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罪避り人  作者: 裏々正
10/14

6・今更



 ――あれから約二週間。


 学校にも行かず、自分の部屋に閉じこもって、過ごした時間。


 自分の行いを見つめなおし、嫌悪感と罪悪感で一杯になるのに十分な時間だった。


 でも、このまま自分の殻に閉じこもっていては、いけない。それは分かる。


 そして―――


 ――コンコン!


 ……ノック。


「志保。朝飯だぞ。ここ、置いておくからな」


 聞こえてくるのは、父の声。


 二週間この部屋に引きこもっても、この人はまだ私にこう接してくれる。


 それを今更と受け止めるのは簡単だ。


 でも……いつか父が言っていた、その通りなのだ。


「――今日は……下で一緒に食べる」


 私がそう言うと、ガシャンという、食器を落としそうになった音が聞こえた。


「本当……か?」


 声を潜めてそんなことを確認してくるが、私には「な〜んてうそうそ」なんて言って(ぬか)喜びさせる趣味はない。


「……うん。今開けるよ」


 そう言って、閉じっぱなしにしていた扉の鍵を開け、父と対面する。


 今日は日曜日だというのにスーツ姿で、押し上げた髪型にセットしていた。


 実際の年齢よりも若く見えるきりっとした目は、いかにも仕事が出来そうなキャリア組のような見た目だ。


 でも、二週間程度しか経っていないのに、随分と痩せて、顔もやつれたような気がする。


 すぐにその理由に思い至って、私は本当に申し訳なくなる。


「……下、行こっか」


「あ……ああ」


 父は呆気にとられたような顔を真顔に戻すと、食器を載せているおぼんを持ち上げた。


「……半分もつよ」


「ああ……済まないな」


 私は父から食器を手に持てる範囲で取り、下に降りていく。


 お互い無言だったので、とんとんと階段を降りる音がやけに響いた。


 食卓に置いた朝食は、こんがりと焼けた食パンに、すでにマーガリンとブルーベリージャムがぬられ、別の皿に目玉焼きとベーコンが盛られていた。


「……いただきます」


 そう言うだけ言って、またお互い無言で過ごす。


「……おいしい」


 が、一応それだけは言っておいたほうがいいような気がして呟くが、


「そうか。……といっても、今回はごく簡単なものだがな。目玉焼きとベーコンを焼いただけだ」


 まあ、そりゃそうだ。


 でも、父はこう見えて、意外に料理が得意なのだ。


 勿論母と比べたら劣るものの、いつもと違ったバリエーションのような感じで、父が作る食事も嫌いではなかった。


 そういう意味を込めて言ったのだが、今更言い直すのも面倒なので、私はまた黙る。


「……ごちそうさま」


 やがて食べ終わり、食器を流しに持っていき、自分の部屋に戻ろうとする。


「待て。まさかまた……」


「違うよ。遊びに出掛けるから、用意して来るんだよ」


 父が焦った顔で言うが、「もし出てこられるなら一緒に遊ぼう」と、あのクラスメイトの学級委員長、彩に誘われていたから、それで出掛けるだけだ。


「そ……そうか。そうだよな。済まない」


「ううん、いいよ」


 私のことを心配してくれているのは、分かっているから。


「そうだ。じゃあ、これをお前に……」


 父の手には、いつの間にか袋から出された服が握られ、それを私に差し出していた。


「―――これって……」


 それは、白い、無地のワンピース。


 T−シャツをそのままワンピースにした、というようなだけの、極めてシンプルな作り。


 それ故に少し気に入っていた――母との最後の思い出となってしまった――衣料品店に在った物。


「……えっと、これが?」


 何でここにあるのか分からなくて。


 そして、何で私に差し出されているのかが分からなくて……


「いや、お前に、プレゼントしたいなと思って」


「――え……」


 予想外の事態に、私は思わず口ごもる。


 ……プレゼント? 私に?


 今まで誕生日はおろか、すぐそこに迫るクリスマスの日にも一切そんなものは渡さなかった父が、私に?


 それに、このワンピースは……偶然? いや、違う。


「……ママに頼まれたの?」


 あの時、母は公衆電話で父と電話していたらしい。その時に……?


