プロローグ 【待っててね】
────■■■ちゃん。
呼ぶ、声。
その前半は、もやがかかったように聞き取れない。だが、それが少女を指しているのだと、すぐに分かった。
「う………あ、あ?」
随分とだらしない、声が溢れる。一人の少女から。長い夢から醒めた後のような、欠伸まじりの声である。
────ごめんねぇ、ごめんなさい。
対するもう一人の少女は、謝っていた。
いつもとは違う、まるで掻き消えてしまいそうなくらい高い声で。
──ごめんなさい、ごめんなさい。
謝っていた。声を大にして。謝り続けていた。
少女に向かって、瞳を震わせながら。
こんなの、誤っている。
「────ち、がうよ」
謝る方が違うじゃないか。
間違っているじゃないか。
誤っているじゃないか。
──ごめん、■■■ちゃんごめんなさい。
真っ赤に染め上げられる、教室の真ん中で。
その子は、うずくまり、両手で顔を覆っていた。誰かに見せつけるように。大袈裟に。教室には、もう誰も居ないのに。
泣きまねではなく。
それも冗談ではなく。
少女は両手を濡らして、謝っていた。
「ちがうよ、謝るのは、ウチの方だから!」
やっとまともな言葉を話せたと思った直後。両足から、だんだんと力が抜けていった。喉の奥が張り付くように渇いて、それを境に、少女は発声すら出来なくなっていった。
「わ、私が……や、まら、なきゃ」
いけないのに。
このまま終わるのは、絶対に駄目なのに。少女の体は言うことを聞かない。吐くのも、吸うのさえも苦しかった。見えない毒ガスが、教室に充満しているんじゃないだろうか。そう思うくらいに。
「ぁやあ、……ら、な、ぃゃ」
ともなく湧いた使命感に、手を伸ばす。
もう、膝も、手も、足も、胴も、とうに力が入らなかった。全身を焼くような熱さに埋め尽くされ、気付けば地べたに倒れ込んでいた。ジグジグと、ムカデが肌を這い歩いているような痛みだ。
奥歯を噛み殺し、右手を伸ばす。
今なら右手以外は、別に吹っ飛んでも構わなかった。
ただ、あの子を。
真っ赤な世界に独り、取り残したくは無かったのだ。
謝って。
もう一度その手を握って。
赤い教室から、彼女を連れ出さないと。
「あさ……ひ……っ」
煮えくり返るような熱さが喉まで上がる。あと数ミリのところで、膝を抱える少女には届かない。
もどかしさに身をよじるが、その度に皮膚が悲鳴を上げていた。
少女は顔すら上げてくれないのに。
いくら名前を読んだところで、もう手遅れなのに。
「あ、さひ……! あさひっ!」
少女の頑なな姿勢が、その言葉がいかに無駄で無力で無謀だったかを。
その全てを物語っていた。
遂に視界まで曇りだし、濁った眼球はその少女すらまともに映さない。
徐々に。
確実に。
少しずつ。
赤い世界は中心から広がるようにして、モノクロの世界へと変わっていく。
「っ、え……………!」
自分の声すらも聞こえない。
意味もなく、言葉に成きれもしなかった獣のような呻きが反響するばかりである。
──ごめんなさい、もう無理だよ、私!
またいつか。
あなたに。
会えたなら。
そのときはもう。
謝らせたりしないから。
だから。
「──待っててね」
そう言って。
赤い闇の中、地を這う■■■は、白い渦に静かに呑まれていったのだった。