7・彷徨
『「…………………………」』
――車内での沈黙。
無理もない。
お互い、相手のことがよく分からない状態で、しかもこんな状況だから。
仕方なしに、私は話しかける。
「――ねえ……」
「………………」
自己紹介だけでもしようと思って声をかけてみたが、無反応。
「お兄さん。名前は?」
「……――え? な、何か言ったか?」
ようやく気がついて、慌てて助手席のシートを見てくるが、私と目は合わせなかった。
ちょっと前までの父みたいだと思って、少し苦笑しながら同じことを問うた。
「あ……ああ。亘だよ。上元亘」
引きつったような、強張った笑みで言った。
……怖がられているのかな? まあ、突然こんなことさせるんだから無理もないか。
それに忘れていたが、私は父やクラスメイトからも、一時は無視されてしまうほどの異質な娘だったのだから。
ならば、少しは好印象を与えておかないと、計画に支障が出る。
「私は志保。山中志保。こんな形で挨拶することになるとは思わなかったけど、よろしく亘さん」
口元を少しだけ上げて、上目遣いに微笑んだ。
「…………………………」
どうしたことか、彼、亘は私の顔を見たまま固まってしまった。
どうやら大成功。
ここまで成功するとは思わなかったが、我ながら凄いものだ。
……将来はホステスにでもなろうかな―――なあんてね。
すると、男はそのままアクセルを踏んでいたので、車がわき道にそれて住宅にぶつかりそうになった。
「―――危ない!」
「―――え……―――うわっ!」
慌ててハンドルをきって方向転換。
その後、急すぎないブレーキによって何とか激突は免れ、再び車道に躍り出る。
「全く、気をつけてよねえ!」
「あ……す、すいません」
「何で敬語なの。亘さんのほうが年上でしょお? 私は一緒に乗り込む教習所の指導員じゃないんだからねえ」
「あ〜、す、すまん。志保……さん」
「呼び捨てでいいってばあ。あなた何歳だ〜? 私より年下の九歳未満ですか〜?」
「い、いや、そりゃねえだろうよ」
「そうだよねえ。こんな可愛くない九歳児がいたらそれだけで死刑だし」
「――そ、そこまで罪が重いのか?」
「冗談だってば。普通気付くでしょ?」
「そ、そうだよな。可愛くないってだけで死んでたまるかっての」
「いや、まず九歳という年齢から否定しようよ」
「――あ、ああ、そうだよな。はははっ」
ようやく、場が少し和やかになった。
我ながら大した演技だ。
最初からこんな猫をかぶってればよかったのかもしれない。まあ疲れるだけだろうけど。
「ところで、これからどこ行くの?」
「…………」
そう訊くと、再び沈黙と静寂が場を支配した。
何も考えずに私をさらったのだろうが、つまりこれは、れっきとした誘拐なのだ。
しかも私が仕向けた誘拐なので、どこに行こうかなんて答えられるわけがないか。
ならば、私が何とかするしかない。
「じゃあさ、あっちの田舎エリアの学校、知ってる?」
「ああ、あの田んぼに囲まれた、古い学校だな」
大分前に、遠い道のりで都会エリアの学校まで出向かなくても済むよう、田舎エリアの者たちのために開かれた、小中学校だ。
まだまだ開発が手付かず、というよりも皆無な、田舎エリアの当時唯一と言ってもいいほどの建造物で、住民にとってもなくてはならないものだった。
「あの学校、つい最近廃校になったの」
「―――え……!」
――話によると、彼もその学校に通っていたらしいが……
「――何でだ!?」
「わかんない。私の通う学校に子供たちがたくさん編入されてきたから、それで廃校になったって知っただけ」
本当は前々から経営が悪かったのが原因だ。
田舎エリアの子供たちのために開校されたとはいえ、人数は一クラス、いや、一学年で五人程度だったという話だ。
そんなところに安月給で働きに行く教師もそうそういないし、学校の維持費ですら既に尽きていたらしいから、この結果はいつか起こるべき必然だったのだ。
が、今は私的に猫又のような猫をかぶっているので、その情報は教えない。
「それでね、もし行くところがないならそこに行ってみない? そこなら取り壊されるまで誰も来ないと思うから」
実際予想しえたこととはいえ、その建物を壊す必要があるのかとか、壊すのではなく部分的に改築すれば時間も人材も費用も削減できるとか。
関係者各位はそんなことで話し合っているらしく、中々取り壊す(もしくは改築)日が決まっていないそうだ。
しかも、やはり人材と予算が限られているからか、現在の学校には無用心なことに誰も見張りに立たす事もないらしい。
「……そう、だな」
落ち込んでいるのが丸見えの、何とも情けない表情で、彼は同意した。
*
