでに五日は経過している。赤子がまだ生きているわけがないという事は、理屈ではわかっている。わかっているが。

 

 「お前がもし、誘われていったならな。あの性悪のくそったれは、お前の目の前で同じ声で鳴いて見せるよ。わしの時も、そうだったからな」

 「…うん」

 「あん時ゃ、なんとか逃げきれた。だが、今度の奴はあん時の奴の倍はでかい。三倍は生きとるだろう。騎士様、本当に厄介な奴ですよ」

 

 老人の視線は、少年から離れてすぐ近くに立つ一団に向かった。


 そこに立つのは、全部で十二人。

 皮甲を身に着け、羊の毛皮で縁取られたマントを羽織り、胡服を纏うのは老人らと同じだが、狩人である彼らよりも装備は厚く、長柄の武器を携帯している。

 そして十二人全員が、揃いの装束だった。


 マントも胡服も、青を基調とした色合いで統一されており、荒野の風に翻るマントの背には、星を掴む龍の姿が刺繍されている。

 それは彼らのうち一人が持つ旗にも描かれており、疾風に激しく身をくねらせていた。

 

 「そのようですね。アヤンバルクさん。防護壁への影響は?」

 「さすがにこの距離ですからな。犬に小便ひっかけられた程度です」


 アヤンバルクと呼ばれた騎士は、兜からはみ出すぼさぼさの前髪の下で目を細めた。余裕綽々そうな言葉とは裏腹に、その双眸には驚きと好奇心が宿っている。

 

 「が、至近距離で食らえば、二回持つかどうか…。魔力の塊みたいな咆哮ですよ」

 「窮奇の咆哮は幻惑効果があり、抵抗できなければ周囲全てのものが自分を殺そうとしているという恐慌に支配されるという記録が残っています。防護壁は、その精神汚染に反応したのでしょう!」


 アヤンバルクに次いで答えたのは、小太りの青年だった。熱心に手帳に状況を書き込んでいく。

 

 「親衛隊長イル・ケシクとアヤンバルクさんが重ね掛けした防護壁ですから弾いていますが、一般的な防護壁ならこの距離でも危険ですね!あなた方は、どうやって防いでいるのですか?」

 「この布は魔獣の毛で編んでおります。これで耳と頭を守り、気付けの薬草を口に含めば、あの声も防げるのですよ。そう伝えられております」


 老人の答えに、小太りの青年の目が輝いた。


 「うわあ!それはすごい!是非、この後、詳しく教えてください!」

 「ゴルダ、はしゃぎ過ぎだっつの…」

 「しかしですね、窮奇の観察ができる機会など、そうはないのです!次に窮奇が出現した時の被害を最小限にする為にも、この機会を最大限に活用せねば!」

 「そうですね。次に出現するのが何十年後かわかりませんが…その時、あの方がもういらっしゃらなくとも、対処できる術を用意しておくことは必要でしょう」

 

 再び、窮奇の声がとどろいた。しかしそれは、先ほどよりやや遠ざかっている。


 「どうやら、釣りだしに成功されたようですね」

 「…騎士様、やはり助太刀に赴いた方が…。先ほど申した通り、わしらは奴の咆哮を防ぐ術を持っております」

 