「いや……それよりもっと前に……」


「―――えっ……!」


 そう言われてみれば、そのワンピースは確かに新品そのものと言えたが、父の手の、それが入っていた袋は随分と(ほこり)をかぶっている。


 大分前に買った物でなければ、こうはならないはずだ。


 じゃあ、この人は母に言われるまでもなく、自分で買いに行ったと……?


 でも、それなら……


「――じゃ、じゃあ……あの時の電話は何を話して……」


「―――“大丈夫だから。あなたの気持ちを、ちゃんと伝えれば。そして、前に買ったワンピース、自信を持って渡して。そうすれば、また三人で笑い合って暮らせるから”って……」


「―――っ!」


 ……あの、人は、最後の最後まで私たちのことを……本当、おせっかい……なんだから。


「―――ありがとう。……パパ(・・)


「―――っ! ……ああ。どういたしまして」


 私は逃げるように階段を上がり、自分の部屋で、遊びに行くための服に着替え始める。


 そして、受け取ったばかりのそれを着て、再び下に降りる。


「――え……志保。今は、そんなの着たら寒いぞ」


 今度はまた、口をあんぐりとあけて数秒経ってから、そんなことを言った。


「……この時期に、こんなものプレゼントするからだよ」


「いや、だからと行って、今着ろとは……」


「いいの。今日は遊びに行くから。


 走ったりもするから、ちょうどいいよ」


「――風邪ひくだろう?」


「いいの。私がこれを着ていきたいから」


「そ、そうか。なら……仕方がないな」


 そう言われると、父は何も言えなくなったのか――いや嬉しかったのか、複雑な表情で同意してくれた。


「じゃあ……行ってくるね」


「あ……志保。帰ったら、色々話したいことがあるんだ」


「……なに?」


 今訊かれるとは思わなかったのか、父は一瞬顔を強張らせたが、


「そ、そうだな。今度の運動会、絶対行くからな」


「運動会って、もう今年のは終わってるよ?」


「ああ、いや、じゃあ合唱祭とか」


「それも終わってるって」


 苦笑しながら言うと、何というか、父は痔を宣告された二十代男性のような顔になって、


「―――ええ!? そ、それでは、何があるんだ!?」


 何か、本当に残念そうな顔だった。


 先程の例えは不適切かな。


 などと笑いを堪えながら、私はまた助け舟を出す。


「―――来年は、来てくれる?」


「あ、ああ! もちろんだ!」


 握り拳を作って、強く頷いてくれた。


「――ありがとう、パパ。じゃあ、行ってくるね」


 何故か涙が浮かんできて、それを見られたくなくて、私は背中を向けて玄関まで歩く。


「昼には帰るんだぞ? おそかったら、迎えに行くからな」


「う、うん。わかった」


 涙を堪えながら言い、逃げるように家を出た。





 ――彩たちと遊ぶ場所は、いつぞやに行った、あの公園だ。


 あの公園といえば、少年と行った場所でもある。


 そういえば、彼にも謝らなければならない。


 一生かかっても償いきれない程のことをしてしまったけれど……父の言うように、何もしないよりはマシだ。


「――あ……」


 そして、私の家の前に、その少年が立っていた。


 うろうろしながら家の前を行ったり来たりしていたから、どうやらさっきからずっと居たらしい。


「……もう、大丈夫なの?」


 まさか今会えるとは思わなかったから、私も少しぎこちなく話しかける。


「う、うん。全然平気だよ。気にしないで」


 そう言われても、右腕に巻かれている包帯とギプスを見れば、気にせずにはいられない。


「……ホントウに、ごめん」


「い、いいんだよ。そ、それより――志保ちゃんこそ、もう外出られるようになったんだ」


「……うん。心配かけてごめん」


 ……何だか、謝ってばっかりだ。


 よりによって、謝られてばっかだった、こいつに。


「謝らないでいいよ。そんなことより、今日は……志保ちゃんに……話が…………あるんだ」


 台詞の後半から、こいつらしい、しどろもどろな口調になっていた。


 が、今までとはどこか決定的に違う。


 その表情には、何かを覚悟したような、決戦前夜のような強い眼差しが見て取れた。


「……ごめん。もう、出かけないと」


 しかし、今は彩との約束がある。


「で、でも――今言いたいんだ!」


 その力強い言葉は、もういつかのこいつではない。 


「ごめん。もうすぐクラスの子と待ち合わせなの。だから、昼からにしてくれる? その時に、改めて聞くから」


 決して、聞きたくないと思っているわけじゃない。


 ――彼が何を言おうとしているかは、大体察している。


 ……その時、私がどう答えるかも。


 だからこそ、半端な状態では聞きたくない。


 今ある用事を終わらせて、万全の態勢で話を聞く。


 その上できちんと応えたい。そう思った。


「……分かった。でも、絶対だよ? ――僕、ちゃんと言うから。今度こそ、志保ちゃんに伝えるからっ!」


「わかった。約束……ね」


「うん。約束!」


 小指を絡ませる、簡単な誓いの儀式。


「……私も、ちゃんと答えるから―――(まもる)


 小指を繋いだまま、初めて彼をそう呼んだ。


 今こそ、そう呼ぶのに相応しい気がしたから。


「―――あ……! ――う、うんっ!」


 何が嬉しいのか、今までのどの表情よりも耀いて見える、とびきりの笑顔になった。


 それがあまりにも可愛らしいから、小指を離して、その頭をぐしゃぐしゃと撫でてやった。


「……あ……わわ……」

 