――こんなところにあっても場違いとしか言いようがないぐらいの、静かで寂しそうな場所に、それはあった。
元々そこにあるものといえば、農道、田畑、農家の事務所と、本当にそれぐらいだ。
そんな場所に、大きな建物がポツンと建っている。
周りの建物との高低差があまりにもありすぎて、田舎エリアの数少ない魅力の一つである、山々などの自然が残る景色を遮ってしまうぐらいだ。
そんな異様な様で寂しそうに建っているのが、例の小中学校だった。
中には古びた校舎と中庭、そして運動場。
今にも崩れ落ちそうな、腐りかかっている二階建ての木造校舎。
一階は小等部の全学年の教室になっており、二階は中等部の教室と、音楽室や美術室などの特別教室に、職員室などの教員専用の部屋などが用意されていた。
歩いてみると、あまりのもろさに床が突き抜けて、一階に落ちそうになったほどだ。
中庭には飼育用の小屋や小さな池があった。
“ニワトリの小屋”という看板が残っていることから、どうやらニワトリを飼っていたようだが、排泄物や生物独特の臭い匂いが残っているだけで、ニワトリは一羽もいない。
“観察池”と書かれた池は、緑色に変色した濁った水になっていて、魚の死骸が数匹浮かんでいた。
運動場だけは比較的まともだが、小さな学校なので、狭い。
ここで野球をやったら、外野フライでも簡単に場外ホームランになるだろう。
「ここでしばらく暮らそっか」
隣に立つ、呆然として辺りを眺めていた亘に提案した。
「……そう、だな」
何やら戸惑いながら、しかし最後は私を安心させるためか、ぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
――困難な生活だったけれど、悪くはなかった……ように思う。
当然、ここには隠れ住んでいるので気取られるわけにはいかないから、人に見つからないよう徹底させた。
父のことだ、恐らく亘は誘拐犯として指名手配されている可能性が高い。
ナンバーで足がついたらまずいので、男の持っていた車を不正ルートで売り飛ばした。
その金で当分は過ごせた。
あまり目立つことをせず、都会に食料などを買出しに行くときも人と目を合わさない。
フードや帽子を怪しまれない程度に目深にかぶり、出来るだけ顔を覚えられないようにする。
それでも危険なことは変わりないので、一度の買出しで当分の食料を得て、外出は出来るだけ避けるようにさせた。
外に出られなくて退屈だったが、すぐにそんなことはなくなった。
どういうつもりなのか、亘が運動場で遊ぼうと誘ってきた。
初対面のあの日以来、よそよそしい関係ではあったものの、何かと私の気を引こうとしていた。
「こう見えても、俺は結構運動得意なんだぜ」
体育倉庫から持ち出してきた、軟球とグローブと金属バット。
そのうちのグローブとボールを手に取り、亘は得意そうに投球フォームを確認する。
バックネットの前には既に野球コートがあった。
ラインカーで引く白線ではなく、わざわざ白いテープが貼られて野球のダイヤモンドのコートが作られていた。
私は左利きなので、置きっ放しになっていたホームベースの右側に立った。
「いや、見た目も結構得意そうだよね」
「そうか? だったらその見た目どおりに、得意なんだぜ〜」
「……運動だけって感じがするよね、亘さんは」
「そうか? そりゃ言いすぎだろ。はっはっはっ」
いや……誉めてないんだけどね。
「じゃあ、行くぞ。俺の剛速球を受けられるかな?」
「どっからでもどーぞ」
私も自信満々に答えて、ずっしりと重い金属バットを構える。
亘がプロ野球選手みたいにわざとらしく足を大きく上げ、肩を振りかぶって投げられた球は、ストレート。
ボールの縫い目が回転しながら私の脇を結構なスピードで通り過ぎて、バックネットに当たってガシャンと音をたてた。
「……え?」
様子を見るため、まずは一球見逃したが……
「スットラ〜イクだぜ!」
それぐらいは分かる。
だが、まずは球種を確かめるため、どんな球であっても最初の一球は見逃すことが多い私には、ストライクかどうかは関係ない。
「……亘さん、今のは全力投球?」
「んなわけねえだろ。まずはならしだよ。な・ら・し」
ちっちっちっと人差し指を振りながらえらそうに言うが、私は逆に安心した。
「じゃあ、さっさと全力で投げてくれない?」
私が思ったより驚いていないからか、彼は若干不満そうに、少し不安そうに、
「ふん……いいだろう。ビビッて腰ぬかすんじゃねえぞこらあ!!」
なんか、ありがちなやられ役みたいな台詞を吐きながら、再び振りかぶって、投げた。
確かにさっきよりは多少早いが、予想の(大部分の)範囲内だ。
―――カキーン!
