再縁
――それは、一つの賭けだった。
最悪の事態には、死すら免れない、危険な賭け。
どうなるかは、その時の状況と、運次第。
自分の行く末をそれに―――あるいは神にでも委ねて―――実行に移した。
その罪を背負っていく程の、強い心がなかったからだ。
自分のしたことが罪だと、直前になって気付いてしまった。
それでも当初は計画に移す気満々だったのに、あの人が実は優しい人だと…………気付いてしまった。
だから、その計画で死んでしまったなら、それまでのこと。
……いや、嘘だ。本当は怖かった。
あの時、「死にたくない」って、本気で思った。
まだ話したいことも、話したい人も、たくさんいたから。
もう、全ては遅いんだろうけど…………でも…………もし…………生きられたら。
皮肉にも予定通りの運任せになって、その上でまだチャンスを…………もらえるなら………………
…………今度こそ…………私は……………………―――――――――――
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―――――……………………………………………
………………………………………………
……………………………………
………………………………?
「………………………………てん……………………じょう……………………?」
…………………が、見えた。そう、白い、天井だった。
……仰向けで、ベッドに寝かされていた私が、最初に見たものだった。
生命維持に使われる器具を繋がれたまま。
………………こんなとき、思うのは…………月並みで申し訳ないけれど…………
「―――夢を見ていた気がする」
……だ。
そして、それは間違いではなかった。
……私は、ずっと夢を見ていた。
自分の過去の夢を。自分の行いの夢を。自分の罪を再認識させるのに十分な夢を。
遊園地にて、三人で遊んでいた夢から始まり、私が死んだ筈のあの日までを……
―――大体の事態を理解した。
あれから何年経ったかは知らないが、私は……生きている。
そう、生きて……いるんだ。
賭けに……勝ったんだ。
有り得ない筈の事象……だけど、それでも、こうしてまだ生きていられるのなら、私は…………
――ガラッ!
突然、この病室の引き戸が開けられた。
驚きながらそちらを見てみると、女の子が立っていた。
恐らく中学生ぐらいの年齢。
私と同じ、短めの髪――後で知ったことだが、自分の背丈と同じぐらいの長い髪を切って、今の髪型にしたそうだ。
そして非常に細く、抱きしめたら折れてしまいそうなほどに儚い外見。それだけじゃなく、暴行をされた形跡があちこちに残っている。
こちらから見た左目が治療用の眼帯で覆われ、顔の一部が腫れてあちこちに青痣を残し、手や腕には煙草の火を押し付けられたかのような、黒い塊の火傷がいくつも出来ていた。
その娘は片方の眼を大きく見開き、やがてそこから涙があふれ出ると、
「―――お姉ちゃんっ!」
私の胸に飛び込んできた。
「……うっ……」
目覚めたばかりの病人にタックルをかますところから見て、どうやら外見ほどの心配はないようだった。
「―――って、“お姉ちゃん”?」
私を、そう呼ぶのかこの娘は……?
