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罪避り人  作者: 裏々正
8/14

5・塵屑



 ――ゴッ!


「―――ぐあっ!」


 クラスメイトの男子が、椅子や机を巻き込みながら仰向けに倒れる。


 いつぞやの、私に対して舌打ちをしてきた不愉快な奴だ。


 今日もまた、私の顔を見るたびに嫌な顔をしたので、軽く殴ってやった。


「何すんだよおまえええ!」


 もっともな台詞だ。


 普通、嫌な顔をされただけでこんなことはしないから、された奴は理不尽極まりないだろう。


「私に対して嫌な顔をする顔がウザイから」


 だが、残念ながら、今の私にそんな理屈は通用しないということも理解していただきたい。


「なっ! ふざけんなよおまえ! それだけで殴るのかよ!」


 私が理由もなく殴る人間じゃないと色んな意味で理解しているそいつは、殴られた怒りよりも私の行動に対する驚きのほうが大きいようだった。


「そう、ウザイから」


「な……っ……んな……」


 あまりにめちゃくちゃな理屈に、そいつは金魚のように口をパクパクさせるしかない。


「ふっざ……けんじゃねえええ!!」


 ようやく理不尽さと怒りが湧いてきたのか、勢いよく立ち上がって私に殴りかかる。


 ちっとも怖くなかった。


 皮肉なことに、それ以上の恐怖を覚えていたから。


 私の胸倉を掴もうとする手をするりとかわし、平手打ちをカウンターで食らわせようとしたが、


「やめて……」


 その手を別の女子が掴んだ。


 小学生にしては背が高く、肉体も他の女子に比べたら引き締まっている。


 女性にこんな表現は失礼だが、随分とガタイのいい女子だ。


「……(あや)


 彼女はこのクラスの学級委員長をしている、みんなのまとめ役であり、リーダーだ。


 私と同じく大人びた女子で、しかし私とは決定的に違う。


 柔らかい雰囲気で面倒見が良い、クラスの人気者だ。


 さらには柔道を習っているらしく、実力も相当のもので、彼女の言うことには逆らえない。


 それどころか、持ち前の包容力で、殆どのものは逆らうどころか好意的に彼女の言うことを聞く。


 以前この男子とトラブルを起こした時、担任が現れなければ止めていたのは彼女だっただろう。


 心情的には彼女にも逆らいたかったが、実力を考えると力づくでも止められかねない。


 不本意ながら私もここは従うことにした。


「命拾いしたね」


 男子生徒に軽蔑(けいべつ)の眼差しと侮蔑(ぶべつ)を送る。


 そいつは顔を真っ赤にして再び迫ろうとするが、再び彩によって阻まれる。


「もう止めなって」


「邪魔すんなよ彩! 今日はそいつが悪いだろうが!」


「だからって、こんなことしても意味ないでしょ? しかもクラスの皆が放課後にこのことを話し合うなんてことになる。皆の迷惑も考えて」


「……ぐっ!」


 言っていることが何か違う気もしたが、そいつは何も言い返せなくなったらしい。


 悔しそうに歯噛みしながらちらりと彩を見ると、顔を背けて俯いた。


 どうやら彩に対して好意を持っているらしい。


 舌打ちをしながら、大人しく自分の席に戻っていった。


 いつも嫌悪感を抱いていた奴だが、そういう見方をすると少しは可愛いものだ。


「あんたも、こんなことしたってどうにもならないって、自分が一番分かってるでしょ?」


 もっともらしく言うが、それについてだけは理屈で語られたくないので、


「うるさい……」


 そう言い残して席に戻る。





 ……私は、荒れた。


 もう、どうすれば良いか分からない私に残された手段は、他人に当たることだった。


 そうすれば、先程の男子のように怒り狂って私に迫り、大喧嘩が出来る。


 そのことで嫌なことを忘れられる。


 ただ、彩のような存在がそれを許さなかったので、私はまた別の奴にもぶつける。


 それでも、私の身上に同情してか、私に対する接し方が穏やかになった。


 ……ムカつく。


 そんな、腫れ物に触るかのように接してくるな。


 まあ、今までの態度だったとしても、私のすることも同じだったけれど……


 私のやることなすことに、抵抗があるとないの違いだけだ。


 どちらにせよ、今の私の心は噴火寸前の活火山のようなものなので、私に対して話しかける奴もそうそういなくなった。


 私にとってはそれも面白くないので、また手当たり次第にふっかけるだけだ。





 ――しかし、家に帰宅すると……


「お帰り」


「……………………っ!」


 ……山中源一(やまなかげんいち)


