月の満ち欠け、而して発狂、後の安穏
気が、狂いそうだった。
或いはもう既に狂っていたのかもしれない。
昼も夜も深い海霧に覆われた船の上から、月を見上げたのは久しぶりのことだった。
白く美しい姿を、ゆっくりと、ゆっくりと変えていく女神。
それがいけなかった。
月の満ち欠けによって時を数えることが出来ると、あの男は言った。
私は愚かにもその誘いに乗ってしまった。
彼が、あまりにもしつこくやって来るものだから、その頻繁さを証明してやろうと、そう思ったのだ。
けれども月を待つ一日は予想以上に長く、月が欠ける日々は遅く、一度消えた月が再び丸く戻るには更に気が遠くなるような時間を要した。月を見上げるまではすっかり忘れていた時の流れを、私は思い出してしまった。独り洋上に浮かぶ時間が、ただ只管に空虚であると気付いてしまった。
月など見なければ良かったと、再びそれを霧で覆い隠そうとも思った。思った。思ったのだ。
……しかし、一度気付いてしまった事柄を忘れることは出来なかった。霧に覆われ、あの日からずっと止まっていた私の時間が、動き出してしまった。月が空に上る気配を感じて、そちらを見ずにはいられなくなった。その変化がいかに小さくとも見逃すことが出来なくなった。私の中で長年固定されていた何かが、坂を転がり始めた。
私は、一体どれぐらいの間、独りで居たのだろうか? あの、皆とともに逝けなかった日から、独り取り残されてしまった日から、どれぐらいの時が経ったのだろうか? 外から来た人々はガウディウム号を幽霊船と呼び、私を亡霊と恐れる。私の中では家族と暮らした日々も、置いて行かれたあの日も、まだ昨日のことのように鮮明なのに。数百年が経っていると聞かされても、実感など何一つなかった。ただ粛々と死を求め、目覚めては落胆する日々を送っていた。だから百年経とうが二百年経とうが、死ねないという事実があるだけで、それ以上の感覚はなかったのだ。
それなのに。
それなのに。
それなのにッ!
時が、動き出してしまった。私の中で、それまでは平気であった事柄が! この身を引き裂く刃となって現れた!
月明かりに照らされ、影が影として浮かび上がってくる。目を逸らしていた時間が。霧が覆い隠してくれていた事実が。オ前ハズット独リダッタノダ、と残酷な現実を突きつけてくる。
なぜ。どうして。なぜ。私は、私は幸せな一生を終えたかっただけなのにッ!
いっそこの苦しみが、私の胸を貫き命を奪ってくれるのなら構わない。それで死ぬことが出来るなら。出来るなら。今からでも遅くはない。これが父の、母の、妻の期待に応えられなかった不出来な私に対する罰だと思い、受け入れよう。これで許され、天へと昇れるのであれば。死にたい。死なせて欲しい。私に降り注ぐ月光がこの身を一欠けらも残さずに焼いてくれるのなら、私は自らそこに立とう。
私は、一刻も早く死にたいのだ。
あの日から、あの日を思い描いたときから、ずっと、ずっと……。
嗚呼、そうだ。
そうだ。
そうなのだ。
私はあの日、あの時にずっと心を残したままだったからこそ、霧の外で何百年という歳月が流れても、それを感じずにいられた。
私はあの日、死に損ねた。
だから、それをやり直すために、何度も何度もあの日を繰り返していた。
訪れる船は違えど、船乗りの顔ぶれは違えど、皆でハッピーエンドを迎えようと。ただそれだけに懸命だった。後に残され、悲しむ人がいないように、全員で終わりを迎えたかった。それが、それが一番幸せなことだから。
嗚呼、それなのに。些細な怪我で流れていた赤い血が、いつの間にか濁った海水に変わっていただなんて、一体どうして気付くことができようか。
***
月明りが、私を照らし出す。
救いなどない。
光の雨は静かに私を責めるだけで、死に導いてはくれない。
丸い姿が半分になり、隠れ、また半身を現し、丸く戻る。
女神が一周巡る様子を眺めているだけでも気が狂いそうだった。
霧の中には誰もいない。
静寂。
事の発端である彼さえも、現れる気配がない。
私は発狂しそうになるのを堪えながら、乱暴に腹を切り裂くしかなかった。首を掻き斬るしか。喉に剣を突き立てるしか。嗚呼、嗚呼、そう、それしかなかったのだ。
どこへ行くことも出来ない船の上で、深い霧に包まれながら。私は私の死を願ってこの身を傷つけた。例えそれが瞬く間になかったこととなり、一睡の後に目覚めてしまうと分かっていても。もはや痛みを以て自我を保つしか方法がなかった。自分の願いを、覚えておくために。一途に願いへ邁進するしかなかった。
私は、ハッピーエンドが欲しかったのだ。
愛する人たちを悲しませたいわけでも、怖がらせたいわけでもなかった。ただ御伽噺のように【幸せでした】とくくれるような最期が欲しかった。幸せを通り過ぎて、失望されて、独り寂しく死ぬような最期は嫌だった。
だから、一番幸せな瞬間に、皆で、幸福な最期を迎えようとッ!
