21.スローライフの始まり
「……なよ!」
レオンは、暗闇の中で遠くから誰かが呼びかけている気がした。
「……きな!」
パンパンと音がすると同時に、左頬に痛みを感じる。
『……誰だ? なんだか、痛いんだが』
「起きなってば!」
体が大きく揺すられた。まだ眠っていたいのに、強制的に起こされて目が開いた。
「おっと、気がついたね! ほら、水! 飲みな!」
唇に何かが押し当てられ、顎に向かって冷たい物が流れていく。
『水だ』
唇に押し当てられたのが水筒だと分かると、吸い付くようにして夢中で水を飲んだ。
「ゲホッ! ……あ、ありがとう」
勢いよく飲んだため、むせかえる。すると、左から丸顔で青髪金眼の女性が覗き込んできた。
「生き返っただろ!?」
女性は満面に笑みを浮かべて目を細める。耳元で大声を出されるので、鼓膜が痛いレオンは、今度は右から丸顔で青髪金眼の老婆に覗き込まれた。二人がどことなく似ている顔なので、親子かも知れないと思っていると、
「どうしたんだい、こんなところで倒れていて?」
老婆は優しい声で問いかけた。
「しかも、素っ裸だし! 追い剥ぎに遭ったのかい!?」
大声の女性は、心配していると言うより愉快そうに話しかけるので、レオンはちょっとムッとする。
「追い剥ぎ……って言うか……山賊に……身ぐるみ剥がされて……」
「そうかい! それはひどい目に遭ったね!」
「何も……食べてないんだ。すまんが……恵んでくれないだろうか?」
「いいよ! うちに来な! 服は父ちゃんのを貸してあげる!」
「かたじけない」
レオンは、老婆と大声の女性に両脇を支えられて立ち上がり、ゆっくりと歩いた。道には長い耳が垂れた小型の馬――ウサギ馬が引く荷車があり、荷台に緑のロングヘアで金色の双眸を輝かせる女の子が座っていた。最初にお迎えに来た天使かと思えた子は、この子だったのだろう。見た感じでは、自分より背が低く、下の年齢に見える。
レオンは荷車の上で仰向けに倒れたが、すぐ右隣に座っている女の子の視線が臍の下へ向かっていることに気づき、両手で股間を隠した。
老婆が「よいこらしょ」と荷台に上がって腰掛けると、レオンの頭の上の方から「行くよ!」と女性の大声がして、荷車が動き出した。おそらく、彼女は荷車の台に座って馬の手綱を引いているのだろう。
「ちょうど野菜を売りに行った後で、荷台が空だったから良かったねぇ」
老婆が目を細めると、女の子が得意顔をレオンに向け、
「最初に見つけたのはニナだからね。感謝しなよ」
口の利き方が小憎らしいが、確かにニナがいなかったら行き倒れてあの世へ行っていたかも知れないので、
「ああ。助かったよ。ありがとな」
心を込めずに返答すると、ニナは鼻を鳴らした。
「ねえ、マリアばあちゃん。なんで黒髪を助けるの?」
ニナの言葉にレオンの心臓がキューッと締め付けられた。
「それはね、この領地がどんな人種でも助け合うという領主様の言葉に従うから」
「ねえ。黒髪はどこから来たの?」
ニナはジッとレオンを見つめて問いかける。レオンが困惑顔でいると、
「遠い所」
老婆が助け船をソッと差し出した。腑に落ちない顔のニナがさらに問う。
「地の果て?」
「そのくらい遠いかもね」
「フーン。だから行き倒れてたのか」
レオンは老婆が真実を知っているのではないかと推測した。でなければ、即座にあのようなぼかした回答を口にしないはずだから。
「そうだ。名乗っていなかったね。私はマリア・マッハ。この子はニナ・マッハ。そこにいるのは――」
「エマ・マッハ! 覚えてくれた!?」
「俺は、レオン・マクシミリアン」
「家に帰ると、長女のリーナと三つ子のルイーザとアロイジアとブレンダがいるよ! みんな女だけどね! 父ちゃんは死んだから、あんただけ男だ! アハハハハッ!」
レオンは、死亡フラグが折れて、ハーレムのフラグでも立ったのかと苦笑する。
『だけど……俺が一家の中に入ると、不幸を呼び寄せることになりやしないだろうか……?』
レオンの顔から笑いが消え、四肢の血の気が引いていく。
「食べ物を恵んでくれたら、俺は町に行きたい」
「なんで!?」
声が一段と大きくなったので、エマがこちらに振り返って問いかけたのかも知れない。
「職を探したいから。近くに町はないか?」
「ドリッテシュタットなら近いが、何の職を探すんだい!?」
「まあ……力仕事でも何でも」
「無理だね!」
「なんで?」
「この領地にあらゆる所からあぶれた連中が集まってくるから、町に仕事なんかないよ! 農家をやるのがせいぜいだね!」
スローライフもいいなと思っていたレオンは、心が傾いた。
「なら、農家っちゅうか農作業でいい」
「だったら、うちで働きなよ! ちょうど男手が欲しかったところだから、大歓迎だよ!」
「おやじさんが亡くなったから?」
「それもあるけど、町で野菜が売れててさ! 忙しいんだよ、ちょうど!」
「景気いいのか?」
「中立国で戦争に巻き込まれなかったからね。他はひどいもんだよ」
「なるほどな。考えさせてくれ」
「考える必要なんかないだろ!? うちに来な! たらふく食わせてやるから!」
どうしてもマキナの予言めいた言葉が頭から離れられないレオンだったが、エリーゼの危機を回避したこともあり、今度も大丈夫ではないかと思えてきた。
『たまたまマキナの言葉が2回当たっただけで、3回目は外れたのだから今度も大丈夫だろう。あんな奴の言葉に萎縮して、人生を振り回されるのも馬鹿馬鹿しい』
「わかった。世話になる。よろしく」
「そう来なくっちゃ!」
エマは棒でウサギ馬の尻を叩き、家路を急いだ。