20.死の覚悟
魔獣騒ぎで朝食を食べ損なった。棒も忘れてきた。日記も地図までも藁の上に置いたまま出てきてしまった。
「何やってんだ、俺……。我ながら、情けない旅立ちだぜ、まったく……」
地図は手元に置くことを前提にしたので、頭へ叩き込むことはしなかった。だから、朧気な記憶しかなく、まずは道に沿っていけばいいだろうという考えで今は前へ進む。蛇行している道は直線にショートカットすれば体力も温存できるが、腰丈の雑草が生い茂る中を進むので何が潜んでいるのか不安であり、やむなく道なりに歩く。
ところが、この作戦もすぐに限界が来た。枝分かれの道に遭遇してしまったのである。標識の文字は読めないし、目をつぶって地図の記憶を思い起こしてもぼやけた絵しか思い出せない。
「左へ行くか。迷ったら、利き腕だ」
何の根拠もない選択で自分を納得させて、とぼとぼと歩く。
しかし、誰とも遭遇しない。畑仕事をしている農民の姿もない。
太陽が真上に来たが、果てしなく広がる田園風景を前にして、路傍で腰を下ろした。
『まあ、誰かに遭遇してもこの髪の色じゃ追い払われるから、かえって誰もいない方がいいんだけど……とにかく腹が減った』
木の実や果実がないかと林の中へ入って見るが、収穫はない。草原にも実を付けている草はなく、川がないので水も口に出来ない
『半日でフェルテンってことは、もう少しか。……頑張ってみるか』
さらに進んでいくと、今歩いている道が森の中へ吸い込まれていくのが見えた。左右に果てしなく広がる森なので、道を外れて迂回するよりもこのまま突き進むしかなさそうだ。
背の高い木を両脇に見ながら、蛇行する道を歩いていると、木の陰で何かが動いた気がした。
『動物? 何だろう?』
周囲の様子に気を配りながらゆっくり歩いていると、何となく視線を感じた。
『ヤバいぞ。もしかしたら山賊か?』
少し急ぎ足になって、早く森を抜けようと突き進む。
しかし、予感は的中。前方に汚い身なりで剣を持った二人の男が行く手を阻んだ。
「やい。金を置いていけ」
レオンは、回れ右をして駆けだしたが、後ろも同じ格好の男二人に通せん坊された。ならばと森の中へ入ろうとしたが、左右も二人ずついることが判明。合計八人に取り囲まれた。
「この辺にたまにいるんだよな、黒髪の奴が」
「そいつら、結構金を持っていたりするし」
「哀れな俺たちに恵んでくれよ」
「へへへへっ」
男達の包囲網が少しずつ狭まっていく。無駄とは思ったが、レオンは脅しにかかる。
「ハイリゲンヴァルト公国に帝国の竜騎兵が山賊の討伐に派遣されている。お前達もすぐに捕まるぞ」
だが、八人の中で一番恰幅が良い男が鼻で笑った。
「何寝ぼけていやがる。ここは、ニーダーエスターマルク辺境伯領だ。中立国に帝国は派遣なんかしねえよ」
いつの間にかハイリゲンヴァルト公国を越えてニーダーエスターマルク辺境伯領へ入ってしまったようだ。あの枝分かれの道で右を選んでいたら今頃フェルテンだったのかと大いに悔やんだが、もう遅い。
この窮地を乗り切るには、話を長引かせて隙を突く機会を待つ。
「嘘を言うな。俺はハイリゲンヴァルト公国からやって来た。国を超えるなら検問所があるはずだが?」
「こいつ、とことん馬鹿か? 検問所を設けているのは、シュヴェルトブルーメ帝国の直轄領だけだぞ。お前、黒髪ならミッテから来ただろう? その時、1銀グロシェンで出国許可証を発行してもらっただろう? あんなことをするのは帝国直轄だけ。他の同盟国や中立国の間は、自由に行き来出来るんだぜ」
「俺は山賊に襲われた後だ。金をばらまいて逃げてきたから、もう手元にないぞ」
「服を脱げよ」
「服を金にするのか?」
「それもあるが、あそこに隠す奴もいるからな」
「そんなところに隠して歩けないぞ。ほら、金ならやる」
レオンはポケットの中で小銭を握ると、前方の二人に目がけて二回に分けて投げつけ、駆けだした。寛永通宝の投げ銭で相手を仕留めるほどの効果はなかったが、顔にばら銭を投げられて少々目くらましになったようで、二人の間を器用にすり抜けることが出来た。
