気づいたようです
「おーい、どうだぁ? 捕まえたか?」
馬車を操っていた男が、先に少女を追って駆け出した相棒にようやく追いついて声をかけた。
その声に振り向いた相棒は、静かに首を振る。
「ダメだ。こっから落ちていった」
「飛び込んで逃げたってのか?」
「いや、逃げるのに夢中で気づかないまま落っこちた感じだなありゃ。間抜けなお嬢ちゃんだぜ」
二人でその断崖の縁に立ち、下を覗き込んでみる。
覚悟して飛び込んだとしても確実に無事では済まない高さだった。
まして気づかずにここから落ちていったとなると、万に一つも助かる可能性はないだろう。
ゴツゴツとした断崖の岩肌、そこから所々鋭い岩が突き出している。
もちろんそれらにぶつかれば酷いことになる。
どこにも身体をぶつけずに滝壺へ真っ直ぐ飛び込むにはよほどの運が必要に思えた。
それに、運良く無傷で滝壺に落ちても、この激流。泳ぎ切るのは不可能に近い。
溺れ死ぬか、そこでも身体をあちこちにぶつけて死ぬ。
真夜中な上にろくな明かりもないせいで、落ちていった相手の姿は確認できなかった。
だが、そんな確認すら不要だと思われた。
「クソッ、思いっきり蹴りつけてきやがって……まだ顎が痛え。とっ捕まえたらみっちりお仕置きしてやるつもりだったが……」
「ここから落ちて死ぬよか、そのお仕置きの方がよっぽどマシだったろうにな。折角の、十年に一度あるかないかの上玉だったってのに。ああ、もったいねえ」
真っ暗な空間を覗き続けながら、男達はひとしきりそうぼやく。忌々しそうに。
だが、その内に考えを切り換え、そこから離れることにした。
ランタンの明かりが遠ざかり、断崖の縁には再び闇が戻る。
☆★
男達がそんな勝手なことをのたまい、悪びれることもなく立ち去っていった。
それをサークが知ることはなかった。
男達が滝壺を覗き込む少し前。
まったくそいつらの予測通りに、サークは落下しながらその身体を何度も岩肌や張り出した岩へとぶつけていた。
言葉に出来ない激痛が走り、意識が飛びそうになる。
いや、実際に意識は何度も飛ぼうとしていた。
その度に身体をぶつける痛みがそれを引き戻す。
最後に流れ落ちる激流に飲まれたところで、ようやく一瞬だけ痛みがなくなった。
その一瞬で、サークはうっすらと思考する。
……ああ、自分はここで死ぬのか。
何度も固い岩にぶつけた身体は、どう考えても治しようのない致命傷だらけだった。
痛いなんてものじゃない。人生で一番の苦しみ。
身体を動かそうとしてもまるで感覚がない。腕や足が千切れてどこかに飛んでいってしまったのかもしれない。
まだ少しだけ意識はあるが、それもすぐになくなるだろう。
そんな状態で今からこの激流を泳げるはずもない。
となると溺死か、あるいは失血死か。
いずれにせよ、ここから助かることは絶対にあり得ない。
あんな悪漢に捕まり、酷いことをされ、売り飛ばされた先でも尊厳を粉々に破壊される。
落っこちる前、そんな風に生きるくらいなら死んだ方がマシだと考えた。
だが、こんなにも間抜けで惨めな死に方をするとは思わなかった。
冒険者としての過酷な冒険の果てにでもない。戦士として戦って果てるでもない。
突然女の子になってしまった挙げ句、自分を襲う輩からみっともなく逃げようとした。その果ての事故死。
そんな自分の末路には後悔の念以外の何も湧いてこない。
いや、あまりにも理不尽な運命に対する嘆きと憤りもあるか。
だけど――。
サークは思い直す。
実は、これで良かったのかもしれないと。
少なくとも、これでもうこの先のことを考えないで済む。
こんな身体で、どうすればいいのかもわからないまま、ずっと不安に苛まれながら生きていかずに済む。
見る影もなく惨めな肉体に成り果てた。そんな自分に別れを告げられる。
一瞬だけそんな開放感を得ると共に、サークの意識は真っ暗な闇の中に沈んでいった。
☆★
沈んでいた意識は、唐突に浮上した。
まぶたを開くと、穏やかな陽光に照らされる木々が見えた。
続いて、身体の下の方に妙に冷たい感覚。
緩やかに流れる水に浸っているのだと気づいた。
「――――!?」
がばっと身を起こす。
両腕、両足共にある。自由に動く。
「っ、あ――」
声も出る。
どうやら拘束はいつの間にか千切れたかしたらしい。あの激流に流されている途中で。
どこまで自分が流されたのかはわからない。
だが、ここは比較的流れが穏やかな下流であるようだった。
どこかの岸に打ち上げられて、そこで止まるくらいには。
運良く助かったのだろうか。とんでもない幸運にも程があるが。
「…………?」
サークは一瞬そう考えたが、それにしてはどうにも腑に落ちないことだらけだった。
何故なら、あれだけの激流を流されてきたというのに、今の自分の身体には痛みがまるでない。
というか、流される前に何度も身体を岩にぶつけたはずだ。
だというのに、急いで体中を確認したところ、そんな傷は一つもなかった。
負傷の痕跡すら欠片もない、まったく綺麗なものである。
透き通るように美しい、汚れのない少女の身体のままだった。
ということは、身体を岩にぶつけたと思ったのは錯覚だったのだろうか。
しかし、そういうわけでもないようだった。
何故ならボロボロになった衣服には、何度も身体をぶつけたせいで出来たのだろう破れや損傷が残っている。血による汚れも酷いものだ。
服だけは転落死した人間が纏うそれそのものの状態。
だというのに、身体にはまったく痛みもなく、傷の一つすら見当たらない。
まるで、身体だけが真新しく生まれたままのような状態と言えた。
不調の欠片もなく、元気で健康そのものだ。
あまりの奇妙さ。不気味な状況に、激しく困惑するより他ない。
サークは立ち上がって自分の身体をしげしげと、不思議そうに見下ろした。
生還した喜びなどまったく湧いてこないまま、怪訝な顔でぽつりと呟く。
「一体、何がどうなってんだ、この身体……!?」