〔参〕
トウヤが海沿いの市場を訪れたのは、薬の調合に必要な干海鼠や鹿尾菜、鯨の油などを仕入れるためだ。大風呂敷に仕入れ材料を包み帰路につこうとした時、通りの先で男と女が諍う声が聞こえた。
よくある痴話喧嘩だろうと気にも留めず通り過ぎようとしたが、女の声に聞き覚えがあった。人垣の隙間から覗き見れば、里で無法者扱いされている男とサキが言い争っている。
仲裁に入るかどうか。少しの間、トウヤは迷った。
ただの痴話喧嘩なら、余計な世話だ。それに仲裁に入ればサキが、ますますトウヤに付き纏う事になるかもしれない。
他に人もいる、危険な事にはならないだろうとトウヤが踵を返したとき。
「獄鬼を皆殺しにする」
聞こえてきた意外な言葉に足を止め振り返ると、サキが男に乱暴な扱いを受けている。
考える間もなくトウヤは男の首根っこを掴み、高々と持ち上げていた。
「くそっ、なんだぁ、てめえ! 放しやがれ!」
「往来で人目も憚らず下劣な行為をするのは獄鬼くらいと思っていましたが……これは失礼、アグリの旦那でしたか。今日は仕入れに来たところですが、丁度あなたの御父上に頼まれていた薬が手元にあるので、あなたと一緒に届けに行きましょう」
そう言ってトウヤはアグリを肩に担いだ。
「やめろ! 頼む! 親父は勘弁してくれよぅ!」
「そうですか? ではまた、日を改めて」
肩の上で必死に暴れていたアグリは、いきなりトウヤから手を放され地に転がり落ちる。
「くそう! 覚えていやがれ!」
捨て台詞を吐いてアグリは、転がるようにその場から逃げ去った。
アグリが遠ざかり、人々が体裁悪そうに散り散りになるのを見てトウヤは深く溜息を吐く。惨鬼を憐れと思う良心は、誰の心にもある。しかし、庇う勇気も力も無いだけだ。
凶悪な獄鬼。その存在が無くなれば、オニ衆として一括りにされている関係も変わってくるのだろうか?
「あっ、あのぅ……ありがとう。トウヤ先生に助けて貰うの、これで二度目だね……やっぱり、先生は強いんだ! 一度目に助けてくれたときも、浜に落ちていた流木で獄鬼を追い返してくれた。だから、あたしどうしても先生の児が欲しいんだよ! そしたらきっと……!」
「……」
一ヶ月ほど前の事だ。
月が明るく海は凪いでいた夜。トウヤが散歩がてら浜辺で薬になりそうな海草や生き物が流れ着いていないか探していたところ偶然、獄鬼から逃げているサキに出会ったのだ。
獄鬼は里から十三里(約五十キロメートルキロ)ほど海向こうにある孤島に群れ成して住んでいる。その数、およそ三百体全てが雄体であった。
雄体しか産まれない獄鬼が種族を増やすためには、惨鬼の雌体が必要だ。そのため島の地下洞窟で採取される金銀、瑪瑙や水晶をヒト衆と取引し、肉や魚と同じように遊女屋から惨鬼の雌体を買っているのだ。
しかし、たまに若い獄鬼が欲を抑えきれず海を渡り、里の女や雌体を襲う事があった。サキは浜で貝を拾っていたところを獄鬼に見つかったらしい。
「あの時の獄鬼は、たまたま遠路を泳ぎ切って疲れていたから追い払えたのです。私は剣客でも武人でもありません。力の無い、ただの薬屋。先ほど、あの男に獄鬼は敵だと言っていましたが、敵討ちのために嘘か誠か解らない噂話を信じ、叶わない復讐心に囚われても虚しいだけです。遊女屋が辛ければ、私が主人に話をつけて湯屋か小料理屋で働けるようにしてあげましょう。ヒト衆との間に児を成すなど諦めて、良き伴侶をみつけ児を成し幸せに生きた方が、あなたのためですよ?」
地に座り込んだままのサキに、トウヤは手を差し伸べる。だがサキは、その手を取らず顔を上げるとトウヤを睨み付けた。
「なんで……酷いよ、せんせぇ……せんせぇは、知らないんだ。獄鬼の島に売られた仲間が、どんな目に遭うか!」
「えっ? 獄鬼の雄体と夫婦になって児を育てるのでは? 違うのですか?」
トウヤの言葉を聞いたサキの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「獄鬼の児を孕んだ雌体は一年半、腹の中でその児を育てる。そして産まれるときは、ほぼ成体に近い姿の獄鬼が母体の腹を食い破って出てくるんだ。母親は、その児の最初の餌になるのさ。あたしは幼体の時に母ちゃん姉ちゃんと一緒に島に売られた。最初に母ちゃんが死んで、次に姉ちゃんが……まだ児を成せる身体じゃ無いあたしは、二人の子供の世話をさせられてたけど、十三の時、島に取引に来ている船に潜り込んで逃げ出した……あたしは獄鬼が憎い。一体残らず殺してやりたい! そのためには、強い混ざり児を産まなきゃならないんだ! 叶わない願いかもしれない……夢物語かも……だけど! 先生には、あたし達の事なんかわかんないよっ! 馬鹿ぁ!」
サキは足下の砂を鷲掴みにしてトウヤに投げつけ、泣きながら走り去った。
真実を知り衝撃を受けたトウヤは、ただ呆然と立ち尽くすしか無かった。