インコースに来た球を勢いよくスイングすると、スカッとするような心地よい音が鳴り響く。
ボールは高々とライト方向に舞い上がり、やがて学校の敷地の外にまで飛んでいった。
ちなみにこの運動場が狭くなくとも場外ホームランの当たりだ。
「………………」
亘はあんぐりと口をあけて打球を見守っていたが、
「い、今のもまだウォーミングアップだぜ?」
引きつった笑みで汗をたらしながら言う台詞ではない。
「じゃあ、今度こそ全力で投げてね。さっきより三十キロほど速いとありがたいんだけどなあ……」
「――んなっ!」
顎がすとんと落ちるように口が開かれ、間抜けな表情で私を笑わせる。
実際、私はバッティングセンターで百二十キロまでならどれもヒット以上のあたりにする事が出来たから、それよりも相当遅いこの球をホームランにするのは容易い。
……思えば、それもパパと遊びたかったから、なんだよね……
結局、あの後一度も父とはこういう遊びが出来なかった。
だからこんなことをするのも約三年ぶりだが、まだ腕はなまっていない様だった。
今の父となら、ひょっとしたらこの遊びもまた出来たかもしれないが、今はもう無理……なんだ。
そう思うと、少しだけ落ち込みそうになったが、
「じゃあ、こ、今度はフォークボールだあ!」
再び彼が勢いよく振りかぶったのを見て、私は微笑みながら構えなおす。
先程と同じストレートがインコース高めに来ていたが、そこを狙って躊躇いなくフルスイングする。
爽快な音が鳴り響き、
「――なんでだーーーっ!」
彼の悲痛な悲鳴。
……いや、ヘボイからだよ――とは何となく言いづらいな。
でもあまりに楽しかったからか、見つかる恐れのある騒がしい真似をされても、私は注意しなかった。
そんな生活が、一ヶ月程度続いた。
彼のことも、嫌いではなくなっていた。
彼は、良い人だった。
自分の方がずっと不安だったろうに、私を気遣ってくれた。
「あの時は、楽しかったぜ。初めてだったんだ。俺を、見てくれた奴は」
退屈しないように、自分の彼女の話を聞かせてくれた。
今ここにはいない――亘の彼女。
「昔同姓していた頃、彼女の下着を握りながら眠っていたら、そのまま永眠しそうになった」とか、そんな話だった。
そして、そもそもどうして私がこんなことをしようとしたのか、訊こうとしなかった。
古ぼけた校舎の隅で、拾ってきた布団に包まりながら、私が眠るまで話し続けてくれる。
その優しさに、父のことをまた思い出す。
……できれば、父である源一と、こんな関係になりたかった。
お互いに笑い合い、時には外で一緒に遊んだり、頭を撫でてもらったり、抱きしめてくれたり……あ、そういえば、お風呂で背中の流しっこというのもやってみたかった。
もうそんな年ではないけれど、一度もしたことがなかった私にとって見れば、魅力的な親子のスキンシップと言えた。
……でも、もうそれはできない。
今度は、私のせいで、もう出来ないんだ。
――ごめんね。パパ。
本当は、あなたのこと、全然嫌いなんかじゃなかった。
でも、あまりの申し訳なさに、嫌いの反対の言葉を、心の中ですらもう思えないよ。
そもそも、あなたが私を避けるのも、無理もなかった。
私も、いつかあの女の子と会った時、少し怖かったから。
まるで、こちらの考えを、心を読まれているみたいで、一緒にいたくなかったもの。
私のような年の娘が、突然あんな様子になれば、怖くなって当然だよね。
クラスメイトの反応で、ようやくわかったよ。
……そして、あなたも、私と同じようにつらかったんだよね――ママの死は。
なのに、自分ではそんな悲しそうな素振りを一切見せずに、私が取り乱すのを承知の上で、わざと私の罵倒を受けて、パパだけのせいにされても文句も言わないで……
――違うよ。パパは悪くないよ。
あの時……私が余計なことをしたから、ママは殺されたんだよ。
全部、私のせいなんだ。
……ごめんなさい。パパ。
本当は……あなたのこと……――……です。
会いたい。パパに会いたいよう。
でも、私の我が儘で、巻き込んでしまった人がいる。
だから、もう会いにいけない。
……この人、亘さんのこともまた、――……――みたいだから。もう、そんな気なんてなくなってしまったから。
……残るのは、私の罪。
どうすればいいんだろう? 今更贖罪しても、もう遅い。
だったら―――
……思い浮かぶのは、一つの、最低最悪の名案。
*
――深夜の時間。
私は学校から出ようとした。それも、わざと亘に見つかる形で。
「……何、してんだよ」
亘が、よく見せる引きつった顔と、焦ったような顔を混ぜたような表情で、私の行動への疑問を投げかける。
「……ごめんね。亘さん。私、やっぱり一緒にはいられない」
その途端、初めて泣き出しそうな表情をし、悲鳴のように叫んだ。
