4.異世界の金銭感覚
治療が完了しても壁に凭れて落ち着いてしまったレオンを見て、空腹で動けなくなったと思ったクララはこれを食べて元気を付けるようにとライ麦パンを紙袋から両手で取り出して彼に差し出す。ロッゲンブロートの意味が分からないレオンは、焦げ茶色で小型ラグビーボール大の塊を両手で受け取り、ずっしりとした重量感に目を丸くする。
「これ、パン?」
「ぱんって何でしょうか?」
「うーん、言い換えが難しい。今まで食べていたあの丸とか楕円形とかの形で柔らかい物の仲間?」
「ああ、パンのことですね」
「そう言うんだ。今までこっちでの名前を知らずに食べてた。それにしてもデカいな、これ」
「普通です。これで2ペニヒも取られました。高過ぎです」
2ペニヒは高いと言われても金銭感覚が伝わらないが、ランチ一食が4ペニヒらしいので、サラリーマン時代によく食べていた800円のランチ相当だと考えれば差し詰め1ペニヒは200円と言ったところだ。ならば、目の前で存在感を主張する小型ラグビーボールのパンは400円。
「この大きさならそんなに高い感じはしないが」
「いいえ、安い店ではこれで1と1/2ペニヒです」
ならば、たまに奮発して食べた1000円ランチを物差しに使うと2ペニヒは500円で、この方がクララの感覚に近いのか。
「すると退職金は……10万800か」
「とんでもありません! いただいたのは1タレルです。その金額では小さな町の商品を買い占め出来てしまいます!」
目を丸くして飛び上がるクララを見て、円換算してつい口にした数字をタレルだと勘違いさせたことに気づく。確かに、10万タレルならおよそ117億円だから、愕くのも無理はない。
早速、パンの左端の尖った部分を千切って口の中に放り込んだが、咀嚼し飲み込んだ後で胃袋が久しぶりに送り込まれた塊に驚いているのが分かる。ゆっくり時間を掛けて1/4を食べたところで疲れてしまった。
レオンが苦笑いして返したパンを紙袋に戻したクララは、レオンの服をじっと見て、
「服を買い換えましょう。その服では雇ってくれないと思いますので」
「そうだな。何から何まで頼りっぱなしで悪い。お金はいずれ返すから」
「今は頼りっぱなしでいてください」
「面目ない」
「わたくしが貴方様の世界に行ったら、右も左も分からない世界でしょうから、きっと貴方様に頼りっぱなしになります。同じことです」
異世界生活の案内人を頼りに古着屋へ向かうと、案内人は手強い交渉人と化して、男物の洒落た民族衣装の上下を4銀グロシェンから3銀グロシェンに負けさせた。12000円を9000円に値下げ交渉したのと同じだとレオンは感心し、この世界の買い物は気をつけないと大損する危険があることに気づかされた。
買った服に着替えたレオンは、今までの服を古着屋がタダで引き取るというので、喜んで引き渡した。クララの民族衣装は濃い緑をベースにして緑のエプロンを着けたディアンドルにそっくりで、自分のは白シャツと茶色のベストに黒のズボンとシンプルだが、二人揃うとなんとなくスイスとかチロルにいそうなカップルになる。
「この国の銀グロシェンは良貨しか使えませんが、地方へ行くと悪貨の銀グロシェンが流通していますので、注意が必要です。良貨の方は1銀グロシェンが12ペニヒですが、悪貨は10ペニヒです」
「へー。で、りょうか、あっかって何?」
「銀の純度が高い方が良貨で、低い方が悪貨です」
「なんでそんな2種類もあるんだ?」
「この世界が256の国家に分かれていたことをご存じでしょうか?」
「ああ、なんかそんな話を聞いたことがある。領邦国家だっけ?」
「国力の差と銀の産出量の違いで、国ごとに貨幣の銀の純度が異なっていました。それが帝国の出現で同盟国が敗戦国を吸収した時に、銀の含有量が或る基準より低い方を悪貨としてペニヒの換算も変えてしまったため、2種類あるのです」
「見て分かるの?」
