7.広がる疫病
「おーい! 誰か、助けてくれー!」
道行く猫耳の通行人は、声を上げる見慣れない黒髪の少年に目を留めるも、誰も医者を呼びに行こうとしない。舌打ちしたレオンは、具体的に言い直す。
「この人が病気なんだ! 誰か、医者を呼んでくれー!」
少しは足を止める者もいたが、無関心を装って去って行く。
「おい! 無視するな! 医者を呼べ!」
レオンの剣幕に驚いた一人の女性が、歩いて来た方向と反対方向へ小走りに去って行った。だが、医者が来る様子はなく、通行人がジロジロと見ながら通り過ぎるので、業を煮やしたレオンが「医者はどこだ!」と叫ぼうとしたとき、ようやく女性が黒いローブを纏って黒い鞄を持った山羊頭の人物を連れてきた。
「あんたが医者か?」
「いかにも」
「この婆さんが酷い熱なんだ。診てやってくれ」
近寄ってきた医者は、老婆ではなくレオンの顔を穴が開くほど見つめる。
「見ない顔だが、どこから来たのだ?」
「俺か? 帝国のミッテからだ」
「名前は?」
「レオン。レオン・マクシミリアン」
「職業は?」
「おいおい、職質の警官かよ! それより、ばあさんを診てやれよ!」
首を傾げる医者は、苛立つレオンが指差す老婆を一瞥すると「はぁ」と溜め息を吐いて鞄の中から黒い手袋を取り出し両手に填め、今度は黒い大きな布を取り出して口と鼻を塞いで頭の後ろで結わいた。山羊の銀行強盗かよとレオンが心の中で呟くと、医者の赤い目が冷たい光を放ち、レオンを視線で射貫く。
「四日前からこんな患者ばかり診ているが、一体誰が病を持ち込んだのかねぇ?」
「さあ、知らねえな」
「昔から病を持ち込むのは余所者と決まっているが――」
「そんなエビデンスがあんのかよ? 人間以外に獣だって持ち込むだろうが」
「何を言っているのかわからないが、とにかく、諸悪は余所者が持ち込むものと決まっている」
「おい、俺のことを言ってんのか? 言いがかりは止めてくれ。だいたい、俺が保菌者だったら、ミッテでは大流行だぜ。そんな話は聞いてないだろ?」
「途中、どこに立ち寄った?」
「……覚えてねえよ。感染経路を追いたいんだろうが、俺は熱はねえ。関係ないのはこの俺の身体が証明している」
「はぁぁぁ……」
「溜め息吐いてねえで、診てやれよ。俺は忙しいから、帰らせてもらうぜ。じゃあな」
首を力なく左右に振る医者を置いてきぼりにして、小麦粉の袋を肩に乗せるレオンが急ぎ足で店に戻る。
『ヤバいことになったな……。目を付けられたぜ』
髪の色や目の色が黒くて珍しいからジロジロ見られるのはもう慣れたが、みんなから白い目で見られるのは、想像しただけで恐怖感を覚える。これからクララとこの町であの店で一緒に汗を流して楽しく過ごそうと考えていた矢先に、余所者で厄介者扱いでもされたら夢をぶち壊されかねない。
「畜生! どうすれば――うわっ!!」
不安を抱えるレオンは足下が疎かになり、店の前で道路の窪みに足を取られて前のめりに倒れた。打撲の痛みと派手に転んで這い蹲る情けなさで起き上がれないでいると、走る足音が聞こえてきてクララの声が降ってきた。
「レオン! 大丈夫!?」
顔を上げると心配そうに見つめるクララの顔が間近にある。
「初めて名前で呼んでくれたな。とても嬉しいよ」
顔がカーッと赤くなるクララが手を差し出したので、握ると温もりと柔らかさを感じて鼓動が高鳴る。レオンも頬を染めて、彼女の手に引かれながら体を起こした。
「荷物は私が運びます」
「ありがとな。重いぞ。気をつけて」
「大丈夫です」
クララと交代にゲルトルートがやって来た。「だいじょうぶ?」と声をかけてから、レオンの泥だらけの手を取ると自分の手でそれを拭う。