「なんでだよお! 何で今更俺から離れるんだ! だったら何で誘拐しろなんて言ったんだ!!」
「……だったら、何で私のお願いに応じたの? 私が考える時間を与えなかったから? でも、結局最後に決めたのは亘さんだよ。あなたは断ることもできたんだから」
彼は「ああ……わかってるよ」と苦笑気味に言い、
「お前の言うとおりだったんだよ。俺は寂しかったんだ。……俺の女房は、もう死んでるんだ。その腹には俺の子供を宿していたのに……! しかも、死因は山付近での落石事故だってよ。これじゃ誰も恨むこともできない。病院に運ばれる前に、既に即死だったんだからな。だから、寂しかったんだよ……」
うん……知ってるよ。
「そうだったんだ。ゴメンね。亘さん」
私も少し顔が引きつってしまったけれど、何とか振り切り、彼に背中を向けて走り出した。
「――待てよ!」
亘も慌てて追いかけてくるが、無論待つ気はない。
農道を走りぬけ、砂利道の荒野になってきたところで、私の息は切れはじめる。
走力と持久力には多少自信があったから逃げ切れるとも思っていたのだが、いかんせん体の構造的に相手とは違いすぎた。
私があらかじめ用意しておいた障害物や、落とし穴にまでも見事にはまってくれたが、すぐに這い出してきて、また私を全速力で追いかける。
しばらく私の家という目的地まで彷徨うかのように走り続けたが、息が切れ始めた体はふらつき、ついには倒れてしまう。
すぐに亘が追いつき、息を切らしながら、私を見下ろす。
「何で……だよ。はあ……はあ。何で逃げるんだよ志保!」
……あーあ。私の負けか。野球でもサッカーでもこいつには負けなしだったのにな。
まあ、もし野球なら、すでにコールドゲームになるぐらいの点差から始めるみたいなハンデを与えていたから、無理もないか。
「――あなたの……いうことなんか……はあ……はあ……聞きたく……なかっただけだよ」
「なん……だと?」
……負けは負けだ。潔く認めよう。
「私のママ。私の目の前で殺されたの」
「―――!」
「ママを殺したのは、強盗だったんだって。ママは、私がでしゃばった真似をして、強盗をひきつけるなんてバカなことをしたから…………私を庇って……」
……そして、潔く諦めよう。
「……ま……さか」
「私が、悪いの。あんなこと、しなければ……でも、もっと悪いのは、強盗の方だよ。そいつが強盗したり、ママを殺したりした理由、なんだったと思う? 捕まって事情聴取のとき、そいつはこう言った。“むしゃくしゃしてたから”って。――ふざけんなって感じ?」
「あ……ああ……」
亘の体が小刻みに震え始めるが、私は無視して続ける。
「それ以来ね、私泣いてばっかりだった。全てが嫌になった。パパが悪いわけじゃないのに、パパに“ママを返せ!”って泣き叫んだこともあった。友達が気を遣ってきたことに一時は殺意を覚えた。だって、腫れ物でもさわるかのように接して来るんだもん。でも……ね」
ごろんと仰向けになって見上げると、星空と満月が輝いて照らしていた。
「気付いたの。どんなことをしても、ママは戻って来ないって。だって、私がどんなに泣いても叫んでも喚いても、パパを困らせるだけで、ママは戻ってこないもの。“悪い子になったら心配して天国から戻ってきて叱りに来る”とか我ながらバカなことも考えて、実践して友達を傷つけたり苛めたりもしたけど、それでもママは叱りに来ないもの」
今思い返すだけでも腸が煮えくり返る。
父に、クラスメイトに、そして、あの少年を傷つけた。
……あいつにも、まだちゃんと言えてないんだよね。
ああ、思い出すだけで、涙が出てきた。
もう、私の負けなのにね。
しかし、気を取り直し、涙を拭って話を変え、彼に振る。
「……で、あと一つ、やることがあるよねえ。オニイサン?」
名前を呼ばず、あえてバカにしたような言い方でそう呼んでやった。
「うう……まさか…………お前があの時の……娘だったなんて……」
まさしく、彼が母を殺した張本人だった。
まさか、こんな今更な時に会えるとは思わなかった。
「女房を失った直後のことだったんだ。幸せそうな家族を見ると……どうしてもむかついて、羨ましくて、壊したくなった。そんな家庭に強盗に入って、その家の奴らを殺して……その帰りだった。お前と、お前の母親が店で楽しそうに買い物してるのを見て、お前らは本当に幸せそうで……。お前が立ちはだかったとき、母親の前で見せしめに殺してやろうとして、そして、絶望を……味わせようと…………」
彼の目からも涙が溢れ出し、嗚咽をこらえるように膝をついた。
……第二段階、開始。