誰の耳にも届かないまま慟哭が消えていく。
喉が枯れるまで泣いたところで誰も助けてはくれない。
私は一番幸せな時間を逃してしまった。あの、輝いていた日々で人生を締めくくることが出来なかった。
白い月明りによってどこまでも影が伸び、私の果てしない転落を仄めかす。
これはすべて私の罪なのだろうか?
周囲からの期待と向き合わず、逃げようとした罰なのだろうか?
私が間違って? 私の選択が? 私の、私が不出来なために? なにを、どうすれば? どうすれば幸せな最期に辿り着けた? 私はどうすれば良かった? 誰も答えてくれない。返事はない。誰もいない。私しかいない。あの日、ともに沈んだはずなのに。私だけが、私だけが取り残されてしまった。どうして。どうして。どうして!
返事が欲しい。私はどうすれば? 何もかも忘れ、あの日を繰り返すだけなら、私は延々とそうすることが出来た。出来ていた。それなのに、あの男が、私に五感を認めさせ、人を想わせ、時間すら思い出させてしまった。
死ねない苦しみが、以前とは比べものにならない強さで私を襲ってくる。落胆なんて程度ではない。失望、絶望。私はいつ訪れるか分からない、訪れるかすら分からない死を願い、独り海を漂う他なくなった……。
***
瞼の向こうから差し込む白い明かりが私を目覚めさせる。
つい先ほどまでぐちゃぐちゃに飛び散っていたはずの腸が、元の位置に戻っている。
私は死に損なった名残の、水浸しの甲板で身を起こした。今夜も月が煌々と照っている。私に影を落とすために。私の行いを咎めるために。私の愚かさを嘲笑うために。
私は今日も死ねないでいる。
時の流れなど、数えなければ良かった。
そうすれば、まだ、あの日を繰り返すことが出来た。
だが。もう遅いのだ。
月を見上げてしまった今、もはや戻ることは出来ない。
声も涙も涸れ果てたのに。傷口から溢れる澱んだ水は尽きることがない。
私は誰もいない甲板で喉を切り裂いた。裂けた喉が元に戻れば、今度は胸を貫いた。胸が駄目なら腹を、腹が駄目なら喉を。終わらない自傷を繰り返し、ちっとも変わらない月の光に照らされる。心も体も傷みに傷んで、最早どこを切っているのか分からない。傷口から出てくる海水だけが、そこが切れたのだと主張する。
死が、限界が、終わりが欲しかった。
誰でも良いから終わらせて欲しかった。
私のような者に、幸せな最期は不釣り合いなのだと、そう言うのであれば、もう、それでも良かった。惨めでも、悲惨でも、何でも良い。ただ、二度と目覚めない、続きのない明日が欲しかった。
私は祈るように剣を突き立てる。
きっと、高望みだったのだ。私のような人間が、幸せな一生を願うなど。身の程を知らない願いが、私から死を遠ざけたのだ。
聖なる光に照らされて、カトラスの先端が喉から私の中へと入ってくる。
嗚呼、嗚呼、どうか、安らかな死を。
私は今一度そう願って目を閉じた。
静かな波音が一層遠のき、五感が薄れ、僅かな死の気配を手繰り寄せるように、剣を、背中側まで突き通した。
***
星の明るい夜だった。
甲板で一杯やりながら、玉霊は久しぶりに会う友の顔を思い出していた。
友とは、霧の海域に住むサルヴァトーレ伯爵だ。端正な顔立ちで、手足が長く、綺麗な銅色の髪をリボンで結んでいる。彼は何百年も前に一族を皆殺し、自らも海に沈んだ人物だった。それが、どうして今も生きているのかは分からない。生きている、と言っても最早その中身は腐った海水で、人間とは言い難い。斬られようが撃たれようが、忽ち傷口が塞がる、いわゆる不死者だった。