「良貨は、帝国が新たに鋳造した分は図柄でわかります。帝国製以外は刻印されている旧国名で区別します」
クララは革袋の財布から良貨の銀グロシェンのコインを手に取り、レオンの掌の上に置く。国王の右向きの横顔が表で、裏は帝国の紋章とのこと。紋章は何かの花と剣を組み合わせた物だ。
「めんどくさ。さっさと古いのを回収して鋳潰せばいいのに」
「人は慣れ親しんだ物をそう簡単に手放しません。地方へ行けば、旧領地の通貨を今でも普通に使用しています。たとえ悪貨と言われようとも」
「悪貨にされた方は、切り下げと同じになったんだよね? 12から10へ」
「はい。それで地方には根に持っている人が多いです。帝国は不満を緩和するため悪貨を使用している地方の徴税率を下げたのですが、今度は良貨を使っていた地方の人が不満を抱くようになりました」
「帝国は頭悪いな。おっと、ここでそれを言うと衛兵にとっ捕まるかな?」
異世界の貨幣について知った後で、早速、職探しを再開する。
しかし、50軒回って収穫ゼロという結果に、服の効果がなかったかとレオンはしょげてしまう。
「この町を出ましょう。ここにいても職はなさそうです。宿代もとびきり高いですし」
「当てはある?」
「はい。同盟国のローテカッツェン公国なら土地勘があります。比較的物価も安いですし」
「何? 昔住んでいたとか?」
「……ええ。ツヴァイブリュッケンを併合した国ですから」
「ごめん。イヤなことを思い出させてしまって」
「いえ、お気になさらずに」
「元敵国じゃないか? あ、また思い出させるようで悪いけど」
「はい、敵国です――いいえ、でした。でも、土地勘があると言うことは大事なことです。他の町では、その土地の事情――習慣が異なっていたりして、わたくしでも失敗してしまうことがあり、貴方様にご迷惑を掛けてしまうかも知れません」
「クララに任せる。それから、これからも色々教えて欲しい。習慣とか生活の知恵とか」
「はい。では急ぎましょう」
「どれくらいかかる?」
「トカゲ車を2回乗り継いで、夜通し走って、明日の昼に到着します」
「うわー、夜行列車――じゃなくて馬車で……。尻が痛そう」
「馬車ではなくトカゲ車です」
二人は役所へ赴き、2銀グロシェンで二人分の出国許可証を発行してもらい、6銀グロシェンを支払って四人乗りのトカゲ車に他の乗客と共に乗り込んだ。次々と続くクララの出費にレオンは肩身の狭い思いだったが、いつか自分の稼ぎで借りを返すことを心に誓った。
レオンは王宮の籠の鳥生活時代に、修行を終えて一人前の魔法使いになって巣立った後の異世界生活は、ギルドに登録して依頼を受けたりダンジョンに潜って魔獣相手に戦ったりしてと、今までの知識をベースにしたプランを立てていた。
その魔法使いで生計を立てるプランが頓挫し、無一文になり、職探しすら一人では不可能であるという状況に直面して、異世界生活の夢があっけなく霧散した。
街道を走るトカゲ車で右の車窓から田園風景を眺めるレオンは、どこまでも同じ風景が続くのですぐに飽きてしまい、休息する振りをして腕組みをし目をつぶる。
『これが異世界の現実なんだ。物語ではなんであんな簡単に主人公が活躍できるんだろう……。実際に異世界へ転移してみろよ。まるで違うじゃないか』
深呼吸して吐く息に紛れて溜め息を漏らす。
『嘆いても仕方ない。田舎から上京して右も左も分からず状態でも、裸一貫で財を成す人もいる。上京先が異世界だったと思って、一から頑張るしかないな。こういうとき、言葉が通じるって本当に助かるぜ』
そう思うと、俄然やる気が出てきた。
ふと目を開けて、向かいに座るクララを見ると、なぜか首を横に振っている。怪訝そうな顔をすると、クララが席を立って耳元で囁いた。
「こういう相乗りのトカゲ車で寝てはいけません。盗難に遭います」
ギョッとして左隣の紳士風の男に目をやると、向こうも横目で見ているので、なんだかスリに見えてきた。レオンは無言で頷き、微笑みで感謝の意を表した。