「いたいのは、きえてしまえー」
呪文めいた言い回しの声を発して、手を斜め上に上げて笑う。
「なるほど。俺の世界の『痛いの痛いの飛んでけー』みたいなもんか」
「いたいのは、きえてしまえー」
「おいおい、お前の手が泥だらけになるぞ。もういいから。ありがとな」
「いたいのは、きえてしまえー」
「はい、もうおしまい。ちゃんと手を洗えよ」
すると、ゲルトルートは服で手を拭ってそのまま店に入っていった。
「衛生感覚のない奴だな。平気なのかよ、あれで」
上着やズボンの泥を両手で綺麗に払っていると、なんとなく視線を感じるので顔を上げたところ、薄ら笑いを浮かべるレオが棒を肩に担いでこちらを見ていた。ギルガメシュに笑われた気分になって腸が煮えくり返るレオンだったが、同じ屋根の下で生活する相手であり、今度のことを考えて威嚇するのをやめた。
何度も綺麗に手を洗って、今日の苛立ちを原動力にパン生地を思いっきり強くこねると、フリッツに「やり過ぎるな」と注意された。
翌朝、クララが起きないのでカーテンを開けて様子を見ると、苦しそうな顔をして寝ている。
「どうした?」
「……ちょっと熱っぽくて……すみません」
途端に、昨日の猫耳の老婆を思いだし、心底肝が冷えた。
「まあ、無理するなよ」
「……はい」
そう言って部屋を出ようと扉へ足を向けると、その扉が何者かに蹴られて勢いよく開いた。姿を現したのは怒りで顔を染めたレオだった。
「とうちゃんもゲルトルートも熱を出した! お前、なんかやっただろう!?」
レオンは、全身が凍り付いた。
三人同時に熱を出すという異常事態に、激しく動揺する。食事は同じ物を採ったから食中毒は考えにくい。夜は寒くなかったので風邪でもないだろう。自分もレオも平気なのに、一体何が起きたのか。この不安を払拭したいがために、大声を上げて反論する。
「はあ!? 何言ってんだ! 俺はなんもしてねえぞ!」
「うそだ!」
「嘘じゃねえ!」
「うそだあ!!」
「嘘じゃねえって言ってんだろが!」
「うそだあああ!!」
「うるせー!! そんなことより、今すぐ医者を呼べ!!」
駆けだしたレオを見送ると、レオンは他の部屋へ走り、二人の様子を見る。確かに、レオの言う通りだ。二人とも熱に浮かされている。
「マジかよ……。風邪は考えられない。あの婆さんの病気が広まっているのだろうか? だとすると、感染スピードがかなり速い病気なんだろうか?」
自分も感染しているのではと不安が募るので、貴重な水であることは承知の上で、もう一度入念に手を洗い、うがいまでする。まだ気になるので、ハッピーバースデーの歌を2回口ずさんで手を洗う。
店先で首を長くしてレオの帰りを待っていると、レオが昨日の山羊頭の医者を連れて来た。レオンの顔を見て『またお前か』と言いたそうな顔をする黒ずくめの医者は、昨日と同様に手袋をして布でマスクをし、盛大に溜め息を漏らしながら俯いた。
「先生。三人とも、昨日の婆さんとおんなじ症状なんだ。かなり広まってんじゃねえか?」
「同じだと?」
「そうだ。薬は足りるのか?」
すると、医者は実にゆっくりと顔を上げて、冷たく宣告する。
「同じなら投薬しても無駄だ。気の毒だが、死を待つしかない」
「な――!」
すると、医者の後ろにいたレオが泣きわめき「こいつのせいだあ!」と叫んで店を出て行った。
「お、おい。俺の言うことで所見を済ますなよな。ちゃんと患者を診てくれよ」
「同じなら診るまでもないと思うが――」
「おい! こら!」
「フン。……まあ、一応、診ておこうか」
「こいつぅぅぅ――」