「――だからって、人を殺してもいいのかなあ? 私、あなたにママを殺されて心底わかったんだけど、人って死んだら、もうその人は二度と戻ってこないんだよ。残された者がどんなに泣き叫ぼうが自暴自棄になろうが……ね。そういった悲しみを……あなたは無意味に増やそうとしてるんだよ。わかるかな?」
「―――! ……ううう」
「大体、つらいのはあなただけじゃないよ? 現に私だってあなたにママを殺されたんだし、そうじゃない人だってつらいことはいっぱいある。それにあなたのように天涯孤独の身になる人だって、世の中には相当いるんだよ? 日本はまだ安全な方だけど、他の国は地震、台風、竜巻なんてのもあったかな、あとは飢饉とか? それらの自然災害やら何やらで死傷者がどれだけいたと思う? 考えたくも数えたくもないほどなんだよ?」
「うう……ううううう…………!」
「でも、あなたやその外国の人たちみたいに、自然災害ならまだマシだと思わない? だって恨む対象がないもの。それによって、憎しみの連鎖とでも言うのか、そんなものは断ち切られるかもしれないじゃない? 恨んだってどうしようもないんだから。でも、私の場合はどうかなあ?」
「……!」
今まで亘を見ないように語り続けていたが、ここで初めて彼に視線を移す。
どんな表情かは自分でも分からないが、彼の怯え方からすると、普通の表情ではないらしい。
「憎む対象が私の目の前にいる。そう、そんなことになっちゃうよねえ? あなたの場合。そうしてあなたが殺されるとそのあなたの親族が……ああ、アナタは天涯孤独だったっけ? それならそれで憎しみの連鎖が断ち切られるかもね。あはは〜。でも、大抵それで連鎖が続くわけだ。どんな人間にも、系譜というのがあるからね。まったく、本当に疲れるねえ」
……さて、ここから先は―――私の命の保証がされない。
「――まったく、何であなたみたいな、人を傷つける以外に何もできなさそうな人が、生きてるんだろうねえ?」
「―――!」
「あなた……人を傷つける以外に、ここ最近で何かしたことがある? 良いことした?」
「そ、それは……」
「何で……そんな人が生きてるんだろう? そんな人がいなければ、少なくとも私のママみたいに他殺されることはなかったわけだ。本当、消え去ってほしいぐらいだ」
「―――ぐ……ぎぎ…………!」
ここで、私は彼にとっての最悪の言葉を口にする。
母が殺されたあの事件の直後、警察や検察に訊き、独自にも調べることで、彼の過去は既に調べがついている。
それによって、今回の計画を思いつき、いけないこととは思いつつも、それが不可能ではないことを悟ってしまい、私は決行するに至った。
彼、上元亘は――過去の事件によって、とある言葉を聞かされると、我を忘れて相手に襲い掛かるという、トラウマがあった。
……それは、心のブレイクワードとでも呼べるもの。
言われることにより、その時の記憶がフラッシュバックし――
「多分、最後になるだろうから、言っとくよ。オニイサンは―――」
彼の中の、正気と狂気を入れ替える、いや、切り替えるかのような……スイッチ。
……それは――――
「――――“クズ”だよ」
「―――っ……! …………ああ…………ウああ…………ッああっ!!」
彼の体に異変が生じた。
途端に体全体が尋常じゃないほどに震え上がり、そのまま頭を抱えて上空を見上げる。
全身に汗がにじみ、眼を見開き、口を半開きにしたまま「うう……うあ……」と呻く。
今、まさにその凄惨な過去を思い出しているのか、その瞳は上空というよりも、虚空を見ていた。
やがて―――
「―――! 止めろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
咆哮して、母を殺した時にも持っていた鋭敏で長大なナイフを取り出し、逆手に持って振り上げた。
――そうだ。私を殺すがいい。
これこそが、私の最後の手段―――
どうしても会いたかった、母に会えるかも知れない唯一の、しかし非常に曖昧で、下手をしたらそんな可能性は皆無ともいえる手段。
母が既に死んでいるなら、私も死ねば会えるかもしれないという、いかにも短絡的で稚拙で愚かな選択。
……本当は、この自分の罪が残りすぎている世界から逃げ出したかっただけというのもあったが……
――それも、ただ死ぬのではなく、同じ者に殺される。
何らかの因果関係が働くかもしれないし、母を殺した憎しみから、散々言葉によって嬲った後に、あえて殺される。
それにより、ある意味の復讐を遂げる。
もう一つ、私のことを好きにならせて、その好きな人を自らの手で殺させる。
そうさせることで、計り知れない程の絶望を味あわせるため―――
「――――っ! うう……!」
しかし、彼はナイフを振り上げたまま、固まっていた。
私との思い出が脳裏によぎっているのか、頭の中で天使と悪魔の囁きのどちらに耳を傾けるかを迷っているかのようだ。
