4・終壊
―――母との勉強会が始まって以来、私は知ることが楽しみになった。
自分の知らない情報を得、新たな判断材料とするのが楽しかった。
政治経済など、情報自体に興味をそそられるものも多かったので、私は母との勉強会以外でも独学で知識を吸収していった。
新しい情報を得るたびに、母に披露し、博識ぶりを誉めてもらった。
それが、本当に嬉しくて、私はもっともっと勉強した。
そして、父にもそれを伝えた。
きっと、父も母のように誉めてくれると思って。
ただ、母のときと違ったのは、新しい情報を得たその都度逐一報告するのではなく、ある程度の知識を得てからそれを一気に披露したのだ。
そのほうが、仕事で忙しい父の時間をあまりとらせることもないと思ったから。
もう一つ、いきなり私が大人顔負けの知識を披露することでビックリさせるという、子供心によるサプライズをしたかったためだ。
それによって、最初は驚くだろうけど、後は母と同じように喜んでくれる。
また私の頭をなでてくれる。いつかみたいに抱きしめてくれる。そう信じて。
…………でも、
「――な……お前……今、何を言ったんだ?」
予想通り驚いてくれたらしいが、何だか驚き方が尋常じゃない気がした。
私はもう一度同じことを復唱する。
確かこの時は、政治の話題だったはずだ。
父のような者は、この国の政治関連のことも詳しいから、その話題についていけることをアピールしたかったのだ。
総裁選が終わったばかりだったので、新しい総理大臣について、政策なども含めて私なりの考えを述べた。
特に、総裁選に国民が投票できないことに腹を立てていたから、そのことも詳しく言った。
すると――
「……そ、そうだな。確かに国民が投票できないのは、パパも良くないと……思うな」
妙に歯切れが悪く、曖昧にして話をそこで打ち切ってしまった。
「………………」
その後に誉めてくれると期待していた私は、何もせず、私に見向きもしなくなった父に不満を覚えた。
でも、最初の一回だけでめげる私ではない。
きっと、今回は私の知識が足りないせいだと思って、むしろ勉強量を増やす結果となった。
しかし、何度勉強しても、その度に披露しても、父は喜んでくれなかった。
それどころか、怯えたような目で私を見た。
その後、私を避けることに時間はかからなかった。
私がそれを悟ったのは、異常なほど仕事に行く回数が増えたときだ。
私は父の会社のことも調べていたので、スケジュールがどうなっているのかもある程度把握していた。
残業なども多いそうだが、大抵は土日の週休二日で、祝日も絶対に休みになる。
土曜日に出勤することも稀にあったが、年間休日は百二十八日もあるらしいから、相当の大企業だ。
なのに、今まで一度も出勤することのなかった、日曜日と祝日の日でさえも仕事に行ったとき、私を避けるために、わざと仕事を入れたということが分かった。
……解ってしまった。
――ねえパパ。今日はお休みでしょ? 私と一緒にバスケのワンオンワンでも……
「あ……す、すまない。今日はこれから仕事なんだ。それじゃあ、行ってくるな!」
しかも、ただ仕事に行くのではなく、私が話しかけたときに限って都合よくそう言って家を出て行ったとき、私は驚きを通り越して、笑ってしまった。
……笑うしかなかった。
でも、その後……溢れる涙を…………抑えられなかった。
……なんで? ―――どうして!?
私が、貴方のことを、この世でたった一人の大切な父親と思っているように、貴方にとっても私は今のところたった一人の、自惚れかもしれないけど大切に思われている娘ではないの?
私は、貴方の子供だよ? 実の娘なんだよ?
メロドラマとかでよくありそうな、実は血の繋がりはなくて養子だったなんていう設定はないはずだよ!?
なのに……その実の娘を、父親である貴方が――――拒絶する!?
――――そんなバカなことがあってたまるか!!
――ねえパパ。嘘だよね。冗談だよね。いや……偶然だよね。
きっと新しい事業を始めたとかで、会社が忙しくなっただけなんだよね? そうでしょう?