伯爵は一定の海域を、霧に包まれた状態で彷徨っている。世界との繋がりを絶つように、すべてを白く覆った中に居る。不運な船が迷い込むことはあれど、彼がそこから出てきたことはない。だから玉霊は手頃な船に乗ってはその針路を狂わせ、彼の海へ会いにいっていた。向こうが出てきてくれないので、それしか手がなかったのだ。
手間かどうかと聞かれれば、だいぶ手間だった。
けれども玉霊はその手間を惜しまず、何度も顔を見に行っていた。
なにせ初めての同類である。
不死の宝玉として千年を生きた玉霊が、初めて見つけた自分以外の不死者が、霧の伯爵だったのだ。だから相手がどれだけ外からの情報を嫌い、自分を出迎えてはくれないと分かっていても、彼は同じ不死の存在を喜ばずにはいられなかった。
悪鬼に巣喰われた憐れな船が、正しい航路を外れていく。
このまま風が出ていれば、明日の昼頃には伯爵の海域に着くだろうと、玉霊はそうほくそ笑んでいた。きっと、彼はまた暗澹たる面持ちでこちらを見てくるのだろう。本当に機嫌が悪くて、酒の相手を断られるかもしれない。或いは自分の船に引き籠もって、出てこないかもしれない。だが、玉霊にとってはどれも些細なことだった。嫌がるのも、引き籠もるのも、別に構わない。彼の自由だ。ただ彼が不死者としてそこに居てさえくれれば、それで良かった。彼が居さえすれば、剣で床に刺し留めて酒の相手をさせることも、船の中を滅茶苦茶に壊して彼を引きずり出すことも出来る。
重要なのは、彼がそこに居るということ。不死の仲間がこの世に存在するということ。
玉霊は友に会える明日を楽しみに、そろそろ寝床へ行こうとした。
そのときである。
俄に霧が立ちこめて、あっという間に船を覆った。さっきまで見えていた星が消え、ただ一点、丸い月だけが取り残されている。
見張り台にいた水夫は勿論、玉霊もこんな位置で霧が出たことに驚きを隠せなかった。伯爵の所へはまだ半日の距離があるはずだった。それが、こんなにも早く霧が出るなんて、彼自身、思ってもみなかった。
船が騒がしくなり人々が慌て出す。
その喧騒を背中に、玉霊は欄干から身を乗り出して海を見つめた。
一体どういう風の吹き回しだろう? 予定よりも早く霧が出たということは、伯爵が自らこちらへ来たということである。玉霊は友がやっと自分を出迎えてくれる気になったのかと期待する反面、霧の冷たさにぞわりとしたものを感じていた。
ずしん、と唐突に船が揺れる。
霧が突然形を持ったかのように船が現れる。漕ぎ手のいないガレー船、ガウディウム号。
玉霊は転落しそうになるのを堪えながら、その甲板に赤いコートを見た。
「あ! ……………えっ?」
霧の向こうに目的の姿を見つけ、直ぐに声を掛けようとした。けれどもその視界が不意にぶれ、ふわりと宙を舞う。世界がぐるりと回り、ドッと強い衝撃を受けて甲板に落ちる。一体、何が起きたのか? 玉霊は気分が悪くなり顔に手を当てようとしたところで、動かせる腕がないことに気が付いた。頭と体が切り離されていたのだ。本体である宝玉は左目に填まっているので、首で切り離されてしまうと体は動かせない。
甲板のどこからか悲鳴が上がって、これが友の仕業だと分かった。
こんな酷い仕打ちは初めてだった。
揺れる船の上、丸い頭部を海へ落とさないよう気を付けながら、首の切り口まで転がっていく。途切れた神経を繋ぎ直し、何とか五体を取り戻す。けれども起き上がってみれば体の方も滅多斬りの状態で、あちこちから膿が流れ出ていた。
「なんってことを! これじゃあ病死体に取り憑いた方がマシじゃないですか! 挨拶もなしに斬りかかってくるなんて、彼らしくない。あんなに機嫌が悪いのは初めてですね…。何かあったのでしょうか?」