「ばーか! 逃げおおせるとでも思ったか!」
背後の声が悔し紛れの言葉ではないことがすぐにわかった。10メートルほど走ったところで、左右から男達が飛び出してきて、剣を突きつけられた。
数分後、森の中へ連れ込まれたレオンは、全裸のままうつ伏せで落ち葉の上に転がっていた。体のあちこちに打撲の跡が残り、唇は切れ、歯茎からも出血がひどかった。
「お頭、こいつの始末はどうしやす?」
「首を刎ねるのは、あっしが」
だが、恰幅の良い男は首を左右に振った。
「この辺りを歩いている黒髪の奴は、今でも帝国と繋がっている可能性があるから、迂闊に始末は出来ん。しばらく動けないように痛めつけておけ」
それから九人がかりで殴る蹴るの暴行が始まり、レオンは気を失った。
「すぐには外に出られないように、森の奥へ投げ込んでおけ」
「へーい」
四人の男達がレオンの手足を持って森の奥深くへ運んでいった。
夜になって意識を取り戻したレオンは、うつ伏せのまま己の不運を呪ったが、仰向けになって命だけは助かったことに天に向かって感謝を捧げた。それから激痛が走る上半身を慎重に起こし、髪の毛を愛おしく撫でる。
『黒髪は迂闊に始末出来ないって言っていたな……。世間に疎まれるこの髪の毛が幸いしたとは、皮肉なものだぜ』
木の幹に手を添えて時間を掛けてゆっくりと立ち上がり、歩けることを確認する。
『足の骨は折れていない。肋骨も大丈夫な気はするが、ひびは入ったかもな』
月明かりも届かない暗闇の中を歩くのは危険なので、とりあえず腰を下ろし、仰向けに寝転がった。
『とにかく、エリーゼを救えた。自分は九死に一生を得た。今日は最高だったと思うべきだな』
翌日、レオンは森の中を半日掛けて彷徨い歩き、ようやく脱出した。だが、前方に空き地は広がっていたものの、その先にまた森が待ち構えていたため、盛大に溜め息を吐いてへたり込んだ。
『マジかよ……。辺境伯領っていうから辺鄙な所なのかも知れないが、これじゃアマゾンの密林と変わらないぜ』
次の森は途中で夜になったので森の中で寝て、翌日の昼に抜け出た。しかし、これまた空き地の向こうに森が構えている。
『地獄だ……』
食べられる物は一切ない。水もない。こういうときにどうやって凌げばいいのかの知識もない。体中が青あざになっていて、まだ痛む。時折、意識が飛ぶ。
『行かなくちゃ……。必ずまっすぐ歩けば……道にぶち当たるはず……』
重い腰を上げて森の中へ入り、夜をそこで過ごし、日がかなり傾いた頃に森を抜けられた。今度は、よく見かける田園風景が視界に飛び込んだが、道らしい物は見当たらない。
『ダメだ……。限界かも……』
朦朧としてきたので、近くに落ちていた枝で自分の太ももを突き刺し、意識を取り戻す。
『歩け……歩け……。必ず……道が……ある……はず』
よろよろと歩いては転び、立ち上がって歩いてはまた転ぶ。
すると、前方に道が見えてきた。街道のようだ。しかし、車も人の姿もない。
『あと少し……。頑張れ……俺……』
だが、道の少し手前で力尽き、腰の高さの草が密生する場所へ仰向けに倒れてしまった。
起き上がるどころか、体が全く動かない。限界が来たようだ。
『死ぬのかな……』
山で遭難して生還した人の話では、もっと過酷だったはず。だが、不甲斐ないかな、自分はこの程度の飲まず食わずで限界が来てしまった。
クララの顔が浮かんできた。頑張れと言っている。
ゲオルグの顔が浮かんできた。生きろと言っている。
『ごめん……体が……動かない……』
と、その時、女の子の声が遠くから聞こえてきた。
「誰か倒れている」
いよいよお迎えが来たのかとレオンは思った。
体が揺すられた。
「生きてるみたい」
天使が生きているかどうかを確認するのも変だ。レオンは、頭を少し上げた。
「あ、動いた。マリアばあちゃん、やっぱりこの人、生きてる」
視界にボンヤリと映るのは、緑色の髪の女の子。天使の輪は頭の上にない。
『助かった……』
レオンは再びうつ伏せになると、意識を失った。