歯ぎしりをするレオンに部屋の案内を請うた医者は、一人一人の部屋を回って、手で患者の喉を触って熱を測り、胸に手を当てて呼吸を診る。何も器具を使わないで触診だけで診ているのが怪しくて仕方がないレオンだが、手出しが出来ず、歯がゆい思いだった。自分に少しでも医学的知識なり看護の知識があれば良かったのにと、悔しさで心が掻きむしられる。
三人の診察を終えた医者が首を力なく左右に振る。
「先生、どうなんだよ?」
「無理だ」
「嘘だろ! 先生、治るって言ってくれよ!」
「気の毒だが、これは治らない」
「何? まさか、治せないからそう言ってんじゃねえだろうな!?」
語気を荒らげるレオンに向けて、医者の赤い目が冷たい光を放つ。
「医療の知識がない素人のくせに、何が分かる?」
「なら、熱冷ましの薬くらいあんだろ!? 苦しませたくないから、それを投薬してくれよ!」
「薬は貴重品だ。治らない患者に熱冷ましなど投薬して何の得がある?」
「何の得だと!? その得は、お前のだろ!? 患者のことを考えないのか!?」
「無駄なことをする医者はこの世の中にはいない」
「ふざけんな! この藪医者め!」
「やぶ医者?」
「下手クソな医者のことだ!」
「だったら、言おう。三人とも陽が落ちる頃には死ぬ。それが当たったのなら、その言葉を撤回せよ」
自信たっぷりな言葉を残して、山羊頭の医者は悠々と帰って行った。
「陽が落ちる頃に? クララが死ぬだと? 冗談じゃねえ!」
レオンは三本の手拭いを濡らして絞り、三人それぞれの額に乗せ、顔から噴き出る汗を別の布で拭いてやる。レオはどこへ行ったのか戻ってこない。おそらく、どうしていいのかわからないから、外をほっつき歩いているのだろう。
太陽が大きく傾くと、レオンの看病も空しく三人の容体は急変し、息も絶え絶えになる。手拭いをこまめに取り替えても全く効果がない。全身から湯気を放出するほど体が熱くなっていて、濡れた手拭いがすぐに乾くのだ。
「クララ! 頑張れ! しっかり!」
呼びかけに、何ら反応がない。
「クララ! クララ! クララぁぁぁ!」
風を感じてふと窓の外に目をやると、空が紫色になってきた。
医者の言葉が耳から離れないレオンは、自分の命を半分削ってクララに渡してあげたいと心から強く願う。
「クララ……。目を開けてくれ……。俺を置いていかないでくれ……。頼む、お願いだから……」
涙が滂沱として流れるレオンは、クララの耳元で声をかける。
「聞こえるか? 俺が『俺たちは対等だ』とか『一人のクララとして一緒にいて欲しい』って言ったのは、『お前のことが好きだ』って恥ずかしくて言えなくて、照れ隠しで言ったんだ」
クララとの四ヶ月あまりが走馬灯のようにレオンの脳裏を駆け巡る。
「……思い返すと、いろいろあったな。辛いことも悲しいことも。でも、クララがいたから乗り越えられた。この世界に来て、クララがいなかったら、俺はここまでやってこれなかった。本当に心の底から感謝している」
クララに向かって頭を下げたレオンが、ふと彼女の顔を見ると、安らかな顔になっている。涙を拭いてよく見ると、苦しんでいる様子がまるでない。
もしかすると、もう峠を越えたのか。
「クララ? クララ? 聞こえるか、クララ?」
ジッと目をこらす。薄暗くなってきたので、魔石のランプを灯してクララの顔に近づけてみる。
「苦しくないか? もう大丈夫か?」
だが、何も答えない。
「まさか……」
レオンは、恐る恐る掛け布団を剥がしてクララの右手首を取り、脈を測る。
「おい……、クララ……?」
脈拍を感じない。
胸を見る。
息をしていない。
「…………」
頭の中が瞬時に真っ白になったレオンは、呼吸まで止まった。