……私を殺したくないという想いが勝った結果なのだろうか。
そう……誤算があったのは、私も…………この人を―――……
……本当に、ありがとう。
私の為に、止めてくれてるんだよね。
嬉しいよ。もしあなたが耐え切れたなら、それでこのゲームは終わりにするよ。
だから、あと一回。
本当に心が痛くて、胸が張り裂けそうだけど、後一回だけ、言わせてね――――挑発を。
もしこれに耐えれたら……そうだなあ…………あなたと寝てあげてもいいよ。
ああ、「実はただ寝るだけだったんだよ」なんてことはないから安心してね。
「添い寝してあげる」というオチはあるかもだけど、クスクス……
――ホントウニ…………………
「――あんたなんてゴミだ! 人を傷つけるだけのクズだ! そんなクズは――消え失せろ! 存在すらするな! 生まれてくるな! お前なんか、死ぬときは血反吐を吐いてその人を傷つけることしか知らない腐った脳をぶちまけろ!! このクズ! クズくず屑くずクズ屑クズくずクズ屑クズクズ屑! シンデシマエ!! ――この、塵屑があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
無茶苦茶でえげつないほどの、存在を全否定する暴言をたたみかける。
「うおおおおおぉおおおォおわあああああぁあああああああああああああああ!!」
彼は、もはや人間の叫び声とは思えないほどの咆哮をあげて、ついにナイフを―――突き立てる。
―――ドシュッ!
「…………ごめん―――――ね」
*
……いたい……な。ホントウニ。
あれ、でも……段々痛みが…………なくなって…………きたな。
彼がどこを刺してくるか……読めていたから、何とか…………体をずら……して致命傷は避けた。
覚悟はしていたから…………ショック死も…………避けられた。
でも……これは、マジで死ぬ……な。痛みを……感じないのは…………死の前兆。
このまま……では…………死は免れ……ない。
…………ならば、せめて最後に…………これだけは………………
なんとしてでも言わ……なくちゃ。
この様子だと……あれも…………こないだろう……し。
私が死ぬのは……もはや………………決定事項だ……
でも………………だから…………こそ…………最後に…………いわなく……ちゃ。
父にでも…………なく。あい……つ…………にで…………もない。
今…………目の……前に………………いるこのひ…………とに。
あのときは………………いえ…………なか………………けど、コン…………ど………………ソ。
こ…………のまま…………何もいえ…………ずに、みじめ………………に…………しぬな………………て………………死んでも…………シニキレルモノカ………………っ!
「………………わ…………たる…………さ…………」
……ああ、だめ…………だ………………なまえ…………呼ぶ………………は………………余計………………だ………………た。
「………………だ…………ぃ……………………っ……」
…………だめ。も………………声……………………でな………………い。
意識…………………………しょう……………………しつ………………
い………………や。これ………………だけ…………は。
おね………………い。後……………………ちょ………………とだ……………………け。
にびょう………………………………い………………から………………も………………っ…………て。
たっ…………た、一言…………………………でい……………………の。
…………………………わ………………た……………………の………………き………………………………ち
「………………………………ぃ…………………………き………………」
で………………ない。…………いえ……………………な…………………………た。
ご………………………………め………………………………な…………………………い………………
「―――俺もだよ。なのに何でこんな……」
………………!!
…………ああ。………………読唇……………………カ。
……………………ぁ………………りが…………………………と……………………
……………………………………に…………………………………………げ…………………………………………………
*4
―――バンッ!
勢いよく扉が開かれると、あの男が入ってきた。
できるなら、二度と見たくない顔だった。
その顔を見るだけで反吐がでる。
そんな奴と、目の前にいる、わたしを庇ってくれるこの人が一緒にいるという事実だけで、気が狂いそうだった。
「……あ〜ん?」
不機嫌そうに、今にも怒りが爆発しそうな目で、その人を見た。
―――やめろ……。そんな不快な視線を、その人にだけは向けるな……!