 途端に頬を真っ赤にして、俯く。


 ……男子生徒に苛められるのも、違う原因だったりして。


「それじゃ、また後でね」


 あらぬ妄想を振り払い、歩き出して少年に背を向ける。


「―――あ、そうだ志保ちゃん」


 今思い出したというように、背後から声がかかる。


「その寒そうなかっこうは、どうしたの? 罰ゲーム?」


 ……後で一発殴るのも忘れないでおこう。





 ――改めて、本来の目的地へと足を向ける。


 彩との待ち合わせである、あの場所に。


 あれからクラスメイトとは、多少ではあるが、お互い歩み寄れるまでになっていた。


 私が二週間休んだことで、家に電話をしてくるほどに。


 引きこもっていた私に、父がドア越しにそう告げたときは、何かの冗談としか思えなかった。


 それもこれも、母と同じでお節介な学級委員長のおかげだった。


 そのこともあって、午前中は彩に付き合うことにしている。


 それが終わったら、守の話を聞いて、私からも話すつもりだ。


 ―――また登校班で、一緒に学校に行こう。必ず。


 心の中で守にそう言いながら、公園へと急ぐ。





   *





 ――公園に着くやいなや、私は顔をしかめずにはいられない。


 そこにいたのは、クラスの学級委員長である彩と、坊主頭のヤンチャそうな少年。


 いつも教室に入るなり、私にガンを飛ばしてきた、あいつだった。


 彩の仲裁もあって、クラスメイトに歩み寄ることになったので、彼も例外ではない。


 それでも、他の皆よりは抵抗を感じてしまう。


 それはそいつも同様だったようで、「何でこんな奴と」とでも言うかのように、嫌そうな顔をしている。


 私はそんな視線を軽く無視しながら、今日の目的の人物がいないことに気付いて、彩に訊く。


「……例の人は?」


「それが、急に都合が悪くなったらしくて。でもせっかくだから、三人で遊ばない?」


 それじゃ意味がない。


 今日は彩に、しかも恋愛関係のことで相談されて、わざわざここまでやってきたのだ。


 もちろん、自分の恋愛ではなく、彼女の親友の恋愛を取り持つという意味でだが。


 しかも、親友が好きな相手と言うのが、この目の前の坊主頭の、見ているだけで腹が立ってくるような面のこいつだというのだから、世の中不条理なこともあるものだ。


 確か名前を文彦(ふみひこ)と言った、こんな奴のどこがいいのかは分からないが、きっとその彼女にしか見えないような、何かがあるのだろう。多分。


 しかし、当の文彦は、彩にゾッコンだ。


 いつか三角関係にならないことを祈る。


 だが、その彼女がいないのでは、私がここにいる理由は特になくなる。


 文彦も出来れば彩と二人きりになりたいだろうし、適当に遊んでとっとと切り上げることにした。


 しばらく、文彦が提案した、すべり台を使った鬼ごっこに付き合っていた。


 元々こういう遊びは好きではないし、鬼になった文彦は彩ばかりを狙うし、私が快くその場を去ることを簡単にしてくれた。


 彩は残念そうにしていたが、文彦からの猛攻を避けるのに必死でそれどころじゃなくなったらしく、すぐにかけっこのようになった鬼ごっこに集中しだした。


 ……お幸せに。


 彩の親友には悪いが、そんなことを思って、公園から出ようとした、その時―――


「……………………」


「―――――!」


 いつからいたのか、かつて、私と守が一緒に腰を下ろしていた、あのベンチに一人の男が座っていた。


 二十代半ばの、どこか強面のように見える顔。


 膝の辺りが破れてしまっている青いジーパンに、袖の辺りも所々に穴が開いているボロボロの黒いジャンパー姿。


 彼は、さっきまで私がいたところ、つまりは文彦と彩が鬼ごっこをしている場所を、虚ろな目で見ている。



 ……糞ガ。





   *





 ――唐突だが……今の状況を例えるなら、全財産が入っていた財布を無くし、血眼(ちまなこ)になって探したのにも関わらず見つからないのに、それを諦めて十年経ったという時に限って偶然発見してしまう、といった感じかな。


 それも、もし当時に発見していれば、ひもじい思いも惨めな思いもしなかったということと、今は大金持ちになっているので当時の全財産が出てきたとしても、殆ど意味を成さないという設定付で。