「そ、そうなんだよ。ごめんな。会社がこれからどんどん忙しくなるんだ」
じゃあ、今度はちょっとでいいの。また、パパとキャッチボールがしたいよ。
ママにはお勉強を教えてもらったけど、パパにも野球やサッカーやバスケを教えてもらったでしょ?
「そ、そうだったな。でも、本当にすまん。できないんだ」
どうして? 私とやったってつまらないから? 大丈夫だよ。私、パパの本気の投球も今なら受けられるよ。バッティングセンターでわざわざキャッチの練習したんだから。
あまりに痛くて、グローブの上からでも突き指したり手が腫れちゃったりしたけど、今なら140キロストレートだって受け止められるよ。
バッティングの方は、まだ120キロまでしか打てないけど……
「いや、だから……仕事があってできないんだよ……」
だったらお休みの日の、一時間、ううん三十分でいいの…………キャッチボールやろうよ。
「……いや、あまりに忙しくて、次の休みもいつになるか分からないんだ。すまないっ!」
――――……ねえ、パパ。私を見てよ……目を逸らさないでよ……。
「…………! す、すまない!」
―――――っ! 違う! そんな目で見て欲しいんじゃない!!
―――やめて! そんな……―――狂人を見るような眼で私を見ないで!!
――それから先は、あっという間だった。
私も、父を避けたのだ。
もう、傷つきたくなくて。
それに、あれを味わいたくなかったから。
……大切な人に―――大好きな人に、拒絶される恐怖。
またあの異常者を見る目つきで見られるのが……怖い。
こうして、私たちは避け合った。
お互いを空気のように捉えて、存在しないかのようにした。
……いっそのこと、父の記憶全てをなくせたらよかったのに。
でも、そんなことは無理だから、今の状態でどうにかするしかない。
このままでいいはずがないのだ。
私にとっても、父にとっても……
だから、ありったけの勇気を振り絞って、また父に話しかけようとした。
しかし、結果は変わらなかった。
三年前に味わった受け答えを、一語と違わずにそのままされただけだった。
ホントウに、全く同じ受け答えだったのが笑える。
――また、拒絶された。
―――もう、どうすればいいんだろう? ……誰か教えてくんない?
*
「――問題でーす。ある人の年齢は、3で割ると2余り、5で割ると4余り、7で割ると1余ります。さて、この人の年齢は何歳でしょう〜?」
また回りくどい問題だ。でも、会社の入社試験なんかはこんな問題が出ると聞いたことがある。
えっと、この場合は7で割ると1余る数を先に考えて、そこから5と3も照らし合わせてと……
8は5が違う、15は3と5で割り切れるし、その次も違う。
「わかった! 29歳だよ!」
「正解でーす!」
相変わらず母が出す問題は、ちょっと頭をやわらかくしないとなかなか解けない問題だ。それ故にわくわくさせてくれる。
もうそろそろ時間だから、次が最後の問題だろう。今度こそ母が出す問題を全問正解するんだ。
「じゃあ、最後の問題〜。これは気付く人は簡単に気付くので、回答時間は十秒で〜す」
「それは短すぎるよ!」
「でも、分かったら二秒もかからない内に解けるから安心してね〜」
「なるほど、そういうこと。分かったよ。早く出題を!」
「ふっふ〜ん。じゃあ行くわよ。問題で〜す。一辺の長さが6cm、3cm、2cmの三角形の全ての頂点を通る円の半径を求めなさい〜」
「――ええ!? そんなの十秒じゃ無理だよ!」
「分かる人には分かるのよ。ほらほら、残り五秒よ〜」
えっと、ここの半径が……
「ぶうううう! 時間切れで〜す!」
またまた大げさに×を作る。
「そんなの十秒じゃ無理だってば」
「そんなことないわよ。だって答えは“存在しない”だもの」
「……え? ―――あ!」
「そういうことよん」