 老人の申し出に、親衛隊長はきっぱりと首を振った。


 「その申し出はありがたい。そして、狩人の矜持に掛けても、窮奇を討ち取りたいという想いは、むろん理解しています」

 「ならば…!」

 「しかし、我ら星龍親衛隊オドンナルガ・ケシクもまた、怠惰や臆病で待機しているわけではないのです」


 老人たちの一族は、窮奇を狩ることはできなかった。

 他の狩人を集めたところで、荒野の躯が増えるだけになるだろうと、ルミル氏族の族長は判断し、王へとその旨を申し出たのが十日前。


 そして派遣されてきたのが、彼ら星龍親衛隊騎士十二名と、その主。


 「一太子あるじを単独で危険な魔獣に向き合わせるなど、騎士としてどれほど非難されようと、頷くしかない。ですが」


 この国の王の子。つまり太子たちは、神獣の名を以て呼ばれる。


 一太子は星龍オドンナルガ

 二太子は紅鴉ナランハル

 三太子は月虎サルンバル

 四太子は雲熊ウルバーウガイ


 星龍親衛隊はそのうち一太子を主と仰ぐ軍であり、国内外にその武名を知られていた。精鋭部隊はどの隊か、と問われれば、真っ先に名が上がるほどに。

 とは言え、派遣されてきたのは僅か十三名。危急の事と王都に報告した氏族長からすれば、頭から湯気を出して怒ってもいい人数だ。


 しかし、氏族長は怒るどころか喜び、跳ね踊り過ぎて転んで腰を痛めて寝込んでしまい、その息子がやってきた十三名にまずは平伏して詫びるという椿事が起こっていた。


 「一太子オドンナルガが御一人で、とおっしゃったのなら、それ以上は過剰な戦力どころか、足手纏いにしかなりません」

 

 その一太子の右腕として名高い、親衛隊長ラーシュは、戸惑う老人たちから荒野の彼方へと視線を移した。

 はるか砂煙が蒼天の裾を濁らせる荒野の先は、どれほど目を凝らしても動くものを見つけることすらできない。

 ただ断続的に放たれる咆哮が、既に獲物と狩人が出会っていることを教えていた。


 「念のために確認します。ジオルさん。ここから狙撃は可能ですか?」

 「目標は、補足したんですが」


 呼びかけられた騎士は、一人だけ兜ではなく、布で頭を覆っていた。その鮮やかに青い布にはいくつもの金属片が縫い付けられている。

 それは彼の趣味でもあったが、彼の仕事を補助する魔導具だ。


 片眼鏡モノクルの奥で、右目が眇められる。

 手に持つ杖は白木で造られ、十分長身と言えるだろう彼の身長を超えていた。その杖を正眼に構え、じっと遥か先の荒野を見据えていたジオルは、しばし後に杖を降ろして首を振った。


 「あれが窮奇ですか…。ヤバいっすね。狙撃自体は可能ですが、撃っても多少吃驚させる程度で終わります。魔力への防御がパネェわ」

 「彼は、『魔弾』の二つ名で知られる魔導士です。10イリ(約5㎞)離れた場所からでも敵将を狙撃し、陣地を破壊する事もできます」

 「ま、さすがに範囲を陣地まで広げんなら、準備に半日くらい貰いますけどね」

 

 軽い口調で謙遜のような補足がされたが、老人と少年は目を丸くしたままだ。

 魔導は強力な攻撃手段の一つではあるが、その射程はせいぜい半イリもない。揶揄われているのではと少年は疑ったが、そうする意味も、意図も見当たらなかった。


 「その彼でも、無理だと諦める程です。まして、相手は同士討ちを誘発する攻撃をしてくる」

 「同士討ちがやべーから、独り(タイマン)でやるっつうあたりが、最高サイコーにあの方ですわ」


 それは聞くだけなら、理に適う作戦だ。

 同士討ちをさけるのなら、一人で戦えば問題ない。

 ただ、問題は窮奇が人が一人で立ち向かえる相手ではないという事だが。


 「安心しなよ、爺さん。窮奇は確かにヤベーけどよ」


 砂埃に塗れた顔で、ジオルはニヤッと笑う。

 いや、彼だけでなく、親衛隊長を除く騎士たちは、同じような笑みを浮かべていた。


 絶対の信頼と、ほんのわずかな呆れ。二つがまじりあった笑みを。


 「俺らの主、トール・オドンナルガ・アスラン様の方が、もっとヤベーからよ!」

 「せめて、もっとお強い、にしておきなさい」


***


 何故魔力に満ち、心地よい『迷宮』から出てきたのか。

 もしも、窮奇にそれに答える遊び心があれば、帰ってくる回答は「暇つぶし」だろう。


 人間はまあまあ美味いが、食わねば死ぬというものでもない。

 『迷宮』に棲むものは生き物だろうとそうでなかろうと、魔力をたっぷりと含む。

 むしろ、それらを食えない方が死ぬ。人がいくら美味くとも菓子だけでは生きていけないように、窮奇の様な魔獣は、魔力含有量の多いものを食わなくてはやがて衰弱死を迎えるのだ。