 つまり、父がすでに帰っていた。


 いつもはいかにも「忙しいんです」と言いたいばかりに、家にいるときでもスーツ姿だった父。


 それが、今日は黒いジーンズに茶色のジャケットという、オヤジくさい私服を着ている。


 その上、リスのイラストが描かれているエプロンをつけていて、全然似合っていない。  


「…………今日は、仕事じゃないの?」


 今は、金曜日の丁度正午。


 学校はまだ低学年仕様のため、午前中に終わった。


 でも、父は今日、本当に(・・・)仕事の筈だった。


「今日の昼はお前一人になるだろうと思ってな、休んだんだ」


「……は?」


 何を言ってるんだろうこいつは。


 本来の休みの日まで出勤するという仕事大好き人間のくせに。


 娘のことなんて、どうでもいいくせに。


 ここ数日、お弁当を作ったり家事を積極的にやったり――何のつもりだ。


「ほら、もうできるぞ」


 すでに昼の支度をしていたようで、ぐつぐつと音をたてている鍋をおたまでかき回していた。


「じゃあ、昼食にするか。手を洗ってきてくれ」


 ……なんなんだよ。


 私は無言で洗面所に向かうが、気に食わなくて洗面台を蹴飛ばした。


「ど、どうかしたのか!?」


 慌てた様子で父が入ってくるが、私の神経を逆撫でするだけだ。


「――うるさい!」


「す、すまん……!」


 申し訳なさそうに洗面所から出て行くが、私はやり場のない怒りが治まらなかった。


 リビングに戻ると、テーブルに鍋が置かれ、器に昼食をよそっている父の姿があった。


「さ、食べてくれ。パパだって、結構料理とかできるんだぞ〜」


「………………」


 椅子に座り、テーブルを挟んで父と向かい合う。


 そこには、人参や大根などの野菜にお揚げや餅など、食材が豊富に入っている雑炊が置かれていた。


 私はロボットのように、ゆっくりとそれを口に運ぶ。


 ……不味くはない、どころか美味い。


 それもまた(・・・・・)、ウザイ。


「…………なんなわけ?」


 いかにも不満そうな口調で、そんなことを訊いてみた。


「……何が?」


 ―――分かっているくせに訊き返すんじゃねえよ……!


「今まで私をほったらかして無視して拒絶して、何故か私が話しかけた途端にこれまた何故か非常に忙しくなるオトウサマ(・・・・・)が、何でこんな時間に居てウザッタイほどに話しかけてきて昼食の準備なんかしてるのか、頭の悪いワタクシめ(・・・・・・・・・)にも是非教えてイタダキタインデスヨウ」


 嫌味な長い台詞を一気に、なおかつ部分的に棒読みにして言ってやった。


 父は一瞬顔を(しか)めたが、すぐに真顔に戻った。


「……お前の、父親だからだ」


 私は物凄く具体的に訊いてるのに、何でアンタはそんな抽象的ちゅうしょうてき表現(ひょうげん)で答えるかな。


「……罪滅ぼしのつもり?」


「……そうだな。それもあるな」


「で? こんなことで今までの罪がチャラになると、本気で思ってるわけ?」


「思っていない。今までの私がしたことを思えば、こんなことぐらいで償えるわけがない。だが、何もしないよりはマシだろう?」


 いちいちもっともらしいことを言いやがって……!