玉霊はボロ布になった体を修復しながら愚痴を吐いた。
伯爵が船乗りを殺すのはいつものことだった。いつだって彼は、彼なりの【ハッピーエンド】とやらを求め、出会った船乗りを殺し、自らも命を絶っていた。玉霊自身、初めて出会ったときには胸を貫かれた。だが、そう、その方法は胸を一突きだった。彼は人々が苦しまないように、いつも一瞬でその命を奪っていた。だから大量の血が飛び散ったり、生き残って藻掻いたりすることはなかった。
しかしこのときに玉霊が見た甲板は、まさに地獄だった。
帆を操っていた水夫も、命令を伝達していた水夫も、体中を滅多に斬りつけられ苦しんでいた。もちろん既に息絶えた者もいる。だがそれも大きな血だまりに浮く島で、まだ息がある者に恐怖を植え付けていた。更に船内からは命乞いと悲鳴が響き、生暖かい死臭が漂ってくる有様だ。凄惨な光景とはこういう様子を指すのだろう。
玉霊は転がる肉を腹の足しにしながら船の中へ入っていった。
「これは、これは………」
質素だった船内は派手に様変わりをしていた。
たっぷりの血だまりと、そこから流れ出た血の筋と、血のついた手や足でつけられた痕。
まるで屠殺場である。
ただし食べられるべき肉片は床に転がっていた。
伯爵が初めて見せた一面に、玉霊は自然と口角が吊り上がった。今までなら、機嫌が悪いと言ってもここまでの惨状を生み出すことはなかった。人を殺めてはいたが、伯爵はあくまで心優しい人間だった。少なくとも前回まではそうだった。
それが、こんなにも残酷な殺しをするなんて!
玉霊は危うく本体が海に落ちかけたことも忘れ、足早に現場へと向かった。
最下層への階段を下りたところで、ちょうど最後の水夫が努力虚しく息絶えた。首から吹き出た血潮が低い天井に跳ね、金紗のような伯爵の髪をべっとりと濡らす。玉霊が息をひそめて見守る中、伯爵はいつものように己へ剣を突き立てた。
ぶしゃり、と海水が噴き出す。
今日はその程度では物足りないのか、再びぶしゅりと剣が突き刺さる。
自らの体さえもずたずたに斬りつけながら、伯爵は呻きのたうち回っていた。
「あ、ああ、あああッ! 死にたい! 死にたい! 私も皆とともにッ! うっ、うう、嫌だ、嫌だ、もう、独りは……。いや…。次を、待つなんて……嫌だ、もう、終わりたい…。どうして、どうして私だけが? 皆死んだ。皆死ねた。私だって、死にたいのに! 私だけが、また、残されて……独り…独りきりで………ああ、いや、嫌だ、終わりが、終わりが欲しい。それなのに。う、ううっ……、許して…もう、許して………。私も、もう、海に、沈みたい……、私も、皆と一緒に、逝きたい、逝きたい、逝きたいッ」
斬りつけた腹から、首から、体から、腐った海水が噴き出しそれが瞬く間に塞がっていく。伯爵は致死の痛みに意識を飛ばすことさえなく、只管に己を刻んでいた。
だが肝心の願いにはまるで届く様子がない。
大量の水が血を薄め、床を揺らしていくばかりである。
哀れな嗚咽が部屋に響いていた。
『嗚呼、何て素敵な!』
そんな伯爵の強い感情を目の前に、玉霊は歓声が上がりそうになるのを両手で押さえ堪えた。せっかく見られた彼の内面を邪魔したくなかった。可哀想ではあるが、きっと彼は死なない。どれだけ五体が散り散りになろうとも死にはしない。彼が不死になった理由は分からないが、同じ不死の身を持つ存在として、彼が今ここで死を得られるとは思えなかった。
だから、だからこのまま好きにさせて、そうしてどうなるのか興味があった。
また今までのように眠ってしまうのだろうか?
