1・関係
今作は恋愛ものというか、人間関係もの、というような作品です。一言で書くのは難しいです。
今回はホームドラマのような感じでしょうか。
「――――……っ!」
ふと、目が覚めた。
どうやら食卓に顔を突っ伏して寝ていたらしい。
「……え?」
覚醒した自分の視界に映るものに、何か違和感があった。
夕食の時間の居間。食器とお箸が並んでいるテーブル。その奥にあるキッチン。
そこから聞こえる、ぐつぐつと音をたてている鍋。
そして、鍋つかみをした手でそれをテーブルに持ってくる、母。
特におかしいところはない。いつも通りの光景だった。
なのに、何故かそれをおかしいと感じてしまった自分はおかしいのだろうか、と変なことを考えていたら、何だか混乱してきた。
「どうしたの? 今からシャブシャブよ〜? もっと喜んだらどうなの〜?」
が、母の声に我に返り、それもそうだと思いなおして鍋に向き直ると、先程の引っかかりは瞬時に霧散していた。
カセットコンロの上に置いた鍋から蓋を取ると、湯気と熱気が舞い上がり、ダシの良い匂いが鼻をくすぐった。
さっきまで寝ていたらしいのに、途端に空腹感がよみがえり、私は早速おたまでお肉や野菜を自分のお椀に入れようとした。
「パパがまだでしょ〜? もう少し我慢しなさい」
私の腕を掴んで制止させた。
「……ちっ」
家族が全員そろうときは、家族三人が揃わないと食べてはいけない決まりだ。
それは母がいつの間にか決めていたことで、私も特に異論はなかったが、今では何故反対しなかったのだろうと後悔するぐらいに嫌気がさしていた。
「―――遅れてすまない」
しばらく待っていると、二階からその父が下りてきた。
「いいのよ〜。その分、明日の夕飯はパパに用意してもらいますからね」
「おいおい、最近は仕事が忙しいと言っているだろう?」
母が意地悪そうな笑みを浮かべて冗談めかしに言うと、父も苦笑しながら返す。
すると今度は二人一緒に笑い合った。
当然二人の付き合いは相当の長さになるのだろうから、お互いのことがよく分かっているのだろう。
でも、私にとってはちっとも面白くない。
「……いただきます」
まだ笑い合っている二人を無視して、鍋から豚肉や野菜をお椀に入れていき、ごまだれをかけて口に運ぶ。
「もう、みんなで「いただきます」って言ってからでしょう?」
そんな面倒くさいものは学校の給食だけで十分だと心の中で反論し、私は箸を動かし続ける。
ここまで来ると、母も私と父の関係が分かっている筈なので、これ以上は責めずに食事を始めてくれた。
父は申し訳なさそうな表情を一瞬こちらに向けたが、私と目が合いそうになると瞬時に逸らし、黙々と鍋をあさった。
いつもの光景ながら、ウンザリする。
もし母がこの家にいなければ、家を出ていたかもしれない。
それほどに、父とは不仲だった。
それも、喧嘩をし合うような関係ではない。
お互いがお互いの存在を認めない間柄。
私も父も、同じ屋根の下で過しているのに、相手を空気のように捉え、何も話さなければ、目を合わせることもない。
存在を全否定するかのように、無視し合う。
それが私と父との関係。
当たり前ながら、「父と娘」ではなく、単なる同居人。
いや、時々私の視界に入ってくる不快な物体、そんな目でしか見ていない。
『「…………………………」』
しかし、空気と決定的に違うところは、その相手が間違いなくそこに「いる」ということだ。
どんなに相手を嫌おうとも、空気と同じように扱おうとも、嫌でも視界に入ってくる。
そんな存在を「最初からいなかった」ようには出来ない。それが人間だ。
だからこそ、人は嫌いな者や苦手な者とは距離をおこうとする。
今のこんな雰囲気にもなるからだ。
でも、私にはそれができない。
相手は私の父親だから。
同じ家に住んでいるから。
……この状態を、我慢するしかないのだ。
「『……………………………………』」
おかげで折角のしゃぶしゃぶがあまりおいしくない。
お肉やお魚はもちろん、牡蠣に水餃子にうどんにお餅にと、非常に種類が豊富なこの鍋も、この苦痛な時間を過ごさなければならない一要素でしかない。
「ねえねえ、今度は三人で映画でも見に行きましょうか〜?」
そして、これも私の頭を悩ませる要因だ。
母による、三人でどこかに出掛けようと、いつも必ず誘ってくるこの作戦。