「私がより一層不愉快になるから止めろ(・・・)


「私がそうしたいんだ。やらせてくれ」


 断固として譲ろうとしない。


「――ああああああああああああああああもううるさいうるさいうざいうざいうざい! なんなのよ! 何でいきなりこんなことすんのよ! 何であんなことがあってからこうするわけ!? “今更”って言葉を辞書で引いてみなさいよ!!」


 もう、私も何が何だか、分からない。


 色んなものが、感情が渦巻いて、ぐちゃぐちゃで吐き気がする。


「……本当に、済まないと思っている。だが、だからこそこうするんだ。起こってしまったことは、変えられないのだから」


「……!」


 かつて、私が向けて欲しいと思っていた視線で、


「今、自分に出来ることをしようと思っているんだ。私自身に、そしてお前にも」


「――っ!」


 私はリビングを出て、玄関から家を飛び出した。


 あの目に耐えられなくなった。


 追いすがるように父が叫んだことは―――


「―――志保(しほ)!」


 ――ああ、私の名前。


 父からは久しく呼ばれていなかった、名前。


 母にも事切れる直前に呼ばれた、父に名付けられた、名前。

 

 ……会いたいよ。ママ…………





    *





 ――私は、とある家の前にいた。


 私の家と同じ、あまり大きくはなく、かと言って決して貧相とはいえない。


 この住宅街と同じく、裕福なのか貧乏なのかよく分からない、どっちつかずのような家。


「―――あれ?」


 その住人が、家から出てきた。


「志保ちゃん?」


 そんな呼び方も、男らしくないと思う原因の一つだ。


 私より年下で、実年齢以上に幼く見える彼。


 笑えるのが、その名前。


 ある意味、そんな名を付けた親にも苛めの原因はあるのではと思ってしまうぐらい。


 こいつに、最も似合わない名前……

 

 ――女性のような外見で、私たちが並んでいると姉妹にしか見えないような、そんな――少年。


「……うん」


 私は弱々しく頷く。

 

「どうかしたの?」


「あ……いや…………」


 珍しく私は口ごもる。


 いつも少年に対しては遠慮もなく、言いたいことをはっきり言ってきた私の様子は、彼にしてみれば大層意外だっただろう。


 ちゃんと用事があったのに、用が用だから(・・・・・・)、何て切り出したら良いか分からない。


「じゃあ、良かったら家で、遊ばない?」


 でも、まさにそれを感じたのだろうか、少年から切り出してきた。


「え…………いい……の?」


「もちろんだよ! だって志保ちゃんだし!」


 よく分からない理屈があるようだが、私たちはよく遊んで一緒にいる仲でも、お互いの家で遊んだことは一度もない。


 私の家に上げないのは、父親との仲を知られたくなかったからだ。


 でもこいつの家に上がったことがないのは、どうしてだっただろう?


 私たちは一応男と女という異性なので、こいつも意識的か無意識的にか、それを感じて上げなかったのかもしれない。


 しかし、今このタイミングでこいつの家に上がるのは危険だ。


 私は、その為に来た、いや、来てしまったのだから。


 むしろ門前払いにでもしてくれれば良かったのに……


 でも、こいつの性格は熟知しているから、それを計算していた自分にも腹が立った。


 だから、もう一度だけ……


「……その…………本当に…………いいの……?」


「僕がいいって言ってるんだからいいんだよう」


 訊いてみるが、満面の笑みで即答しやがった。


「……はは…………は………………ごめん……ね……」


「何で謝るのさ。僕たちは友達でしょ?」


 ……友達、か。


 私にも……そう呼べる存在が…………いたんだ。


「…………あり…………がと……」


「あはは! 何だかいつもとは逆だね! “・・・(てんてんてん)”抜いてしゃべろうよ」


 はは……まさか、アンタにそんなこと言われる日が来るとはね。


 ……しばらく見ないうちに、強くなったんだね。


 ――今なら、アンタを名前で呼んでやってもいい気がする。

 