 だから、外に出て人間の集落を襲撃し、その後も追い掛け回すのは単なる暇つぶし。遊びに過ぎない。

 散々甚振り、蹂躙し、食った。そろそろ、「ちゃんとした食事」をとりたい。『迷宮』にいったん戻り、腹を満たしてからまた来よう…そう思い、欠伸と共に身を起こした時。


 不意に鼻腔に届いた、上質な魔力の匂い。


 にんまりと窮奇は嗤った。人間で遊んでいると、たまにこういうのが釣れるのだ。

 人間にしては魔力の高い個体。こういう人間は、より美味い。美味いうえに僅かばかりとは言え栄養も取れる。

 

 この人間を食って、『迷宮』に戻ろう。

 そう考えて舌なめずりし、魔獣は追跡に移った。


 その魔力の高い人間は、すぐに見つかった。同時に人間も窮奇に気付き、跨る馬を駆けさせる。

 馬の脚は、窮奇よりも早い。だが、窮奇は慌てなかった。


 聞く者の魂を打ち据え、心底から怯えさせ、恐慌に陥らせる咆哮をあげる。

 それは人間の幼体の声に似ていることも、窮奇は知っていた。この声を、人間は無意識にでも聞こうとする。

 多少魔力が高い程度では、窮奇の咆哮は防げない。跨る馬が自分を襲うと怯え、転がり落ちるはずだ。


 しかし。


 人間はびくともせず、変わらずに馬を駆けさせている。

 おかしい、と二度、三度と繰り返しても、効果は表れなかった。


 人ならば舌打ちの一つもでるところだが、窮奇にその動作はない。虎に似た四肢で荒野を駆けながら、体内の魔力を練る。


 窮奇の周りで大地がえぐれ、浮き上がり、凄まじい速度で飛んでいく。狙いは無論、人間だ。

 潰してしまうと食べるところが少なくなるから、できればやりたくはない。

 だが、逃がすにはあまりにも惜しい獲物だ。多少小さくなってしまっても、口に入らないよりはずっといい。


 土塊の砲弾は、狙い違わず人間と、人間の乗る馬に殺到する。しまった、これでは少しどころではなく小さくなってしまうと、窮奇はやや後悔すらした。

 砂煙と轟音と共に、土塊は地面に激突した。その間に、人間が潰れている。それを窮奇は疑っていなかったが。

 