そうだ、三角形を作るうえで、一番長い辺は、他の短い二辺の長さの和よりも短くないと三角形は作れない。
だから、6cmと3cmと2cmの三角形は存在しないのだ。
……本当に意地悪な問題だ。
「じゃあ、今日もこれで勉強会を終わりま〜す」
「うん。ありがとう、ママ」
「―――やっぱり、もう無理なの?」
急に話題を変えてふってきた。
あまり触れられたくないことだったが、遅かれ早かれ伝えなければいけないことなので、私も答える。
「……無理だよ。だってあの人は、仕事だもの」
「そう、じゃあしょうがないわね。でもね、これも覚えておいて? パパをそうせたのは、あなたでもあるんだから」
……わかってるよ。だからこそ私から歩み寄ろうとしたんだ。
でも、だめだった。あの人はまた私を拒絶した。
そんな私の様子が分かったのか、今回ばかりは母もこれ以上は言わなかった。
「ねえ、明日、買い物にでも行きましょうか?」
気分転換のつもりなのだろう。
こんな気の遣われ方は嫌だが、私も母と二人でどこかに行きたかったので、了承した。
「うん。そうだね……」
若干気の弱い返事になってしまったが、母は笑顔で頷いてくれた。
「―――パパは……」
「誘わなくていいから」
母の言うことを予想し、先に答えた。
「パパにもよおく言っておくけど、あなたも怖がってちゃ駄目よ?」
「……っ!」
あの幼い少女と同じことを……?
でも、怖がらずに話しかけた結果はどうだった?
何も変わらない。私の心がまた傷ついただけだ。
こんなことになるならやらなければよかった。
仮にもう一度同じことをしたって、同じ反応で返されて、今度こそ私は廃人になるぐらいに打ちのめされるだろう。
「――パパもちゃんと分かってくれてると思うの。その証拠に、ひどく後悔した顔だったもの」
だとしても、結果が変わらないなら意味はない。
「まあすぐには変えられないでしょうから、今はそれでもいいわ。でも、また勇気を振り絞って、歩み寄ってみて。私も、あなたたちも、家族なんだから」
「………………え?」
――あれ? このやり取りは……
――ふと……何かの違和感、を感じた。
それも、前にもこんなことが……根拠もなく、ただ目の前のことが、おかしいとしか、思えないような、そんな感じの……ことが……
しかし、いくら考えてもその答えが出ることはなく、やがてそんな考えは薄れていくのだった。
「――絶対になんとかなるわ。あなたもパパも、同じことを願っているんだから」
*
――翌日の日曜日、私と母は都会エリアの街中を歩いていた。
こちら側はコンビニやスーパーや専門店の店が多く建ち並び、露店や娯楽施設なども豊富だ。
その中の一つである、衣料品を売る専門店へ連れられた。
決して大きい店舗ではないが、外からでも見えるようになっているウインドウから、いかにも高そうな純白のドレスが目を引かせる。
内装も見栄をはらない程度のシャンデリアなどが目立ち、商品であるカラフルな洋服の彩りもあって、とても綺麗なイメージの店だった。
服のどれもが一流のデザイナーが手がけた物なのか、素材も高価そうで、値段は五桁から六桁と、随分と値が張っている。
商品も今は冬なので、冬服特集で陳列されたものが多い。
しかし、私は元々着飾るような服はあまり好きではないので、こんな店にも来たくはない。
が、母はそれを承知の上でこんなところに連れてくることがよくあるのだ。
格好だけでも女らしくさせて、少しは周囲の者たちから好感を持たせようという魂胆だ。
まあ、一応私も女の端くれなので(自分で思ってて何だか悲しいが)、そういう服に興味がないわけではないが、いきなりイメージチェンジするほどの服は着たくない。
私が元々よく着ていたものいえば、白のトレーナーとかパーカーとか、今も着ている全身黒のコートとか、地味なものばかりだ。