それともこちらに気付き、再び襲ってくるのだろうか?
或いはもっと別の行動に出るのだろうか?
玉霊は冷えた死体の体が熱く滾るのを感じながら、伯爵の一挙一動を鑑賞した。強い、しかし行き場のない感情が荒れ狂う様を堪能した。この船の水夫たちが、こんなにも強い衝動によって殺されたのかと思うと、些か羨ましくもあった。
『嗚呼、嗚呼……、普段の彼からは想像もつかない、こんな、こんな姿!』
死に得た大勢の水夫と、その欠片すら掴めない自分を比べ嘆き狂う伯爵は、剣を散々に振り回し当たり散らし始めた。木箱が割れ、ランプが落ち、床や壁に傷が入る。細かな傷がやがて亀裂となって、船内にじわじわと本物の海水が染み出す。それは伯爵が暴れる度に大きくなり、玉霊が陶酔しきっている間にバキッと嫌な音を立てた。
割れた壁の隙間から海水がどっと雪崩れ込む。伯爵はそれをまともにくらい、反対側の壁と水圧に挟まれ気を失った。
そこまで至って漸く玉霊も我に返り、脹脛に迫った海水に慌て出す。彼は動かなくなった伯爵を引っ掴み、急いで上を目指した。
「まずい、まずい! こっから泳いで帰るなんて御免ですよ! 船の中だって言うのにやりすぎ……ああっ、でも最高! まったく何ておもしろい人なんだか!」
揺れが激しくなる中、玉霊は何とか外に出て、隣に佇むガレー船に伯爵を投げ込んだ。それから欲深くも船内に戻り、酒樽と転がっていた肉を確保した。
遂に商船の甲板がガレー船よりも低くなり、荒波をともなって沈んでいく。轟轟と渦が発生し、荷物も、人も、船本体も暗い海に消えていく。その痕跡を覆い隠すように霧が流れ込み、しばらくすると辺りは元の静けさを取り戻していた。
***
潮の香りに混ざって、どこからか甘い匂いがする。海の上では決して嗅ぐことのない、陸の花の匂いだ。心を優しく包み込む、天国の香りだ。
伯爵はその香りに誘われてふっと目が覚めた。
夜である。
濃い霧に覆われた空の中、月の周りだけがぽっかりと穴を空けている。
清らかな光がきらきらと降り注ぎ、海霧に浮かぶ船の甲板を照らしていた。
「ア―――」
月を見上げた伯爵は、それが幾晩も、幾晩も眺めてきた、あの月と同じであると気が付いた。
そしてそれが頭上に在ると言うことは、自身もまた、まだ世界に在ると言うことに。
伯爵は絶望の光を全身に浴び、力なく膝をついて涙を流した。
「ア、アア……ア、………」
弱々しい嗚咽が零れ出る。悲しさも、羨ましさも、何一つ言葉に成らず、ぐずぐずに崩れて落ちていく。否、言葉になったところで、誰に伝わることもない。この海霧の中を彷徨う者は伯爵しかおらず、ここを訪れる者もいないのだ。だからこの嘆きがどれほど強く長く続こうとも、誰にも届くことはない。
すべてが霧に隠され消えていく。
また独り、海の上に取り残される。
伯爵は希望を掴めなかった両の手で失意の顔を覆った。
そこへふわりと花の香りが近付く。
「ねえ、トトー。ちょっと泣いているところ悪いのですが、ワタシの頼みを聞いてくれません?」
「………えっ?」
伯爵はまさかと思いながらも振り向いた。その視線の先に、何の悪びれた様子もない悪鬼が映る。涙と嗚咽は一瞬で止まった。代わりに目の玉が真ん丸に見開かれ、理解の追い付かない脳が口をぱくつかせた。
「な、なん、で……?」
やっと絞り出した片言が辛うじて要点を伝える。
すると悪鬼はやはり悪気無く、にこにこと笑みを浮かべて言った。
「何でって、貴方、気絶する前のことを覚えていないんですか? あんなに激しくワタシの首を刎ねたくせに…。それに水夫たちだって、いつのも比じゃないぐらい斬り刻んでいましたよ。貴方が死を渇望して荒れ狂う姿、ふふ、今思い出してもぞくぞくします。やはり剥きだしの感情と言うのは、見ていて気持ちが良いものですね! …ああ、それで、素敵な貴方を見られたところまでは良かったのですが、あんまりにも激しすぎて、ワタシの乗って来た船が沈んでしまったのですよ! だから帰る足がなくてですね。出来ればこの船で、沖が見える所まで連れて行って欲しいのですが。お願いできますか?」