母のことは父と違って好きだが、こういうところはあまり好きになれない。
まるで喧嘩をし合っている生徒を仲直りさせようとする担任教師のようだ(まんざら間違いでもないが)。
お互いが嫌い合っているのを無理やり仲直りさせても、逆効果だと思うのだけれど――
「晴美…………」
父は複雑な表情で母を呼んで何かを言いかけたが、母が一瞬だけ眼を合わせてウインクして見せたのを見ると、顔を背けながら、横目で私を見てきた。
――なるほど、今日は事前に打ち合わせをしてたということか。
いつもは真っ先に「仕事があるから」とか言って断るくせに。
何か言いかけたのは、大方打ち合わせの段階で怖くなって、この作戦はやっぱり止めにしようとしていたが、母に結局実行されてしまったから焦ったというところだろう。
「―――あなたは、」
「…………っ!」
私が父に向かってそう呼んだだけで、父の体が一瞬震え上がった。
「……仕事があるんでしょ?」
都合は大丈夫なのかという意味ではない。
行けないことを前提とし、一緒に映画に行くなんて可能性は、万に一つもないということを含ませて訊いた。
いつもこういう時、父はそう言って断るから、それを利用して言ってやった。
「あ……いや、その…………」
父はしどろもどろになって何かを言いつくろうとするが、
「そ、そうなんだ。パパ、仕事があるんだ……はは……は」
結局そう言うしかないのだ。この人は。
母に険しい表情で睨まれ、父は罰の悪そうな顔をして俯いた。
――気付いてる? パパ。ママは、まだ日時を言ってなかったんだよ? なのにどうしてその日に仕事があるって分かるの? どうして行けないって決め付けるの?
「……ごちそうさま」
しかし、口には出さずに席から立つ。
「まだいっぱい残ってるわよ〜?」
「もうお腹いっぱいだから」
残念そうに鍋を指差す母にそう言い残し、食卓を後にする。
最後に父の情けない表情を視界に捉えて、より一層腹が立った。
*
――その後、私の部屋では母との勉強会が始まる。
「――今度は歴史の問題で〜す。1232年に、武家社会のしきたりや裁判の例をもとに作成された法は何でしょう〜?」
「御成敗式目」
「正解!! じゃあ次は、徳川三代目将軍、家光の孫である六代目将軍といえば誰?」
「そんなの簡単。徳川家宣だよ」
「ほっほう。やるわねえ。五代目の生類憐れみの令で有名な綱吉や最後の十五代目将軍慶喜ならともかく、家宣まで知ってるなんてさすがねえ」
「徳川の将軍なら全員言えるよ。家康に秀忠に家光に家綱に……」
「はい! えらいえらい〜」
十五代将軍を最後まで言おうとした私の頭に手を置いて、それを中断させる母。
最後まで言わせて欲しかったが、私の実力を熟知しているからこその行動と分かっていたから、全然腹は立たなかった。
むしろ頭をなでる母の手が心地よくて、私は猫のように目を細めてしまう。
その母の顔が、シャツの中にカエルを入れようとする悪戯を思いついた少年のように、意地悪な顔になった。
「じゃあ次の問題〜。今度は選択問題ね〜」
「そんなのますます簡単だよ」
選択問題じゃなくても答えられるのに、そこから選択肢を出すなんて、私にとっては「1+1」の問題の答えを、「2」と田んぼの「田」の選択肢で出されているようなものだ(問題を出す者によってはある意味絶対正解できないが)。
「果たしてどうかしらね〜?」
それでも母の顔は自信たっぷりだ。
そんな顔を見ていると、私は面白くて仕方がない。
「いいよ、どんな問題でも。さっさと出してよ!」
わくわくしながら出題を促す。
「じゃあ問題! 蘇我入鹿を倒したのは、次のうち誰と誰? 1、中大兄皇子と中臣鎌足。2、中大兄皇子と藤原鎌足。3、小野妹子と小野小町!」
「――え? あれ?」
私は答えに詰まる。
正解が分からないのではない。
そもそも3は論外だし。中大兄皇子は絶対入っているから、1か2のどちらかであるのは明白だ。
そして、中臣鎌足と藤原鎌足が同一人物であることもわかる。
でも、この時鎌足は中臣だったか藤原だったかが思い出せない。
「えっと……」
「ふっふ〜ん。さすがのあなたでもこの問題は分からないかな〜?」
さすがは母。私より一枚も二枚も上手だ。
あえて選択肢を出すことによって、簡単な問題でも難しくする。
出題の仕方によっては、いくらでも問題は難しく出来るのだ。