そんな私がいきなりカラフルに彩られたものを着ると、周囲の者には引かれると思うのだが……
「さって、今日は何を着せましょうかね〜」
母は私を着せ替え人形とする算段を早くもしているようだ。
まあ、半分以上は自分の趣味で私を着せ替えたいだけだと思うが、一応私を想っての行動らしいし、今日は気分転換も兼ねているから、私もそれに付き合うことにした。
「ねえ、これなんかいいんじゃない? どう?」
母が持ってるのは、胸元と太ももの辺りが大きく開いた赤いドレス。
映画とかで見たことがある、チャイナドレスというものだ。
「却下」
その理由は、もはや語るまでもない。
「そうよねえ、あなたじゃちょっと、ねえ……」
「どこ見て言ってるの! そうじゃなくてそんな物着たらコスプレに近いでしょ!」
似合わないのはもちろんだが、とある会場でもないのにそんな物を着たら、白い目で見られること間違い無しだ。
大体なんでこんな普通の衣料品店にこれがあるんだろう……
「ママずっと気になってたんだけど、ああいう腰から太ももにかけてスリット入って開いてる服って、下着はどうしてるのかしら? あんなに開いてたら見えちゃうわよねえ?」
「どうでもいいよそんなこと!」
何か早くも母のペースに乗せられてる感じがする。
「あの部分だけ見えないようになってる下着なのかしら、まさかノーパンなんてことはないわよねえ……」
「――いい大人が昼間からはしたないこと言わないでくれる!?」
「あら、ママの年齢をばらすようなことがあったら、隠し撮りしたあなたの裸体をネット上にばら撒くわよ? フフフ……」
「ちょっ! プライバシーの侵害! というか犯罪だよ!」
「やあねえ、冗談じゃないの。フフフフフ……」
……目が笑ってないんですけど。
まあこんな感じで、その後セーターにカーディガンを着せられ、冬なのにチェックやフレヤースカートなども穿かされたりと、ヘトヘトになった。
その中でも、紺色のセーターなど、マシなものを選んで買ってもらった。
それによって幾分かは満足し、店から出ようとすると母に呼び止められ、
「ねえ、この中だったらどれがいい?」
と、母が出入り口付近の冬服特集とは違った棚を指さした。
そこは、今の季節に着ては少々寒いものばかりの、キャミソールだとかワンピースだとか、主に夏に着るものが並んでいた。
店内の商品全てが冬服で並んでいるわけではないから、こういうのがあるのも無論分かるのだが、さすがに今買うにしては少々早すぎるだろう。
さっきのチャイナドレスは例外というか論外として。
そう言ったが、母にとってそんなことは関係ないらしく、「いいからいいから」といって再び選ばせる。
どれも肌が結構露出して私の好みではないが、その中から強いて選べというのなら……
「これ、かな」
私が指さすのは、無地の、白いワンピース。
まだ白なら明るい色でもあまり目立たないし、私の目から見ても少し可愛いかったので、選んでみた。
何より、公園で会った、あの女の子が着ていたものと同じだったからだ。
私より年下なのに、子共らしい可愛さと、どこか私以上に大人びたところがあった、あの少女が着ていたものに……
「そう。ふ〜ん……」
何故か母はそのワンピースを見つめ、口元に手をやって何かを考え始めた。
「じゃあ、ほしい?」
どうやらそれも買ってくれるつもりだったのか、そんなことを言ってきたが、私はすぐに首を振る。
「強いて選ぶならってことだよ。それに今はこんなの着てたら寒いだけでしょ?」
「まあ、それもそうね〜。じゃあ、また今度にしましょうか〜」
「うん。また……今度」
そう言い、私たちは揃って店を出た。
途端に冬の寒さが襲ってくるが、私は重装備の黒コートなので全然気にならないし、母もハーフコートを羽織っているので平気そうだったが、その母が、