「ありがとう……」


「うん! ではでは、我が家にご案内〜」


 そして、私はご招待に預かった。


 リビングに上げられたが、構造は私の家とそんなに変わらない。


 同じ住宅だから、中のスペースや部屋の位置もほぼ同じだった。


 しかし、決定的に違うのは、私の家とは違って殺風景な部屋となっていることだ。


 このリビングも、テーブルやキッチンなど必要最低限なものしか置いておらず、後は他に何もない。


 テレビなどの娯楽物や、ソファーだとか、カーペットだとか、はたまた椅子でもいい。


 個人が楽しむため、もしくはくつろぐための物が一切置かれていないのだ。


 生活するに必要なものは揃っているが、楽しむためのものは何もない。


 そこに個人的な趣味だとか、そういった余地も一切ない。そんな風景だった。


 私はそんな情景に一瞬驚くが、すぐに目的を思い出した。


「両親はいないの?」


 おそらく、訊かないほうが良い質問だっただろう。


 こんな部屋を見せられたら、愚問と言うべきものだ。


 が、それを承知の上で訊いた。


「――うん。いないんだ」


 それでも平静を保ちながら、私の顔を真っ直ぐに見て、はっきりと答えた。


 私が言ったことを、忠実に守っていたようだ。


 本当に、強くなった。


 だからこそ……私は―――


「女々しい奴ね」


「……え?」


 恐らくは、彼は多少自信があったのだ。


 そうでなければ、こんな意外な顔はしない。


 多分学校でも苛められることが少なくなったとか、そんなところだろう。


 自分のしたことが周りに認められることで、ようやく少しは自信がついたわけだ。


 でも……


「こんな部屋を見せて、同情でもされたいわけ?」


「――っ! 違うよ! 僕はただ……」


 大方の事情を推測して悪いように(・・・・・)言ってやると、少年はたちまち以前見せていた顔になった。


「ただ、なに?」


「ただ……その…………」


 そこで口ごもる。


 やはり、土壇場になれば、以前のようになってしまうらしい。


「言えないわけ? 何だ、何も変わってないじゃない。お前は所詮女々しい女男なんだ。男に嫌われて、話す相手は女の子だけで、でも女の子たちもお前が一応男だから、一歩線を引いて話す。決して友達はできない。そんな奴なのよお前は」


「――違う! 僕は……僕はっ…………!」


「違わないよ。それに、何これ?」


 殺風景なリビングの端にある、戸棚。


 そこから半分はみだしていた、手帳を手にとった。


「―――っ! それは! ――見ないで!」


「へー、こんなものがあるなんてねえ。しかもこんなところに隠してるなんて……」


「―――違う! 違うんだっ!! それは……」


「こんな物まであって何が違うわけえ? 本当、ますますみみっちくて女っぽい奴だよあんたは。それ(・・)切って男とも女とも呼べない存在にでもなればあ!? あはははははははははははは!!」


 ――別に、こんな物があっても恥ずかしがることじゃない。


 ただ、彼自身がこれを持つことに抵抗があったようなので、そこを突いただけだ。


「うう……うぁあああ…………」


 そいつは膝と手をついてうずくまり、涙を滴らせる。


 少し予定と違う。


 こういうところは予想以上に弱いらしい。


 仕方なしに、仕向けてみる。


「そうやっていつまでも泣いてれば何とかなると思ってる? だから女々しいんだよ。何とかしたかったら力づくで止めればあ?」


 ピクリと少年の体が動くと、涙に濡れる瞳で見つめてくる。


 若干その目には怒りが見えた。


「ほらほら、どうしたのお? そしたら多少は男らしいよ? やっぱり喧嘩できる奴は男らしいからねえ」


 私からしたら、そんなことは全然ない。


 喧嘩する奴を男らしいとは思わないし、むしろ軽々しく喧嘩をして怪我して、心配させるような奴は大嫌いだ。


 でも、今はそれが必要だった。


 予想通り、彼は段々と目を吊り上がらせて、怒りを強く宿す。


「……っ。ううう……」


 しかし、少年は再び顔を俯かせて、震えた。


 ……まだ足りないか。なら―――


「あーあ、ほんっとうに情けない! そんな奴のこれには何が書いてあるのかなあ!?」


「――!?」


 瞬時に顔を上げて目を見開かせ、そして―――


「見るなあああああああああああああああああああああ!」


 少年は私に向かって突進した。


 その体当たりは予想以上のダメージを私に与えた。


「あうっ!」


 私は大きく押し出されてリビングの出入り口扉に背中をぶつけた。


 家具がほぼない部屋なので、他の物にぶつかって更なる衝撃を受けることはなかった。


 だから、それ(・・)は手放さなかった。


 少年はそれを認めると、なおも私に迫って右手の物を奪い取ろうとするが、その前に少年の腹を左手で殴る。


「うあっ!」


 少年は体をくの字に曲げて、苦しそうに腹を抑える。


「よくもやってくれたなあああああああああああああああ!?」


 ――ドガッ!