 おかしい、と思ったのは、あたりにも血の匂いがしないこと。

 そして、あの人間の魔力の匂いが、一層強くなったこと。


 さらに地を蹴る四肢の動きを早くしながら、窮奇は土塊に込めた魔力を解いた。途端に砂となって崩れ落ちる土塊の中に、赤い色は見当たらない。


 避けられた。いや、防がれた。

 魔力の匂いが強くなったのは、人間が防護壁を張ったからだろう。

 人間が使う魔導は様々だ。防護の魔導に長けたものなら、できるのかもしれない。昔、そんな人間で遊んだこともあった。


 あの時は、どうしたのだったか。結局、窮奇本体の爪を防げるほどではなく、防護壁ごと引き裂いたのだったか。


 ただ、その時、とても楽しかったことは覚えている。すぐに潰してしまうのも悪くはないが、抵抗し続けるのを揶揄うのも楽しいものだ。

 つまり、この人間は楽しい玩具だ。他の魔獣に見つかって取られる前に、もっと遊ばなくては。


 窮奇は喜びに目を輝かせ、猛然と人間を追う。 

 時折土塊を投げつけ、地面から石槍をはやし、ちょっかいを掛けるも、人間はことごとくを防いだ。


 これはもう、自分の手で直接引き裂いてやろう。あの時のように。

 魔力は走りながら存分に練った。土塊を投げるくらいでは、大した量は消費しない。だが、次の手は練った魔力を全て費やすことになるだろう。

 それを考えると、人間が多少魔力を持っていても、食ったところで消費した魔力の方が多い。


 しかし、少しくらい無駄遣いして弱ったところで、三百年ほど生きた窮奇を殺せるような魔獣は『迷宮』の中でもわずかだ。

 入ってすぐの階層あたりで暮らしている連中を食えば、すぐに戻る。


 ただまあ、あいつらは不味いのだよな。

 そう思いつつも、窮奇は魔力を行使する事を止めなかった。


 早く、あの人間を引き裂きたい。

 仰向けに押さえつけて、腹を割ってみようか。


 そうすれば、めちゃくちゃに足掻き、魔力を生成する。

 死にそうになった瞬間が、一番魔力が高まる生き物なのだ。人間と言うのは。


 その楽しい想像と共に、窮奇を魔力を荒野に流していく。


 窮奇の魔力は荒野へとしみこみ、窮奇の思うさまに操られるしもべと化す。

 ひびわれた大地に、窮奇は命じた。


 その命令に従い、砂煙が上がる。

 馬で駆ける人間の往く手に、巨大な壁を生じさせて。


 避けるには近すぎる。馬と言うものは、急速には曲がれないことを窮奇は知っていた。無理に避ければ転倒する。

 避けられなければ激突し、即死はしないまでも動くことはできなくなるだろう。

 防護壁を張ったところで、衝撃までは殺せない。

 どちらにせよ、馬も人間も壁か地に叩きつけらる。


 だが、窮奇の予想はことごとく外れた。


 響いたのは、肉が潰れる音ではなく、破壊音。

 壁が生じた時よりもさらに激しい砂煙が立ち上り、凄まじいまでの…窮奇でさえ一瞬足を止めかけるほどの魔力が放たれた残滓が見えた。


 鮮やかな、青い魔力。

 まるで華が咲き、散っていくような、鮮やかな。


 一瞬それに見とれ、窮奇は我に返って止まった脚に力を入れた。

 この人間は、絶対食う。ひょっとしたら、『迷宮』の深層に棲む者たちと同等の魔力を有しているかもしれない。

 食えば、極上の美味だろう。欲しい。絶対に逃がさない。


 砂煙が荒野の疾風に散らされ、再び窮奇の視界に獲物の姿が映る。

 