「そうだ。ちょっとパパに電話してくるわね。伝えることがあったの忘れてたのよ〜。会社が終わってるといいんだけど。ちょっと待っててね〜」
公衆電話を探して行ってしまった。
携帯電話があるのにわざわざ公衆電話を探す意味が分からないが、私が聞いたら不愉快になると踏んでのことだろうか。
こんなときに父のことを気にするなんて、私の気分転換も兼ねているこの時にあまり言っていいことじゃない気がするが、あえて気にさせる作戦なのかもしれない。
理解し難いところもあるが、その根底にあるのは、やはり私たち家族のことを考えてのことなので、私は苦笑しながら母を見送った。
そして、しばらく待っていると、それは起こった。
「きゃああああああああああああああああああああああああ!!!」
女性の甲高い悲鳴が聞こえたかと思うと、突然通行人がこちらに向かって一斉に走ってきた。
いや、違う。走っていたのではなく逃げてきたのだ。
その後方には、鋭利で長大なナイフを持った、チンピラのような若い男。
しかも、そのナイフはすでに誰かしらの血を多く吸っているようで、真っ赤に染まっていた。
「――どけどけえええええええええええええええええええええ!!」
その男もまた、警察からだろうか、逃げているようで、通行人を押しのけてこちらに全力疾走してくる。
私も恐怖に駆られて逃げ出したくなったが、ここで逃げたらまた犠牲者が増えると思い、何とか踏みとどまる。
個人的にこんなことをする奴が許せなかったせいもある。
すると、進路上にいる私が逃げないせいか、男は激昂して突進してきた。
「どけよこのガキがああああああああああああああああ!!」
それだけで恐怖の臨界点を突破しそうになったが、怒りでそれを抑えこみ、逆に男に向かって体当たりをする。
「――――ごあっ!」
私の小さな身体では大したダメージにならないが、元々男は全力疾走していたので、そんな時に別方向に力を加えられたら嫌でもその方向にとばされてしまう。
男はよろけながらバランスを崩して倒れこんだ。
私も激突時の衝撃で反対側に尻餅をつくが、すぐに立ち上がって男の様子を見た。
だが……そこからが、私にとっての間違いだった。
私は、すぐに逃げるべきだった。
すでにこの時点で、今のところ最大の目的である“時間稼ぎ”は達成していたし、この近辺の通行人も殆ど避難に成功していたから、これ以上男と対峙する意味はなかった。
自分で捕まえるなら別だが、私の身体能力的にそれは過ぎたることだと分かっていた。
しかし、私はそこから動かなかった。
犯罪者が逃げているとき、ここまで時間を稼がれたら警察の追っ手のことを考えて、犯人の方から逃げるとふんでいたので、自分が逃げる必要はないと考えていた。
大嫌いな犯罪者が、自分に背中を見せて、尻尾を振って逃げる情けない姿を見たかったというのもあった。
が……
「このガキーーーー!」
むくりと男が立ち上がると、私を血走った目で見つめ、近づいてくる。
「――――え……」
自分の計算とは違う展開になった。
「お前そういえば、さっきもあの店にいたよなあ? 母親と楽しそうに談笑しやがって、買い物ってか? ふっざけやがって!」
先程から私を見ていたのか、男はそんなことを言いながら、私に迫ってきた。
「あ……う」
私は初めて命の危険性を認めて、恐怖で身体が震え上がる。足がすくんで逃げることもできない。
こんなにも怖いものだとは思わなかった。最終的には何とかなるという軽率なことも思っていた。
でも私の計算も決して間違ってはいないはずだ。
今もどこからかパトカーのサイレンが聞こえてくるし、こんな状況なら、こいつは私になんか構わずに一刻も早くここから逃げるべきなのに……
「今母親はいないのか。残念だなあ。母親の目の前で心臓一突きにしてやれば、さぞかし絶望した顔が見れただろうになあ!?」
薄ら笑いながら私の前まで来ると、ついにナイフを振り上げる。