「――――っ!」


 私は予想通りの展開に笑みを浮かべて、腹を抑える少年をさらに蹴り飛ばす。


 少年は吹っ飛ばされて――今度はテーブルのある方向だったので、その足に頭をぶつけた。


「――――――――――…………っ!!」


 声も出せないのか――相当のダメージだったようで――頭を抑えて震えながらうずくまる。


 私は今日の服装を思い出し、上着のトレーナーを脱いでゆっくりと少年に近づく。


「―――え……!」


 痛みを忘れたように、呆然と私を見る。


 私が今着ているのは、真っ黒の長袖シャツに、これまた漆黒の綿パンという姿。


 先程着ていたトレーナーを脱いだことで、まるで今から葬式にでも行くかのような、全身黒ずくめの衣装に身を包んでいる。


 まさか今日着ていたこれが、こんなことになるなんてね。


 これで万が一殺してしまっても、そのまま葬式に行けるな。


 ―――なあんてね。クスクス……


「ほらほら、どうしたのお? 向かってこないの? じゃないと、またこれを読んじゃうよ?」


「――! やめろおおおおおおおおお!」


 そう言って、私に向かって再び迫ろうとするが……


「ぐあ……!」


 頭と腹を抑えて悶え苦しむ。


 なんだよ。


 正当防衛になるから向かってきてくれたほうがいいのに。

 

 これじゃ、弱い者苛めだ。


 私は、喧嘩(・・)がしたいのに……


「しょうがないな。じゃあ、私を好きなだけ殴らせてあげるよ」


「え……」


 ――ハンデをあげることにした。


「私はこれをてこでも放さない。でも、チャンスをあげる。しばらく私は何もしないし抵抗もしない。その間に殴り続けて、弱らせて奪い取ればいい」


「…………………………」


 そんな提案をしてみるが、ここで予想外なことが起きた。


「……できないよ」


「……あ?」


 これを見られることは、少年にとって死活問題だったはずだ。


 てっきり勢いよく殴りかかってくるものと踏んでいた私は、呆気にとられる。


「あはは……そもそも、何で、そんなものに、必死になってたんだろう」


「そんなもの……だと?」


「そうだよ。別に見られても、困るようなものじゃないのに。どうして、あんなことしてしまったんだろう……うう……」


 何故か、嗚咽を漏らし始めた。


「ごめんね……志保ちゃん……」


「――――なっ!」


 謝るだと!? 謝らなければいけないことをしてるのは、私なのに!


「――馬鹿かお前は! 殴れって言ってんだから、殴ればいいだろうが!」


「……殴らないよ」


「―――っ! この糞餓鬼があああああああああああああああああああああっ!!」


 ついに私の中で何かがキレた。


 ――――ゴガッ!


「うあああああああああああああああああああああああああっ!!」


 一方的に暴行を加えた。


 先程まで抑えていた腹を容赦なく踏みつけた。


「――ゴハッ!」


 胃液と血が同時に吐き出されて私にかかるが、構いはしなかった。


 ―――ベキャッ!


「ああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 極めて、右腕を折った。


 押し倒して馬乗りになり、頬を容赦なく殴った。


 顔が腫れて、段々と少年の面影がなくなっていった。


 リビングの床が血溜まりを作っていった。


「……うあ…………ああ………………がはっ…………!」


「これでもまだ私を殴らないか!?」


 ここまでされたら、もう殴る元気もないだろう。


 それでも私は腹の虫が治まらない。


 髪を掴んでお互いの鼻がくっつくぐらいの至近距離で私を見させながら訊いた。


 顔が腫れ切って、こちらから見た左目がふさがってしまい、見るも無残な顔になっていた。


 それでも、彼は……


「なぐ……るより…………マ……シ……だよ……」


 頭の中と視界がクリアになった気がした。


 本当にキレるというのはこういうことを言うんだろうか。


 私は家具の少ないこの部屋を出て、玄関近くにあった、とあるものを持ってくる。


「―――ああ…………!」


 命の危険性を感じたのだろう。


 まだかろうじて開く、もう一つの目を見開かせた。


 あの日の――あれは強盗だったらしいが――あの男に殺されかけた私のように、彼もまた、同じ思いだろう。


 私の手に持つのは―――椅子。


 木の板を重ねて、そこに釘を打って造られた、折りたためる小さめの椅子。


 いかに小さな物とはいえ、撲殺するに足る、十分な凶器だった。


 しかも、それは素人が作ったような形で、板はあちこちに欠けていた。


 釘を打ったらしき穴が、他にもいくつか見当たるこの椅子。


 推測だが、これは彼の親に造ってもらった物だ。


 こいつの、恐らくは数少ない親との思い出の品なのだろう。


 それをもって、最悪の形で少年の人生を終わらせる。


 それを持ったまま、ゆっくりと彼に近づき、


「……これが、最終通告…………」


 自分の声とは思えないほどの、低く、静かな声で、告げる。


「―――死にたくなかったら、私を殴れ。そして殺せ……」


 そうしなければ、容赦なくこれで撲殺する。


 殺らなければ殺られる。彼もそれがよく分かっただろう。


 なのに……


「……しほ…………ちゃん」


 こいつは……


「さっきの……しつ……もん。答えて、なかった……よね?」


「……は?」


「“この部屋を見せて同情してほしいのか”って……それは、違うよ」


 ああ、もう私を攻撃する意志は皆無なわけね。


 てことは遺言ですか。面白い。少しだけ付き合ってあげよう。


「じゃあ、なんなわけ?」


 まっすぐに私の目を、片方の目で見据えながら、


「……力に…………なりたかったから。志保ちゃんの…………」


「…………あ?」


「いっつも、悲しそうな顔をしてたから。僕は、ずっと…………力になりたくて……」


「……いつどこで私がそんな顔をした? 仮にそうだとして、アンタにそんなこと頼んでないんだけど?」


「そうだね……だから、怖かった。“余計なお世話”っていう言葉を……何度も思い出した……よ。でもね…………それでも…………僕は………………」


 一旦そこで言葉を切り、涙と鼻水と、そして血に(まみ)れた顔面をさらにぐしゃぐしゃにして――


「僕は……志保ちゃんの……こと……………………大好きだから……」


 “――だったらかんたんだよう。言えばいいんだよ―――「すき」って”


「――――――!!」


 動かせなかった。


 持っているものをぶつけられなかった。


「―――な……何を。あんた、今がどういう状況か分かってる? 私に殺されかけてんのよ? その殺そうとしてる奴に、しかも殺される寸前にそんなこと言うわけ!?」


 もう、訳が分からなかった。


 何を考えているのか皆目見当もつかなかった。


 しかし、ようやくと、彼は言った。


「こんなことでも…………力になれ……るのなら、いいんだ……」


「―――っ!?」


 つまりは、この「ウサバラシ」という名の最低最悪の暴行も、甘んじて受け止めると、そう言っているのかこいつは?


「うう……あああ……」


 だめだ。動かせない。


 金縛りにあっているみたいに、自分の中の理性がどうしても手に持つ凶器を振るえない。


 でも―――


 こいつにまでそんなことされるのか、私は。


 何で……何なんだよ……


 どいつもこいつも、私に危険物処理班がするような対応しやがって。


 私は相当複雑なコードで操作されている、解体難易度最大の爆弾か何かか?


 ――ふっざけやがって……!


「こんの……!」


 再び憤怒(ふんぬ)の感情を呼び戻し、手にする椅子を振り上げる。


「志保……ちゃ…………」


「―――ああああああああああああああああああああああああああああああうざったい! 私の名前を気安く呼ぶな!」


「し……ほ…………ちゃん」


 それでも彼は呼び続け、あろうことか、椅子を振り上げている私に、ふらついた足取りで近寄ってくる。


 そんな彼に、ついに私は、


「よるなああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 持っている椅子を、振り下ろした。いやぶん投げた―――直前、


「ごめん……ね」


 と聞いて……


 ――――――――――バキャッ!!