すると、少女が顔を上げると至近距離で彼女と向き合うことになり、キョトンとした片目が瞬きした。
「―――あれ……? わたしのこと、覚えてない? ほら、公園で……」
「――――あ……!」
こう見えても記憶力には自信があったから、覚えていた。
あの人と向き合うためのアドバイスをしてくれた、あの少女。
私が思い出したことを確認すると彼女は微笑み、しかしすぐに俯いた。
「―――ずっと、話したかった。だって、お姉ちゃん、全然起きないんだもん……」
「――――! そうだ、あれからどうなったの……?」
この娘はあらゆる事情を知ってそうだったので、彼女からある程度の事態を聞いた。
「―――っ! そんな…………!」
あれから八年の月日が経っていたこともそうだが、一番驚いたのは、あの男、亘によって彼女が誘拐監禁されていたという事実だった。
それは私にも責任があることで、亘を巻き込んだあの計画も、彼の凶行の大きな原因だっただろう。
私と死別――厳密にはそうではないが――そう思い込んだ後の亘の行動は想像がつく。
……私がしたことで、その後に被害者が出ることまでは、考えなかった。巻き込んだのは、亘だけではなかったのだ。
何て無責任で、最低な計画だったのだろう。
「……ごめ……なさ……」
この娘に対してかける言葉など、今の私には何もない。ただ謝る事ぐらいしか、思い浮かばない。
なのに、少女は微笑んだ。
「……損な性格だって自分でも思うんだけど、色々考えちゃうの。どうしてこんな事態になったのかって」
少女はやや泣き出しそうに顔を歪めながらも、話し始めた。
「……そしたらね、知っちゃったんだ。あの人、亘……さんの、こと」
驚くべきことに、彼女に刺されながらも、亘は生きていたらしい。
そして治療の後、今は拘置所にいるとのことだった。
目の前の少女は、当たり前ながら、最初は彼を憎んだ。
「最悪な毎日だったよ。あれから学校にも行くことになったんだけど。見ての通り、この傷は長袖を着ても手の甲とかで見えちゃうから、どうにもならなくて……噂されて、同情もされたけど、皆はわたしから離れていって……」
……そうなった原因は、言うまでもない。
「体育の時間とかね、特に見られちゃうんだ。着替えるとき、薄気味悪そうに、皆はさっさと先行っちゃうの。そうなるとね……もう、あの人を憎むしかなかった。あの時殺し損ねたのが、本当に残念だった……」
その後、拘置所に亘との面会を希望すると、それはあっさり通った。
通常、その者の家族等にしか面会は叶いにくいが、彼女は例外だった。まさに彼の被害者その人だったのだから。
最初、彼女はありとあらゆることに対して、亘に怒鳴り散らすつもりだった。
軽蔑と侮蔑を送り、罵倒によって、廃人にでもするつもりだったらしいが……
「……あの人、わたしと面会した瞬間、大声で泣き出しちゃって。“ごめんな”って何度も何度も土下座しながら謝りやがったの。……ふざけてるよね。謝ったところでその罪は一生消えないのに……」
「……っ!」
それは、私に対しても言われてるようだった。
「……でも、知りたくなってしまった。思えば、一番最初にあの人と会ったとき、既にその眼は死人のそれだった。だから、何とかしてあげたくて、わたしから声をかけたの」
亘に誘拐されることになった最初の発端は、彼女自身が話しかけたことだった。
困った人を見ると放っておけないのは、彼女の性分だったらしい。私も、随分とそれに助けられた。
「……それで、あの人の過去を……本人から聞いてしまった。あの人は……わたしが殺すまでもなく、もう死んでたんだよ」
亘の過去は、私も調べていたから既に知っていた。
母を殺されたのにも関わらず彼を憎みきれなかったのは、それも関係していた。
「さっきも言ったけど、だからといってあの人の罪は一生消えない。―――でも、それでも……っ!」
もはや、彼女の顔は涙でグシャグシャだったが、はっきりと顔を上げて、
「――どうにもならないって……思っちゃったんだよ……! あの人を殺しても、何が変わるわけでもない。両親と、わたしが失った八年間を返してくれるわけでもない。このやり場のない怒りを、殺さない程度にあの人にぶつけるしかないって……!」
再び、泣きながらも、笑った。
「だから、もし何らかの形で出所したら、その時は半殺しで許してやるつもり……ふふっ……」
実に彼女らしい、私には絶対に真似出来ない、神々しいまでの結論だった。
彼女は再び私の胸に顔を埋めた。
「……あの人、亘さんが、言ってた。“憎しみの連鎖は、どこかで断ち切るべきだ”って――そう、お姉ちゃんが言ってたって……」