「―――っ!」
恐怖によって反射的に後ずさり、足がもつれて再び尻餅をついたことで、偶然その一撃をかわさせた。
それによって、私は男が本気だということを悟った。
男のナイフは、私が先程までいた所、それも位置的に心臓のあたりを的確に突いていた。
「―――ひっ!」
おかげで更なる恐怖に支配され、私は尻餅をついたまま後ずさるしかできない。
「いいぜえその顔。そうやって絶望しろ。どうせ生きてたって良いことなんかないんだからよお!」
後ずさる私に再び迫り、歓喜のような表情で、ナイフを……振り上げる。
「くたばれええええええええええええええええええええええ!!」
「いやあああああああああああああああああああああああっ!!」
そして、死の直前にはよくあるのか、ナイフが振り下ろされる瞬間が、スローモーションのように映った。
目を閉じることもできなかった。
ゆっくりと、私の胸にナイフの切っ先が迫っていき……またゆっくりと、別の体に刺さった。
「―――え…………っ!」
「ごふぅっ!!」
次の瞬間は、真っ赤に染まった視界だった。
「―――マ……マ…………!?」
母の体が割り込んできて、私の代わりに刺された。
途端に母の胸から鮮血が舞い、口からも吐血し、たちまち辺りが血の海になった。
「……う…………そ………………」
そんな、まさか…………こんな、別の意味でマンガみたいな展開――
現実逃避をするように、私は目の前の状況を否定しようとするが、母の言葉ですぐに現実に引き戻される。
「―――もう、警察……来る……わよ?」
母が苦しそうに、その胸にナイフを突きたてられたまま、男に向かって逆に事実を突きつける。
パトカーのサイレンがすぐそこまで迫り、無線で確認しあう音が聞き取れた。
それを男も聞きつけて焦った表情になり、だが再び嫌な笑みを浮かべた。
しかし、私にはそんなこと関係なかった。
母の容態以外はどうでもよかった。
喋れるぐらいの元気があるならまだ大丈夫だ。
急いで病院に行けば大丈夫。助かる!
気休めではなく、母は苦しそうではあるが致命傷ではなかったようで、まだ立つ元気はありそうだった。
幾分かほっとしながら母を見ていた、次の瞬間……
―――ズリュッ!!
何やら、ホラー映画のグロテスクなシーンで聞けそうな音が聞こえたかと思うと、母の体が先程よりさらに真っ赤に染まり、私にのしかかる形で仰向けに倒れた。
「―――――っ!?」
母の体の重みで私も一緒に倒れ、血が私の体にも降り注いだ。
鉄錆のような嫌な匂いと、妙に生暖かい感触が気持ち悪くなって吐き気がした。
同時に、何が起こったのかも理解した。
あの男が、深々と突き刺さっていたナイフを勢いよく引き抜いたのだ。
そのせいで血がありえない程にどくどくと流れ続け、私と母の体の全身が真紅に染まった。
「ナイフは返してもらわないとなあ」
残虐な笑みでそう言い残し、そいつは逃げていった。
「………………………………っ!」
私はしばらく放心状態でどうすることもできなかったが、はっとして私の上に乗っている体を動かそうとするが、重くて中々動かない。
それは、母の体の全体重が私にかかってきているからだ。
それはつまり、もう母は体を動かせないということ――
その事実に気付いていながら私はそれを認めず、何とか母の体から抜け出して、地面に体をぶつけないように母を横たえた。
そして、必死に叫ぶ。
「―――ママ! ママあああああああああああああああ!!」
うっすらと母の目が開くと、
「…………ぶ…………じ……………………?」
こんなときまでも私の安否を気にしていた。
私は必死に何度も頷く。
「よ……か………………た」
ちっともよくない。
「早く、救急車を呼ばないと!」
「もう………………いい……………………のよ」
だからよくないってば!