「―――なっ! これはどういうことだ!」
「…………?」
意外にも、そこにいたのはあの男だけではなかった。
あいつよりもう少し年をとったぐらいの、中年ぐらいの男がいた。
「うるっせんだよ! まずは、そこのガキだ!」
だが、男の怒声が響き、それを目の前の人にも向けられ、
「―――っ!」
彼の身体が一瞬震え上がった。
しかし、腕を抑えて震えを無理やり止め、男を見上げた。
「…………どうして、こんなことをするんですか」
わたしは彼の後ろにいるので、どんな表情をしているのかは分からない。
でも、その口調は静かな怒りを表現していた。
「どうして? 娘をどうしようが俺の勝手だろ?」
「親でも、やっちゃいけないことはあるんですよ。むしろ親なら何でそんなことを平気でできるんですか?」
「わかってねえな、親だからだよ。しつけってやつだ。こうすることによってそいつは俺の言うことを聞くようになった。そいつはそいつで楽しんでたしな」
段々と彼の口調も責めるようなものに変わり、怯えより怒りが勝ってきたようだ。
「嘘だ! そんなこと、あるわけない!」
「……もういいだろう。時間稼ぎはよ」
「――っ! ……なんのことですか?」
彼の口調に再び怯えと焦りが見え始めた。
「とっくに警察は呼んでるんだろ? で、さっきまでのは警察が来るまでの時間稼ぎってわけだ」
「――――う……!」
そういえば、男が入ってくる直前に少しだけ携帯電話でどこかにかけていた。
「てなわけで―――時間が無いなら……そろそろ死ね」
「――やめて!」
ここで、初めてわたしは声をあげて、男の前に進む。
この人を……守るために。
「お願いお父さん。わたしはどうなってもいいから! 殴っても蹴ってもいいし、いつかみたいに金属バットで殴られてもいい! お父さんの言うことは絶対聞くから、もう逆らわないし反抗もしないから! だからその人は、その人だけはやめて! 殺さないで!!」
この人だけは、傷つけさせない……! 絶対に! なんとしてでも!
「…………何で……だよ。何でそんな奴に!」
男は怒りのためか、全身を震わせながら、
「お前は俺だけを見てればいいんだ! こんなガキのことなんか考えるな! お前には俺がいれば十分なんだよ! だから、俺以外のことを考える要因は―――殺す!!」
懐から刃の鋭いナイフを取り出し、その切先をわたしたちに向ける。
「――や、やめろっ!」
もう一人の中年の男がとりおさえようとするが、
「いい加減うぜえんだよ!」
「ぐわっ!」
逆に蹴り飛ばされて山積みになっている無数の本に突っ込んでいった。
「――っ!?」
ぐいと腕が引っ張られると、彼が再びわたしを守るようにその背後に移動させた。
「僕は…………僕はっ!」
「何か言いたいことでもあるのか? 最後に聞いてやるよ」
「僕は―――今度こそ―――――守るんだあああああああああああああああああ!!」
もう時間稼ぎのことなんか気にせずに、男に向かって突っ込んでいった。
「うるっせええええええええええええええええええええええええ!!」
彼の突進に合わせて、男もナイフをその胸に振り下ろす。
そのナイフが、ゆっくりと彼の胸に突き刺さるのを、わたしは見てしまった。
「…………ぁ………………ご…………………………ね…………」
ナイフが引き抜かれると、大量の血を鯨の潮吹きのように出しながら、最後にわたしに向かって何かを口にし、やがてゆっくりと仰向けに倒れていった。
「――はは……ふははははははははは! あーははははははははははははは!!」
男の狂った笑いが響き渡る中、もう一人の中年の男が駆け寄って出血箇所を抑えるが、傷口に当てたハンカチがたちまち真っ赤に染まって血が溢れだす。
彼は歯噛みしながらスーツのネクタイをはずし、それをあの人の胸にまいて縛り付けるが、それでもじわじわとしみだして出血が止まらない。
「あーはははははははははは! ざまあみろ。何が守るだ! 弱いくせにカッコつけやがって! 死んだら終わりじゃねえか。お前はなーんにも守れてなんかいねえんだよ。ばーか!!」
何がそんなに可笑しいのか、男はさっきから笑いっぱなしだった。
……その耳障りなワライヲヤメロ。
ゆっくりと男に近づいていき、歓喜のためか、わたしの存在は気付かれることなく、あっさりとその手のナイフを奪えた。
「―――はっ!?」
ようやく男が気付いてくれるが、もう遅い…………!
―――ドッ!