「……うん。あの人はもう身寄りもいないから、殺したところでその家族に怨まれることはないけど……」
私もそっと彼女の頭を撫でながら、
「……私が、悲しむから。あの人と一緒にいて……楽しかったから。もう、憎めなく……なってしまったから……」
「……うん。そうだよね。だから、これでよかったって……わたしも思う。あの人、“今度こそ、間違えないから”って、言ってたよ」
「……そう。……ありがとう。またあなたと話せて、良かった」
「ずっとずっと、話したかったよ。―――志保お姉ちゃん……!」
病室のベッドで、静かにお互いを、抱きしめた。
「―――美歩ちゃん。だめだよ先に行っちゃあ、この病院広いんだから―――って……!」
しばらく少女を抱きしめたままでいると、また新たな訪問者が現れた。
「―――志保ちゃんっ!」
そいつは、あっという間に涙を滝のように出しながら(やや誇張だが)、私の前に走ってきた。
いつぞやの、これまた相変わらず細くて弱々しくて、女性のようにも見える外見の少年、その成長した姿。
彼もまた怪我をしたのか、胸に包帯が巻かれていた。
「良かった……もう、二度と目を覚まさないかもしれないって……言われてたから……っ!」
少年、守もまた、私をずっと見守ってくれていたらしい。
「……でも、志保ちゃんは、全然起きないから……僕はもう、どうでも……よくなって」
今の今まで寝ていた私、時間にするとざっと八年。
それほどの時間を、守が耐え切れるわけがない。
彼は、再びやる気をなくし、学校で苛めを受ける毎日に逆戻りしていた。
「……でも、今度こそ、守ろうって思った。僕は志保ちゃんを……守れなかったけど……美歩ちゃんを、同じ目には絶対に合わせないって……なのに、僕はまた……!」
「守くん……。もういいの。今、こうして一緒に居てくれるから」
どういうわけか、少女は私の胸から離れて彼に駆け寄り、その手を握った。
「……ありがとね。守」
礼を言いながらも、私は妙な気分になった。
……なんだろう。この「初恋の人が結婚した」という情報を聞かされた時のような複雑な気分は。
……まあ、何でそういうことになっているかは分からないけれど……これはこれで、今後面白くなりそうだ。
「ねえ……えっと、美歩ちゃん? 私たち、今後三角関係になって面白くなりそうだね」
「――――え、ええっ!? だ、だめだよそんな……!」
「え? 何のことなの志保ちゃん?」
守の方は鈍いのか、よく分かっていないみたいだけど、美歩ちゃんは大慌てだった。「な、なんでもないよ」と顔を真っ赤にしながら、彼に弁解していた。
かつての守のように、からかいがいのある娘だった。
「と、ところで志保お姉ちゃん。あの人にはまだ会ってないんだよね?」
話を変えるためか、まだ顔を赤くしながらも、話を変えるには効果てきめんの人物のことを言った。
「――――あ……! う、うん……」
その人のことを言われると、今でも胸が痛くなる。それはさっきまでの守に対しても同様だったが、守はあまりそれを気にしてなかった。
しかし、その人のことまでは、よく分からない。
ひょっとしたら、怒っているかもしれない。恨んでもいるかもしれない。
折角お互いのことが分かりかけていたのに、これからだという時に……私は彼の前から去ったのだから。
「そろそろ仕事が終わるみたいだから、あの人……おとうさんも、ここに来るよ」
「―――え……っ!」
あの人がここに来るということと、美歩ちゃんの言ったことの意味に同時に驚く。
「……わたしは、山中美歩っていうの。だから、志保お姉ちゃんとは、ホントに姉妹なんだよ」
……ああ、そうなんだ。
「守くんも、亘さんも……あの人のおかげで助かったんだよ」
……安心した。あの人も、相変わらずのようだった。
真面目で、曲がったことが大嫌いで、優しい人。
――ガラッ!
そして、三度この病室の引き戸が開けられ、その人が入って来る。
いつもの如く、今日は茶色の、いかにもオヤジ臭いスーツ姿。
押し上げた髪型が所々に下ろされて乱れ、顔は記憶の中のより随分とシワも増えて老けこんだ、その容貌。
「――志……保…………!」
私の名前を…………呼んでくれる………………父、源一の姿。
……どうしよう。いざ会ってみると、何て言えばいいか分からない。
まずは、謝らなくちゃ……いけない…………よね。
でも、それも何て言えば? あれから八年も経っていたみたいだし、それこそ今更なんじゃ……ああ、どうすればいいんだろう?
