5.帰郷と涙
太陽が45度くらいに傾いた頃、居眠り禁止の旅は終わりを告げ、小さな宿場町リンデンブルクが歓喜を全身で表現するレオンを出迎えた。
「やっと着いたー!」
「あのー、2回乗り継ぎますので、まだ着いてはおりません」
「忘れてた……」
次のトカゲ車が到着するまで待つ間、屈伸運動などで体をほぐすレオンは胃の調子が戻ったので、食べかけのパンを平らげ、近くの小売店の店先で桃のジュース――小さいペットボトルの分量――を1ペニヒで購入して一気に飲み干し、生き返った気分になった。
「プフィルジヒって元気回復・栄養満点のドリンク――いや、飲み物の名前にいいな。元気が出そうだ」
「喜んでいただけて嬉しいです。普通に桃ですが」
「1ペニヒって言うと、何となく俺の世界で最低通貨の1円に感じてしまうな。やっす、って思ってしまう」
「こちらは、1/4ペニヒが最低通貨です」
「まだ下があるんだ……」
「本当は1/12ペニヒがあったのですが、大昔の戦争で物価が高騰し、大量の1/12ペニヒ銅貨を扱うのが店も客も面倒になって、廃止してしまったのです。でも、言葉だけは残っていて、お金がないことを『1/12ペニヒ銅貨も持っていない』と言います」
「なるほど。俺の世界の『一文なし』とおんなじだな。一文なんて貨幣はなくなっているのに言葉だけは残っている」
習慣の違いや共通点を話題にしているうちに、トカゲ車の御者が到着時に吹き鳴らすラッパの音が聞こえてきたので、レオンは席の確保のため停車場へ走る。予約というものがなく早い者勝ちと聞いて急いだのだが、一人3銀グロシェンと運賃が高い――レオンの感覚では9000円である――ため、クララは「そんなに慌てなくても乗客は少ないはずですから大丈夫です」と声をかけるが無視された。
到着したのは二匹のトカゲが牽引する大型車両。横長の箱に6つの車輪が付いたもので、引き戸方式の窓が車輪の上に合計6つある。進行方向を向いて一番前の右扉から乗り降りするが、天井が低いので大抵の客は腰を屈めて移動する。座席は長椅子が側面に2つあり、向かい合って最大で十人が着席出来る。荷物は車両の後ろにある大型トランクへ入れるようになっていた。
レオンは一番乗りで後方の二人分の座席を確保し、クララを一番奥に座らせる。彼女の隣に男の客を寄せ付けないためだ。大型のトカゲ車は八人を乗せて出発したが、女性はクララだけで、しかも隣にいる黒髪で黒目の少年も気になるらしく、乗客は何度も視線を送ってくる。そう言えば、前のトカゲ車にて横目でこっちを見る――スリに見えた――紳士が隣にいたが、自分の髪と目の色が気になっていたのではないかと、今更ながら推理を修正した。
しばらく揺られていると、彼らはさすがに珍客をジロジロ見ることは減って、本をポケットから取り出して読みだした。レオンは、彼らの手にする本の表紙や裏表紙に書かれている奇怪な文字に目を見張る。最初の印象は楔文字。それに所々○や△が混じっている。
『これが異世界の文字なんだ。見てもさっぱり分からねぇ……』
何か規則でもあるのかと思って遠くから眼で文字を拾っていると、それに気づいた客が先ほどとは立場が逆転したことに溜め息を漏らして本を閉じる。機嫌を損ねさせたことに反省したレオンは、少しずつ茜色に染まっていく景色に目をやった。
本が読めないほど暗くなると、乗客の一人が天井に吊された魔石のランプを点灯し、他の乗客は窓を閉める。旅に慣れた乗客なのだろう。
その後、何度も瞼を閉じそうになるのを堪えていると、宿場町クラインに到着した。ここで夜通し走るトカゲ車に乗り換える予定だったが、街道に珍しく魔獣が出たとの情報が入って、朝まで発車できないことになった。
車両の中で客を警戒するために徹夜で起きていなければいけないことから解放されて喜ぶレオンだったが、クララはそんな彼の手を引いて急いで宿屋を捜す。幸い、一人1銀グロシェンで泊めてくれる宿屋に二部屋の空きがあった。
その宿屋は食事が付いていないので、近くにあった山小屋に似た食堂で腹ごしらえする。次々と出費がかかるのでレオンは遠慮し、鹿肉のソテーと野菜サラダと豆のスープをクララと二人で分けた。お陰で、食事代は一人分の4ペニヒで済んだ。
サラダに入っていた黄色い花をフォークで刺して鼻の高さに持ち上げたレオンは、
「なあ、このタンポポ食えるのか?」
「たんぽぽ? ああ、それは獅子歯草の花です。苦みがありますが美味しいですよ」