「―――がはっ」
そのナイフを突き立てる。
残念ながら傷は浅いようだが、そいつは床に突っ伏して、立てない。
「…………な、志保…………てめえ…………!」
「―――志保だと? どういうことだ?」
思わぬところの名前だったのか、あの人の傷を抑えていた男が驚いたように見てくるが、それに答える気はない。
「私の名前は志保じゃないよ。今まで、何度もそう言ったでしょ? オトウサン?」
バカにしたような口調で、再びその男をそう呼んだ。
「ぐ…………ま、待て!」
「なあに? オトウサン?」
「そ、そうだ。俺は、お前の父親なんだ。だから、それがどういうことか分かるよな? 俺は、お前を……愛しているんだ。――そう! 愛しているんだああああああああああああああああ!!」
「…………はあ!?」
……意味不明。リカイフノウ。
「……ぷっ! あはははははははははははははははははははははははははははっ!! あーははははははははははははははははははははははははははははははっ!!」
なんとなく、男がさっきまでバカ笑いをしてた理由が分かった。
「―――ひっ!」
思わずかすれたような声をだして後ずさる。
――こんな狭い部屋のどこに逃げる気かな……? くすくす。
「ちょっとちょっとオトウサン? 私を笑い死にさせるつもりい!? あっはははははははははははははははははははははははははははっ!! アゴが外れて口を閉じれなくなったら責任とってよねえ!? あーっはははははははははははははははははははははははははあっ!!」
「――――ひいっ!」
もはや、わたしと男の立場は完全に逆転していた。
「私を愛していたなら、何で私を殴ったの? 蹴ったのお? おっかしいなあ、私はちっとも、これっぽっちも愛してもらってるとは思わなかったよお。ごめんねオトウサン? 私鈍いみたいだねえ。あははははははははははははははははははははははははは!」
「く……来るな。く……くく…………来るなよおおおおおおお!」
もはや恐怖に支配されたのか、さらに後ずさろうとするが、自分が塞いでいた出入り口に背中をぶつけやがった。
何とか扉を開けようとするけど自分自身の手によってドアノブは取られているから、開けることはできない。
まさに墓穴を掘ったってやつかな? あははははははははははっ!
「そ、そんな……」
「どうしたのお? 怯えるなんて、オトウサンらしくないよ? ……くすくす」
「た……頼む! 助けてくれ! この通りだ!」
歯がかちかちと鳴り、涙まで流しながら、かつて自分が苛めていたわたしに命乞いをする。
「……そう言った私を……オトウサンは助けてくれたっけ?」
静かな口調と低い声で、呟いた。
「ううう……頼む。どうか、殺さないでくれ。俺は・・・………死にたくない」
…………ほんとうに、この――――オトコハッ!!
「……何で、あんたみたいな、何もできないやつが生きてるの? 人を傷つけて、自分が危なくなったら命乞いして……あんた人を傷つける以外に何かできることってあるの?」
「―――!」
すると、何かを思い出すかのように、男は額に手をやった。
「あんたなんて……ゴミだ! 人に害をなすだけのクズだ! お前みたいな奴は殺すことすら生ぬるい!! その存在を消せたらいいのに…………そうしたら、私も殺人罪に問われることはないしさあっ!!」
「―――っ! うおわあああああああああああああああああああああああああ!! 俺を―――クズと呼ぶなああああああああああああああああああああああああああ!!」
何故か、今日一番のでかい声で叫び、起き上がれないはずの体を立ち上がらせて、わたしに突進する。
「ばーーーーーーーーーーーーーーーか!」
「や、やめるんだ!」
制止する声が聞こえたけど、こんな状況で「やめろ」と言われてやめるやつなんているのかなあ? クスクス……
「――ごはっ!」
そいつもまた、大量の血反吐を吐いて、ゆっくりと崩れ落ちた。
「…………クズは、所詮クズなんだよ」
そいつを一瞥して蹴りを入れ、しかしすぐにもう一つの体に視線を移す。
「……終わっちゃった、か…………あ〜あ……」
結局、あの人を巻き込んだまま…………わたしは…………
「―――……ぐっ! まだだ!」
「―――え?」
「まだ、息はある!!」
「――――!」
それは、あの人の傷口を抑えて、手際よく応急処置をしていた男の言葉。
「もう警察が来る! そして万が一のために、彼はきっと救急車も呼んでいたはずだ!」
確かに、近くからパトカーらしきサイレンの音が聞こえる。
その内の一つは「救急車が通ります、道を開けてください」とアナウンスしていた。
「諦めないぞ。絶対に、今度こそ諦めるものか。彼は……娘の…………友達だったんだからな!! そして、そいつも絶対に……!」
ああ、そうだったんだ。
なら……わたしもまだ…………
もう一度だけ、足掻いてやる。