「そうだ! そこのパトカーに連れて行ってもらえば!」
ようやく到着したパトカーに目をやると、数人の警官がこちらにやってくるところだった。
そちらに駆け寄って事情を説明しようとすると、
「…………し…………………………ほ………………………………」
呼ばれたのは、私の、名前。
「だい…………じょう………………だから……………………パ…………………………なか………………く…………………………ね……………………………………」
何を言ったかはよく分からなかった。だが……
それきり―――
「……マ……マ……?」
目が閉じられた。
「―――ママ! ままあああああああああああ! 起きて! 目を覚まして!!」
目が閉じられた瞬間、一筋の涙が母の頬を伝って流れた。
「嘘だよね!? 冗談だよね!? また一緒にお勉強できるんだよね!? 今度こそママの出す意地悪問題に全問正解するんだから! それでまた頭をなでて欲しいよ!!」
だが、いくら話しかけても……
「そうだ! 今度は肩たたきしてあげる! 母の日でもないのにこんなことするなんて稀なんだよ? ママはもう三十代だもんね。肩がこってるでしょ!? こう見えてマッサージは得意なんだから! ――あ、私ママの年齢ばらしちゃってるよ。ネットに裸をアップされたら嫌だなあ。あはは……」
反応は…………ない。
「ままあ〜……おねがい。私、今度はもっと良い娘になるから。もっと誉められるようになるからっ。お小遣いとかもう要らないし、あのワンピースだって買ってもらわなくてもいいから、だから、おねがい。目を―――開けて…………っ!」
…………………………………………
動かない。見るだけで私も嬉しくなる笑顔を、もう向けてはくれない。
――そして、病院に運ばれたが、
「山中晴美さん。午後二時三十七分。……御臨終です」
父も駆けつけた病院で、医師の言葉を聞いた。
――嘘だ。こんなのは夢だ。有り得ない。
こんなの現実であっていいわけがないよ。
悪夢だ。いや、最悪な夢だから最悪夢だ。
早く醒めろ。この悪い夢から醒めるんだ……!
どうすれば醒めるんだろう?
頭を打ち付ければいいかなあ?
この夢で自分を殺せば醒めるかなあ?
はは…………それいいね。
うん。そうしよっか。
さて、何か刃物でもないかな。
あ、メスがある。これでいいや。
……うん? 何? 何邪魔してくれてんの。
ママは救えなかったくせに、私は助けるわけだ?
ホントウ、笑えるんですけど…………
あなたって……なんなんだろうね?
え? 「それでも絶対に死なせない」って?
あははは……もう勝手にしてくれ。
もう…………どうにでもしてくれ。
*1
――外からの人の声をきっかけに、この倉庫のような部屋の窓を発見して開けたはいいが、その人物と思わぬ形で会ってしまい、わたしはどうすればいいか迷う。
「…………」
その人、見たところわたしよりちょっと年上の男の人も、窓の前で立ち尽くし、呆然と私を注視しているが、その顔は何故か濡れていた。
「……なん……で、ないて…………るの?」
「―――え?」
うまく喉が機能せず、かすれ気味の声になってしまったが、その言葉に彼は意外そうな顔で自分の目と頬に手をやって、さらに驚いたような表情をした。
悲しいことでも、あったのかな……?
どうしてか、わたしまでもが悲しくなって、「そんな時はこうしてくれ」と言っていた父の言葉を思い出し、それを実践する。
窓から身を乗り出して、彼を抱きしめた。
「………………………………………………は?」
一瞬、間があったが、
「―――なっ! ななななななな……な、なにを! ―――わっ!」
慌てたようにわたしから離れ、勢いよく後ずさったせいで尻餅をついた。
「わたしが……ないてた、とき……ごほっ! お父さんがいつもそうしてくれた。あいつには、絶対そんなことしてあげないけど……」
ようやく喉が正常になって喋りやすくなった。
「いや、僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて……」
「“そうやって、安心させてくれ”って、言われたから……」
決してあの男のことではなく、わたしが大好きだった、お父さんに言われたことだ。
「あ〜……そ、そうなんだ。ありがとう。そ、それじゃあね!」
だが、彼は困ったような顔で、慌てて立ち上がりながら走っていってしまった。
「あ……」
ちょっと残念に思って、わたしは俯く。折角あの男以外の人と話せたのに。
でも考えてみたら、あの人を巻き込む訳にはいかないし……これで……よかったんだよね。
そう思いながら再び顔を上げ、彼が去っていった方向を見ると、
「…………!」
もう帰ってしまったと思ったあの人が、まだこちらを凝視していた。
やがて、ゆっくりと、もう一度こちらに歩いてくる。
…………結局、巻き込んでしまった、のかな。