「へー。じゃあ、このスープの豆――凸レンズみたいなのは?」
「レンズ豆です」
そうやって、子供が言葉を覚えるが如く、これ何あれ何と指して聞きまくる。大方の旅人は食堂で炭酸のないビールを呷り、笑い声のボルテージが上がる。話が弾む周囲を見ると、トカゲ車の中では無言だった連中が、他の車両に乗っていたらしい知らない顔と談笑している。人間もいるが亜人もいる。会話のない抑圧された空間の鬱憤をここで晴らしているのだろうか。
「なんだ。連中もすぐ人と打ち解け合ういい奴らじゃないか」
「いいえ。お酒のせいです。酔いが覚めると元に戻ります」
「酒の力を借りているのか」
「お酒は人の性格をガラリと変えます。飲んでいるときの人は別人と思った方が良いです」
「いや、そっちが本性だと思うけどなぁ……」
時折遠くからクララを見る赤ら顔の男が、イベント発生をレオンに予感させ、こちらのテーブルにやって来てクララに絡んだら守ってやろうと固く拳を握るが、幸いにも男はやって来なかった。
月明かりを頼りに宿まで戻り、クララと別れて自分の部屋に入る。王宮の自分の部屋よりも若干広い感じがしたが、宿のベッドは硬く、シーツも布団も枕も汚れていて臭っている。だが、睡魔に勝てないレオンは、ベッドの上に転がると早くも寝息を立てた。
翌朝、魔獣は竜騎兵の活躍で退治されたとの情報が入り、旅人は安心して大型車両のトカゲ車へ乗り込んだ。クララも乗り込もうとしたが、何を思ったのか踵を返した。
「行き先を変えてもよろしいでしょうか?」
「お、おお。任せるが、どうした?」
「ちょっと寄りたいところがありますので」
その言葉にピンと来たレオンだったが、あえて口にしなかった。クララの行きたい場所へ向かうトカゲ車が1時間後――24時間を10時間で数える異世界の1時間なので、レオンの感覚では2時間24分後――に発車するとのことなので、昨日の食堂でまた一人分4ペニヒの食事を半分分けにして済ます。
時間が来て四人乗りのトカゲ車に二人で乗り込んだ。今度は二人で4銀グロシェンとのことで、近い場所なのだろう。どこまでも続く田園風景に飽きたレオンは、二人だからいいだろうと居眠りをすると、クララに太ももをつねられた。
「いいじゃん、寝たって」
「行き先を誤魔化す御者もいます。どんなときも旅の時は寝ないようにしないといけません」
「たとえ起きていたとして、誤魔化されても、俺にはちっとも気づかない自信はある」
これにはさすがのクララも吹き出して小さく笑った。
小さな宿場町クルツに到着したのは昼前だった。クララの案内で町の外へ出て、起伏のない牧草地のような草原を二人でどこまでも歩いて行く。レオンの感覚で30分ほど歩いて行くと、真っ平らだった大地がなだらかに下り始め、大きな盆地が見えた。
草ボウボウの盆地は、真ん中に蛇行する道が見え、道の両脇に所々黒い塊が転がっている。それが家屋の焼け跡だと気づくのは時間がかからなかった。
「これは……」
異様な光景に目を奪われて声を上げたレオンを置いて、クララはフラフラと坂を下って行く。
「おい、どこへ行く?」
問いかけにも答えない。そのままクララは坂を降りきり、何かに引かれるように蛇行する道を歩き出した。さすがに一人で行かせるわけにはいかないと思い、レオンは彼女の後ろを追いかける。
どこまで歩いて行くのだろうと不安になると、クララがある焼け跡の前で立ち止まり、跪き、両手を組んで項垂れた。唇が震え、心の中で何かを唱えているようにも見える。彼女が何をしているのかは、レオンには理解できた。だから、涙を誘われ、袖で瞼と頬を拭く。
そこへ一陣の風が吹き、耳元で怨嗟の声の如く響くので、レオンの背筋に悪寒が走った。
立ち上がったクララは、チラッとレオンを見やり、また項垂れてレオンの方へ重い足取りで近づいてきた。そして、2メートルほど近づいたところで涙を浮かべた顔を上げる。
「申し訳ありませんが、泣いてよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「いっぱい……いっぱい、泣いてよろしいでしょうか?」
「うん」
クシャクシャになった顔を地面へ向けたクララがその体勢で近づいてきて、レオンの胸に頭を付けて、さめざめと泣く。
そんな彼女の背中に両手を回すレオンがソッと抱くことに躊躇すると、クララの方からレオンを抱きしめてきた。
涙で視界が滲むレオンがクララを抱き寄せると、彼女は両腕に力を入れ、嗚咽の声を風に乗せた。