 ……まあ、結局何が言いたいのかというと、“今更”ということだ。


「………………」


 私の目の前では、二十代半ばぐらいの若い男がベンチに座り、正面を見ている。


 といっても、私は男から見た左斜め前方にいるので、彼の目に私は映っていない。


 しかし、彼との距離は二メートルちょっとしかない。


 さらには彼が見ている方向から歩いてきたので、私のことは気付いている筈だ。


 なのに何故か見向きもせず、先程まで私がいた所をぼんやりと眺めている。


 ……ホント、今更。


 葛藤があったが、これじゃ最後の手段(・・・・・)に出てしまうじゃないか。


 躊躇(ためら)いがちに、私は話しかける。


「――ねえ、おにいさん」


「……何か用かお嬢ちゃん」


 やっぱり一応気付いていたらしい。


 私は男の状態と状況を推測して、


「お兄さん……寂しいの?」


「―――っ!?」


 グリン! という効果音が聞こえるぐらいに、凄いスピードで首をこちらに向けた。


 ……分かりやすい人だ。


 男は、妙に私をマジマジ見て、続いて私が着ているワンピースに目をやった。


 ……まあ、この時期にこれは変だと自分でも思うけどさ。


「やっぱり寂しいのね」


「……だったら、何なんだ?」


 平静をよそおおうとしているようだが、声が震えている。


「だったら、私と同じだね」


 ……嘘ではない。


 父とのことが何とかなりそうとはいえ、母がいないことは事実だ。


 そして、二度と帰ってはこないということも……


 そう思うと、顔が沈んでいくのが自分でも分かった。


 今、私はどんな顔をしているのか……自分では分からないが、男には見えていたようで……


「何でだよ? さっきもあの子たちと仲良く遊んでいただろ?」


 いたたまれなくなったのか、そんなことを訊いてきた。


「形だけだよ。きっと、あの子たちは私に同情しているだけ」


 それも多分、嘘ではない。


 クラスメイトたちと多少なりとも打ち解けたのは、彩がそうするように計らってくれたのは、私の境遇に同情した分が大きいだろう。


 そのことで彩を嫌いになったりはしないし、むしろそれでも感謝したいぐらいだが、どこか一歩線を引いた関係になるのは避けられないだろう。


 ――だから……


「どこか、連れて行ってくれない?」


「…………は?」


 ぽかんと口を開けたまま固まる。


 無理もない。


 初対面で何を言い出すんだ、とでも思っているだろう。


 それでも……


「どこか、連れて行って欲しい。お互い寂しい者同士、一緒にいれば寂しくないと思わない?」


「………………」


 ……おいおい、悩んじゃってるよ。


 いかに相手が幼い女の子でもこんな誘いをしてくるなんて、怪しい奴以外の何者でもないだろうに。


 これで断ってくれれば、それで済んだかもしれないのに……


「……うう……」


 とてつもなく迷っているようだった。


 仕方がない。決心するためのスイッチを押してやるか。


「そろそろお昼ご飯だから、パパが来るの。だから、あまり時間はないよ?」


 これもまた、出掛ける前に父が言っていたことだ。


 本当に来るとは思えないけど……


「――あ、来た!」


 ……人は、変わろうと思えば、変われるものなのかもしれない。


 それとも、元々ああいう人だったのか。


 兎にも角にも、父は、すでに公園の入り口まで入って来ている。


 それを男も確認したことを認めて、


「もう時間ないよ。お兄さん。お願い!」


 必死にその手を取って頼み込んでみると、


「―――くっ!」


 ついに男は、私の手を握り返して、公園の裏口へ走り出した。


 ……私は、後ろを見なかった。