 「!?」


 荒野を駆けていく、馬。

 しかし、その背にいたはずの人間が、いない。


 落ちていたのか。ならばどこに。


 慌てて砂煙がまだ立ち上る地面。そこに極上の獲物の姿を探す。

 どこだ、どこだと首を巡らせ、視線を這わせ、あの青い魔力の残滓を追う。


 見つけた。あの魔力の匂い。

 その、青い花びらのような残滓を辿る窮奇の視線が見つけたのは、地面に片膝をつき、大弓を構えた人の姿。


 疾風に靡く髪は、朝日の色。

 窮奇を見据える双眸は、満月の色。


 まだ、若い。少年と青年の境にいるように見えた。

 いや、少女か女性と見るものも多いだろう。

 どちらにせよ、大陸中どの国の基準で比べても、「絶世の」と「美」がつくが。


 「一射必中ナム…」


 薄い形良い唇が紡ぐ声。

 それは、青い華の魔力に似つかわしい容貌に不釣り合いなほどに低い、男の声。


 「一撃討滅ハチマン!」


 窮奇は知りようもない。

 その言葉は、追い掛けた人間の先祖が異界より齎した語句であり、その子孫が標的を必ず討つと神に誓う言葉だという事を。


 窮奇が知りえたのは、眼窩に突き刺さった熱。

 板金鎧すら打ち抜く大弓が放った矢は、狙い違わず三百年を生きた魔獣の右目に突き刺さり、なおも頭蓋奥深くへと潜り込んだ。


 その痛みに咆哮を上げながらも、窮奇は顔を喜びに歪ませる。

 この程度では窮奇は死なない。矢を引き抜き、極上の魔力を食えばすぐに完治する程度の負傷だ。痛みも我慢できないほどではない。


 ああ、はやく、はやく。

 この獲物を引き裂いて。湯気と魔力が立ち上る血を啜り、肉を食い、骨を噛み砕きたい。


 後ろ足で立ち上がり、爪を振りかぶり。

 振り下ろそうとした瞬間。


 窮奇の身体が、文字通り跳ねた。


 空中で二度、三度と痙攣し、荒野に落下する。

 重い音と共に降ってきた窮奇のもとに、その獲物だった人間はゆっくりと歩み寄った。

 すでに弓を降ろし、いつでも抜けるように腰の剣帯に吊るした愛刀の柄に手を掛けている。


 「ふむ。思ったより弱かったな…。こんなことをしなくとも、正面からいっても問題なかった気がする…」


 窮奇の口からは酷い臭いを放つ煙ともに、どろどろと液体が零れだしていた。

 身体は時折痙攣するが、生きてはいない。

 ただ、突き刺さった鏃を中心に発動した「雷撃」の魔導の名残が、死肉を震わせているだけである。


 「…」


 鏃に刻んだ陣から放たれた「雷撃」は、自然の雷に匹敵するほどの威力で、魔獣の頭蓋の内部で荒れ狂った。

 窮奇の骨も皮も、魔力抵抗が強い。だが、その中にはいっている肉や血や脳は、そうではないのだ。

 むしろ魔力を多く内包し、伝達する性質を持っている。


 矢を打ち込み、鏃を体内に潜り込ませ、その中で雷撃の陣を発動させよう。

 それは、窮奇を討つと決めた時に考えた作戦だ。

 だが、ただ矢を放っても防がれるだろう。ならば魔獣の目を晦ます一瞬が欲しい。


 だから窮奇に自身を追い掛けさせ、矢を射かける隙を作った。

 どこかで馬から飛び降り、視界から消えようと思っていたところに、あの土壁はありがたかった。

 己が魔力をぶつけて砕き、姿を晦ますことが出来た。作戦は大成功だ。

 

 しかし。


 「魔獣は、捨てるところがない、と聞くが…脳とか、目玉とかも、もしかして…貴重な何かだったりするのだろうか」


 窮奇の左目は白濁して眼窩から飛び出し、右目は当然ながら潰れている。おそらく、だらりと垂れた舌や何かも、無事ではない。


 「…さらに言えば、貴重な資料だったりとか」


 高額な何か、ならば保証すればいい。

 窮奇一頭がどのくらいの値段になるかはわからないが、まあ、贖えない金額ではないだろう。

 だが、高価なのは理由があるはず。ただ珍しい毛皮が高く売れるとか、そういう事なら別にいい。見たところ、毛皮は無事そうだ。顔周辺は焦げているが。


 しかし。この「窮奇」自体が、貴重な標本になるのだとしたら。


 「お…弟が、悲しむだろうか…」


 博物学という、この世界の何もかもを分類するという学問の学者である弟は、その辺の虫から辺境の魔獣まで、なんだって知りたがるし観察したがる。


 聞けば、窮奇は名の知れた魔獣だが目撃例は少なく、討伐された記録はもっと少ないらしい。

 何せ、出現すれば出会った人間は大抵殺されるのだから仕方がない話だ。

 龍は誰もが知っているが、実際に見たことのある人間は世界中で数えられるほどしかいないのと同じである。

 

 しかし、弟は「いつか龍を観察してみたいなあ!食性とか、排泄とか、繁殖とか!」と良く目を輝かせていた。

 死を賭して龍が糞をする姿を見てどうするのだと人は言うが、弟には十分すぎるほどに命を懸ける理由になる。


 そんな弟が、珍しい魔獣の死体が調査できると聞けば、絶対に大喜びする。

 「兄貴、ありがとう!窮奇の全身標本を造れるなんて!」と喜び感謝する姿を想像しただけで、胸が躍る。


 「…」


 学者ではないので、魔獣のどこが重要なのかはわからない。

 しかし、脳や目玉と言うのは、わりと「重要」なほうなのではないだろうか。

 弟の持っている標本の中には、鯨の目玉とかあったし。

 

 「…」


 窮奇の口から臭気と共に流れ出ているもの。たぶん、それが脳だった器官だ。


 「いや、しかし!しかしだ!まあ、何と言うか、全体の九割くらいは無事だしな!うむ!心臓とかも!…無事だろうか?」


 魔力は血管を辿る。炸裂した雷撃は、おそらく血管を焼き切りながら心臓へと到達した…のではないかと思われた。


 「…」


 無言で、指を口にくわえて指笛をふく。

 その音に、駆け去った馬が戻ってきた。

 

 「フルゥーイ、フルゥーイ。よしよし、お前は良い馬だな。ルミル氏族長殿が這いずりながらも自ら俺にと渡してくれただけあって、良い馬だ」


 よく知らない騎手を背に、魔獣に追い掛けられるというのは、幾ら駿馬であっても恐ろしかっただろう。

 しかし、乗り手の指示を無視して逃げ惑う事もなく、窮奇を完全に引き離さない速度で駆け抜けてくれた。


 「それに比べて、この兄は…っ!弟よ…!!西の地にて兄の、兄の失態を叱ってくれ!すまぬ、すまぬ弟よおおお!!!

 

 今は西の隣国にいる弟は、たぶん今頃くしゃみをして、悪寒に身を震わせている。


 「弟おおおお!!!」


 疾風が兄の鳴き声を乗せて、荒野に散らしていった。


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