「うーん、二……かな?」
「ぶっぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
大げさにそう言うと、母は勢いよく腕を交差させて×を作る。
「正解は1の、中大兄皇子と中臣鎌足でした〜〜〜!」
――くそう。すっごく悔しい。
選択肢がなかったら迷わず中臣鎌足と答えていたのに。
確か入鹿を討った功績によって藤原鎌足となるんだっけ。
「まだまだね〜。こういう問題のことも考えておかなきゃだめよ〜?」
「うん。わかった」
実際頭の良い人でも、こんな引っかけ問題には騙されると聞いたことがあるから、決してバカにはできない。
勉強しても、自動車教習の学科試験に合格できない人もいるのと同じだ(ちょっと違うか)。
「いい教訓になったでしょう〜。じゃあその要領でもう一問。さっきも出た、小野妹子と小野小町、女性は果たしてどっち?」
「小野小町だよ!」
「あれ、正解。今度は引っかからないわね」
流石にその問題に引っかかるのは、両者がどういう人物か分かっていない人だけだと思うし、こんな問題は試験にも出ないと思うから意味がない気がするが、突っ込んでもそれこそ無意味なのでやめた。
「じゃあ、今日はもう晩いし、これまでにしましょうか。お疲れ様〜」
そう言うと、母は問題集や教科書を手に立ち上がる。
「うん。今日もありがとうママ」
「やあねえ。当たり前のことじゃないの〜」
母は晴美と言う名の通り、とても清々しい笑みを浮かべながらウインクし、「ちゃんと歯を磨きなさいよ」と言って私の部屋を出て行った。
「――はあ」
この、一日に一回以上ある勉強会は、私にとって至福の時間だ。
それが終わることに寂しさを覚え、私は溜息をつく。
この時間が、母と二人きりになれるときだから。
あの忌々しい顔を見なくてもいい時間だから。
そしてなにより、母が大好きだから。
でも、終わってしまったものはしょうがない。
(ああ見えても)規律に厳しい母だ、私の願いは聞き入れてもらえないだろう。
ならばその言いつけを守って、とっとと寝るしかない。
言われた通り、私は歯磨きを済ませるために、部屋を出ようと扉を開ける。
「……う……!」
「――――――――――っ!!」
扉の真ん前に、父が立っていた。
さっきからずっといたのだろうか。
足音が聞こえなかったものだから、まさかこんなところにいるとは思わなかった。
父も私が出てきたことに相当驚いたようだが、いつものように目を逸らしたり逃げたりはしなかった。
「…………………………何?」
ということは、私に用があったということなので、不本意ながら一応聞いておく。
「あ……いや、その…………なんでもない」
―――本当に人をイライラさせるのが得意な人だ。
そんなストーカーのように私の部屋の前にいて、何もないわけないだろう。
「何か用があったからそこで待ってたんじゃないの?」
仕方なしに私は助け舟を出す。
全く、私のような娘に気を遣われる親というのは問題だ。
「あ、ああ。ママがな、これをお前に渡して欲しいって。さっきすれ違ったとき頼まれたんだ」
見ると、その手には新しい歯ブラシが握られていた。
可愛らしいリスの絵が描いてあるピンク色の物だ。
そういえば、そろそろ歯ブラシが使い物にならなくなっていたので、母に新品に交換するよう言っていたのだった。
「……はあ」
もうここまでされたら呆れかえるしかない。
母はさっき出て行ったときにこの歯ブラシを父に渡し、ちょっとでも私と会話するきっかけを作ろうとしていたにちがいない。
そんな目論見がバレなければ、少しは父に好感を覚えていたかもしれないのに。
この人は、あろうことか「ママに頼まれたから」と言った。
母の作戦であることが、どんなに鈍感な者でも気付くようなことをこの人は言ったのだ(まあそんな作戦、どのみち三秒で気付いていたが)。
しかも、それじゃ悪いように受け取ることもできる。
……ホントウに、この人は……………………っ
「そっか、ママに頼まれて仕方なく渡しに来たんだね。アリガトウ」
そう言って父の手から奪うように歯ブラシを受け取り、洗面所に向かった。最後の礼はわざと棒読みで吐き捨てた。
「………………」
残された父は、しばらく放心状態で、固まったようにそこから動かなかった。
―――いつまで続くんだ。こんな生活は………………