「首? 船? ………違う、そうではなくて! 貴方ッ、よくも、よくも私に月を見ろなどとッ! 貴方が月日の数え方を教えたくせにっ、どうして、どうして今まで現れなかったのですか! 貴方のせいで、私がどれほどの思いをしたと? 月など見たくなかった! 月日の経過など知りたくなかった! それなのに貴方が! 貴方がッ!」
「痛っ! ちょっ、は? 貴方、もしかして寂しさが募って、ああなっていたのですか?」
「え? ……エッ? さ、さみし、さ…?」
今頃になって現れた憎たらしい顔を、伯爵は思わず平手で打っていた。ぶたれた衝撃で玉霊が尻餅をつくと、そこへ追い打ちをかけるように跨がり再び手を振り上げた。いつも余計な事ばかり吹き込んでくる男の顔へ、もう一発喰らわせるつもりだった。
けれどもその手は途中で戦意を失い足元に落ちた。
寂しさ、という久しく聞かなかった単語が伯爵の中で反芻される。
「………何ですか、それは。さみしさ? 寂しい? 私が? 違う。私は、私はただ死にたくて。最期が、ハッピーエンドが欲しくて。皆のところへ逝きたくて。それなのに、貴方が月日を思い出させたから! そのせいで、死ねない日を数えることになってしまった! 生きていることが、今までより一層苦しくなってしまった……。私は、私はもう取り残されたくないのに、皆のところへ逝きたいのに。また死ねなかった…。もう、独りで居るのは嫌なのに。これ以上、月を眺めて生を数えるなんて、独り彷徨うなんて、もう、もう、いや、嗚呼、いや、いやッ!」
一旦は止まっていた感情の波が、再び伯爵の眼からぼろぼろと零れ出した。琥珀のような瞳から、真珠のような雫が落ちていく。か弱い指先が縋りどころを求めて憎らしいはずの服をも掻き掴む。
その無垢な涙を間近に見た玉霊は、今度こそ何の躊躇いもなく歓声を上げた。
「ハハッ、独りで居たくない! 孤独に耐えきれない! その感情を寂しさと言わず何と表しましょうッ? それこそが寂寥、寂寞、うら寂しいというものです! 流れる月日を認識したことで、貴方の中に寂しさが芽生えたのですね! 嗚呼、貴方は、まったく、本当に、何て純粋で美しい! そうですか、そうでしたか! それなら此処にいた数か月、だいぶ寂しい思いをさせましたね。申し訳ありません。でも、ふふ、もう大丈夫ですよ。独りが嫌なら、ふ、寂しいと言うのなら、ふふ、このままワタシと共に陸へ上がれば良いのです。ふふふ、一緒に世界を見て回ろうではないですか。愉しもうではないですか! 嗚呼、やっと貴方と旅が出来ますね。ふ、ふふふ、ふふふふふ。…失礼、ワタシ、嬉しくって笑いが止まりません!」
玉霊は恰好の獲物を見つけた獣のように眼を大きく開き、口元をニイッと吊り上げた。言葉の端々に笑い声が混ざり、その喜びようが嫌と言うほど伝わってくる。黒い手袋が伯爵の頬を掴み、親指の先で涙を拭った。
至極上機嫌な悪鬼を前に、伯爵の思考が停止する。
何を言われたのか理解しようにも、なかなか上手く解することが出来なかった。
「………な、え、私が、陸に? 貴方と? そんな、……いいえ、いいえ、私が陸へなど…」
「ふふふ。そうです、陸へ上がるのです。貴方はもう、ワタシと共に行くしかないのです。然もなければこの洋上で再び一人きり。孤独に気が狂い、寂寥を叫び続けることになるでしょう。それで死ねるだなんて思わない方が良いですよ。世界が残酷なとき、それはどこまでも続いています。世界を変えるには、自分が動くしかないのです。だから今の貴方には、ワタシと行く他ないのです。もう独りで月を見上げるのは嫌なのでしょう? もう独りで海を彷徨うのは嫌なのでしょう? それならワタシと共に世界を回ろうじゃないですか。それなら独りにはならないし、楽しいことにも、美味しいものにも出会えます。選択の余地はないのですよ。貴方はワタシと行くしかない。ふふふ、嗚呼、楽しみでなりませんねえ!」