「……はは…………は」


 ついには―――


「あははははははははははははははははははははははははははははははっ!!」


「――――…………志保……ちゃん…………」


 そいつは、私に駆け寄ろうとして、でも途中でふらついて、倒れこむ。


 私はそれを自分の体で支えた。


 抱きしめるように。


「あははははは…………ははは……はは……は」


 椅子は、そいつに当たらなかった。


 いや、当てなかった。


 そもそも、私に近寄ってきたそいつとは、もう少しで零距離だったから、外すなんてことはありえない。


 ……半端な、悪者ぶりだ……あはは…………


「…………病院、行きなさいよ」


「…………うん。後で……行くよ」


「私にやられたって……ちゃんと言いなさいよ」


「言わない……」


「言えよ……」


「絶対言わない……」


「何でよ……」


「……大好きだから」


「……あっそ」


 それきり抱き留めながら、無言で佇んでいた。


 ……しばらくこのままでいたかったというのは、私の我儘(わがまま)だろうか?





 ――父に変に気を遣われて、腹が立って、今度はこいつを憂さ晴らしのターゲットに選んだというゴミのような行動。


 それを私はした。


 こうして大切な友達を自分の手で苛めて、屑のような人間になれば、悪い子になった私を母が天国から怒りに来る。


 ――そんな幼稚なことを考えた結果。


 ただただ、母に会えるわずかな可能性を信じて――


 ……いや、嘘だ。


 私はそんなことを信じちゃいない。


 ただ、そう言い聞かせることで、自分の行いを正当化させたかっただけだ。


 ――それは、この塵屑同然の行動を、母のせいにしているということ。


 もう最低最悪で、生きる価値がないような行動を、大好だった母のせいにしているのだ、私は……!


「あああ……ああ……うああ……」


「し……ほ……ちゃん? だ、大丈……夫」


 ああ、うるさい。これ以上私の名前を呼ぶな。


 もう、どうすればいいか、さらに分からなくなるだろうが……


「志保ちゃん……」


 ……くそ。私は、何がしたかったんだろう?


 何を求めていたんだろう?


 ――ごめんなさい……ママ。


 …………もう、分かんないや。







   *2







「――君はどうしてこんなところに?」


「……」


「どうしてそんな傷だらけなの?」


「……」


「……寒くない?」


「………………」


 ……まあ、ちょっとだけ。


 ――じゃなくて、あれから三日が経った。


 この訳の分からない倉庫のような部屋に居るのは相変わらずだが、この三日間、この人は毎日ここに顔を出していた。


 その度に、わたしのこと、ここから逃げないのかを執拗に訊いてきた。


 わたしがどういう状況かは聞くまでもないのに。


 つまりそれだけ危険な状況だというのに。


 それでも、あの小さな窓からこの人はやってくる。


 ……嬉しかった。


 ようやく孤独を忘れることが出来る時間だった。


 でも、だからこそこの人を巻き込みたくなかったのに……


 わたしが何度も「ここには来ないで」と言っても、彼は聞いてくれない。


 幸いあの男が帰ってくる時間までには帰ってくれるが、いつあいつと鉢合わせになるかも分からない……


 ――ビュオオオオオオオッ!


 不意に彼が入ってきた窓から風が吹き、わたしの髪を乱した。


 あれから一度も髪は切っていないので、視界の全てが黒髪に覆われる。


 わたしは視界を確保するために前髪をはらう。


 うっとおしいことこの上ないが、今更切るのも面倒なのでそのままにしている。


 しかし、寒さによって身体が震えるのは阻止できなかった。


 それを見兼ねてか、彼は自分の上着を脱いでわたしに差し出した。


「これを着てよ。暖かいと思うから」


「……どうやって?」


 でも、わたしが一度も着たことのない物なので、着方が分からない。


「どうやってって……えっと、まずは背中にそこを当てて……」


 彼が一応説明してくれるが、しどろもどろで何を言っているのかよく分からない。


「そうそうそこから腕を通して……って違うよ。そこは内ポケットだよ。ああ、そこでもなくて……」


 いつまでも着れないので、段々腹が立ってきた。


「……そんなやる気のなさそうな目で見つめないでよ。こっちも必死なんだか――ってわあっ! ダメダメ! ひっぱんないでひっぱんないで! ちょっとちょっと! 何で袖通すのが“一人綱引き状態”になるの! 分厚い雑誌を引きちぎるんじゃあるまいし! 僕のジャケットに何か恨みでも……」


 ―――ビリリッ! ビチッ!


「わあああああああああああ! 僕のジャケットがあああああああああああああああ!!」


 …………神に誓う。


 決してわざとではない。




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