「……パ……パ……」
とりあえず、父と呼んでみた。
「ああ……」
父もまた、何と言うか迷っているようだった。
「――あの……」
「ああ……」
「――その……」
「……ああ」
まるで、お見合いにおける話題探しのようだった。
妹となった美歩と、その彼氏候補(?)の守が、笑いをこらえていた。
若干それにムッとしつつ、もう一度父に向かって口を開く。
「……また、パパと……」
「ああ……」
「……キャッチボールが……したいな」
「ああ。私もそうしたい」
「今ならパパの投球だって、楽勝で受けられるから」
「ああ、私も全力で投げよう」
「今度は、バッティングもしたいな。パパの投球でも、余裕でホームランを打ってやるんだから」
「それはどうかな。私も最近投球練習は欠かしていないぞ?」
「本当に〜? 亘さんっていうんだけど、あの人は私に滅多打ちされたんだよ?」
「あいつと一緒にされては困る。私は昔140キロストレートを投げれたんだからな」
「なら、勝負だよ!」
「ああ、望むところだ!」
お互い拳をぐっとにぎり、微笑んだ。
「あの……何かずれてるよ二人とも」
守の指摘によって我に返る。そうだ、今は他に言うべきことがある。
「……パパ……」
「ああ……」
「もっと、パパと話したいことが……あるの」
「ああ、私もだ」
「もっともっと、野球以外でも、いっぱいいっぱい遊びたいの!」
「ああ、サッカーでもバスケでも、いっぱい遊ぼう」
……言いたいことはいっぱいあるのに、どうしてか、一番言うべきことが言えない。
まずは謝るのが先なんじゃなかったっけ……? ああ、どうすればいいんだろう……
「―――言えば…………いいんだよ」
美歩が、いつかのように微笑みながら、そう言った。
私が「何を?」と訊きかえす前に、彼女は青くなっている唇を再度開く。
「自分の気持ちを……」
……ああ、そうだよね。
あの時も、そう言われたんだよね、私。
私は再び父に向き直り、緊張で目を合わせるのに一分ほどの時間を要し、そして、しどろもどろに……消え入りそうな声で…………
「―――…………パパ……」
「……ああ…………」
あの時、亘さんにも言ったはずの、自分の気持ちをストレートに伝える言葉……
「―――だいすき……」
すぐさま、父に抱きしめられていた。
最初に見た夢のときのように、もう嫌悪感は湧かなかった。
……あれ、どうしてだろう。
何で涙が、止まらないんだろう…………おかしいね。
私は父の胸に顔を埋めて、泣き続けた。
―――そう…………もし…………まだ生きられたら。
皮肉にも予定通りの運任せになって、その上でまだチャンスを…………もらえるなら………………
…………今度こそ…………私は……………………――――――間違えないから。
もう、二度と馬鹿なことはしないから。ちゃんと、罪と向き合うから――
―――だから、もう一度だけ―――――生きたい!
―――今ここに居る人達だけでなく、亘さんにもまだ、言いたいことはいっぱいある。
やることも、数え切れないほどに、たくさんある。
…………でも、今は……今だけは……っ!
「……本当に、ごめんなさい……そして、ありがとう」
……この人に……もう一度だけ言わせてほしい。
「パパ…………大好き………………っ!」
「ああ、私もだ。志保」
もう一度父の胸で、静かに泣いた。
そういえば、私はいつの間にか十七歳にもなっていたのに、随分と恥ずかしいことだったと後になって思った。
でも、もう自分に嘘をつきたくないから。
この人が―――大好きだから……っ!
Fin
いかがだったでしょうか。
初めて投稿させて頂いた作品、『罪避り人』。
まだまだ未熟な私の作品ですが、少しでも面白いところがあって、読者様を楽しませることが出来たなら嬉しいです。
1話1話が長く、目標である4月中に終わらせることが出来なかった作品ですが、ここまでお付き合いくださり、本当に本当に、ありがとうございました!
裏々正