「…そんな……、そんな…」
高らかに笑う悪鬼を前に伯爵は為す術もなかった。
海霧に囚われた自分が陸へ上がれるはずがないと思う一方で、握りしめた玉霊の袖を手放すことが出来なかった。どうすれば良いのか分からない。何が正しいのか分からない。解き方の分からない問題に頭の中が真っ白になっていく。伯爵は呼吸すら、視線を動かすことすらままならなくなり、半ば混乱に陥りながらぎゅっと手に力を込めた。
こんな状況から抜け出せるものなら、もっと早くに成し遂げただろう。でも、どうしたって、どう足掻いたって出来なかったのだ。何度胸を貫いても、何度海に沈んでも、決まって霧に包まれた船の上、独り甲板で目が覚めた。今までずっとずっと出来なかったのだ。今更、他人に出来ると励まされたところで、そう思い直せるほど簡単な話ではなかった。ずっとずっとずっと成し得なかった事柄を、そうすんなりと信じられようもなかった。
この深い霧の外に、自分の行ける世界があると信じることが出来なかった。
「…私は、わたし、は………」
蜜色の瞳がまた潤みだし、呼吸が浅くなる。
そのどこまでも純粋で愚直な心に、悪鬼はべろりと舌なめずりをした。
「貴方の願いを言いなさい。出来るか出来ないかなど、どうでも良いのです。信じるも信じないも、好きにすれば良い。これはワタシの気まぐれ。道楽の一種。貴方がここを出たいと言うのなら、ワタシがそれを叶えましょう。独りでここに残りたいのか、それとも霧の外に出たいのか。心のままに答えなさい。貴方がここで終わらない一生を過ごすのか、それともワタシの遊び相手となって世界へ出向くのか。……答えないのなら前者と取って、ワタシはここを去りますよ」
伯爵を試すかのように、玉霊は言葉を畳みかけた。頬を掴んでいた手が一瞬だけ強まり、すっと抜けていく。
その指先が離れていく感覚に伯爵は慌て、形振り構わずに縋りついた。
「待って! 待ッて!行きます! 行きます! 私も行きます! 私もッ……嗚呼、どこでも構いません! どこへでも行きますから、私を独りにしないで下さいっ。…ついて行きます。ついて行きますから、私を置いて行かないと約束してください……」
「……ふ、ふふ。良いですよ。それでは話もまとまりましたし、陸へ向けて出発しましょうか。ふふふふふ…」
***
漕ぎ手のいないガレー船が独りでに走っていく。
玉霊の助言に従って、伯爵が星を見たいと願うと空が晴れた。陸へ向かいたいと思うと船が動き出した。
霧は相変わらず船の周りを漂っている。けれどもそれも僅かなもので、視界を強く遮ることはない。
満月の周りに散らばる無数の輝きを見上げながら、伯爵は美しい世界が意外なほど近くにあったのだと気付かされた。ゆっくりと変化していく空の様子も、心穏やかに見られるのだと気が付いた。何より独りではない安心感を、隣の男に感じていた。
適当に進みだした船が、本当に陸まで辿り着くのかは分からない。少なくとも、持ち主である伯爵はまだそれを信じることが出来ていない。しかし玉霊は「いつか着く」と言い切った。だから伯爵はそれを信じ、適当なまま進むことにした。
月が見え、星が見え、霧が薄まったのだから、そのうち陸にも着くかもしれない。
ここには時間が掛かって困る人間は誰もいない。ひと月でもふた月でも、何年かかっても死ぬようなことはない。伯爵は濁った海水で体が満たされた不死者であるし、玉霊は宝玉を本体とした死体を操る不死者である。天と地が消えない限り、彼らが消えることはない。話相手がいるのなら、寂しさで心が乱れることもない。
二人の不死者は夜空を眺めながら、初めての船旅を楽しんでいた。
END 2019/3/13