 見たら、きっと引き返してしまうから。


 でも―――数秒の間があってから、


「――待てえええええええええええええ! 娘に何をするんだあああああああああああああああああああ!!」


 と、もの凄い叫び声が聞こえて、思わず立ち止まりそうになったが、唇を噛んで首を振る。


 裏手から一周して、男の物らしき車の運転席に彼が乗り込み、半秒ほど躊躇(ちゅうちょ)しつつも助手席に乗り込んだ。





 ――さようなら、パパ。


 そして、守。


 約束、守れそうに、ない。


 ……約束っていうのは、破るためにもあるんだよ。


 ある特定の、最低の奴にとっては。


 だから――ごめんなさい。二人とも。


 ……これが最後の、手段だから。







   *3







「――えっと、ここから腕を通して……次は……」


 わたしの右腕を掴んで袖を通させ、今度は前に回って胸元のボタンを止めてくれた。


「はい。終わったよ」


「……うん」


 多分、私より少しだけ年上の男の人。


 その人は、自分の服が破られ、口での説明が無理と判断したのか、直接わたしに上着を当てて着せてくれた。


 ふと彼はわたしの手をとって、傷だらけの手の甲の上に、自分の手の平を乗せた。


 今にも泣き出しそうな表情で、もう一方の手も乗せて握り締めた。


「……あったかい…………ね」


 わたしは握り合ったその手を、自分の頬にくっつけた。


 彼の温もりに、優しさに触れて、それをもっと感じていたくなった。


「――そ、そうでしょ? そのジャケットは薄いんだけど、素材がいいから暖かいんだ」


「うん。それもあるけど……」


 でも、わたしが言いたいことは―――


「あなたの手―――あったかい……」


「…………え?」


「…………ありが……とう」


 何年ぶりかの、感謝の意と、人に向かって、笑いかけるという行為。


 すると、彼は何を思ったか、ぽかんと口を開けたまま、信じられないとでも言いたげな顔で固まっていた。


「どうか……した?」


「おわあっ!」


 ―――ゴスッ!


「―――はうっ!」


 身を乗り出しながら訊いてみると、いつぞやみたく、凄い勢いで後ろに下がるものだから頭を扉にぶつけた。


 すると、お尻を上に向けたまま頭を床にくっつけるという、奇妙な姿勢をとりながら頭を抑えた。


 なんとなく、昔見た、触ると丸くなる虫を思い出して、


「……ぷっ! アハハっ……!」


 笑うところではなかったんだろうけど、つい笑ってしまった。


 ……こんなに笑ったのも、本当に久しぶりだ。


「本当に……ありがとう。でも―――どうしてわたしにそこまでしてくれるの?」


 ほんの数日前に会ったばかりで、一緒にいると危険だと分かっていながら、どうして三日もわたしと過ごしてくれたのか。


 それをどうしても、知りたかった。


「そ、それは……その……」


 俯きながら、しどろもどろになりながら、そして、顔を上げて、真っ直ぐわたしの目を見ながら、再び口を開く。


「…………僕は…………君が………………」


 ―――ガチャ……


「―――――――――っ!?」


 扉の鍵を開ける音……?


 ……この部屋に入ってこれる者は、目の前にいるこの人を除けば、一人しかいない!


 今の時間は……午後六時十二分? そんな――いつもより一時間近く早い!!


「―――逃げて!!」


 この人だけは……わたしがどうなろうと、この人だけは何としてでも……!


 でも、こんなときなのに、彼は首を横に振った。


「―――僕が、君を――――――守る!!」






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