2.
この世界のドラゴンは人間を食らうと聞いたことがあるので、三つ子の運命は決まったかも知れない。知性を持たぬ獰猛な怪物にとって、人間は老若貴賤を問わず一飲みで終わる単なる肉塊でしかなく、その日の腹を満たす餌になるのだ。
頭が真っ白になったレオンは地面に膝を突き、涙が堰を切って溢れ出て、滲んだ視界に映るドラゴンの姿が色の塊となる。
今この場で役立たずの男に与えられた時間は、己の力で変えられない運命を悲嘆し、嗚咽することに費やされる。
だが、遠ざかるドラゴンの雄叫びで、レオンは我に返った。
「泣いてる場合か? まだ四人の安否を確認してないぞ! 生きてるかも知れないだろ!」
心の中に差し込む一条の光に勇気を与えられ、蹌踉めきながらも立ち上がり、再び走り出して加速する。四人の姿が見えないから、林の方へ逃げたのか? そうあってくれと願いながら。
だが、木立の方へ送る視線は人影を捕らえない。もしも低木の陰に隠れているなら、俺を見つけて無事な姿を見せてくれないか?
その願いも空しく、もう手に負えないほど火に包まれた家にたどり着いてしまった。まさか四人とも家の中にいて互いに抱き合って助けを待っているのではないかと気になり、入り口を開けて中へ飛び込もうとするも、逆巻く炎が恐ろしくて家に足を入れることすら出来ない。
「おーい!! 誰かー!! 無事なら返事をしてくれー!!」
呼びかける声は中に飲み込まれ、答えの代わりに噴き出る熱気と黒煙に行く手を阻まれる。ならば、井戸の水を頭から被って飛び込んでやろうと決心し、建物の裏手へ回る。ところが、
「――――!!!」
口をあんぐりと開けたレオンは叫びが声にならず、激しく驚いて腰砕けになり、派手に尻餅をついてからワナワナと震え、地面に手を着けて後退した。
視界に飛び込んだ地獄絵に、あらゆる希望が粉々に打ち砕かれ、今度という今度は息の根を止められた思いだ。
優しい老婆のマリアと肝っ玉母さんのエマが手前に横たわっている。彼女達の服は鮮血に染まり、広範囲に飛び散った鮮血が粘土質の土の窪みを満たす。
その奥には水牛の大きさで豹に似た黒い魔獣が二匹いて、一匹は子供を頭から胸の辺りまで飲み込み、骨を噛み砕く音を立てながら咀嚼している。エプロンの花柄から、あれは長女リーナだ。
もう一匹は餌を確保したと言わんばかりに次女ニナの身体をくわえていて、これから腹を満たそうとしているところだ。全身血だらけのニナは魔獣が頭を動かす度に、首も手足も力なく動く。二人がここにいるということは、ドラゴンに攫われたのは三女以下の三つ子だ。能力者の三つ子が狙われたのだ。
今朝、マリアは、疲れ気味のレオンを気遣って特別な朝食を出してくれた。エマは、荷車へ乗り込んだレオンの背中を叩き「元気を出しなよ!」と笑いながら励まして送り出してくれた。エマの傍らでは、無口なリーナと、賑やかな三つ子のルイーザ、アロイジア、ブレンダが共に手を振ってくれた。ニナだけは腕を組んで、しかめっ面をし、「車に気をつけろよ。道草すんなよ」と忠告してくれた。
数時間前の何ら悲劇の予兆を感じさせない光景が脳裏に浮かんだが、非情な現実がそれらを鉄槌で打ち砕き、粉微塵となる。
再び襲ってくる嘔吐感。深い絶望と底知れぬ恐怖。
――終わりだ。
帳を下ろすが如く、あらゆる感情が隠されて、全身が虚無感に浸る。
――何もかもが、終わりだ。
異世界最強の魔法使いが得意の絶頂から飢え死に寸前のどん底へ。そこへマッハ家の垂らした糸にすがり、救われたと思ったら、恩人である家族の虐殺で再びどん底へ投げ込まれる。
大家族と暮らすスローライフを第二の人生にと思っていた矢先に、それを家族ごと奪われた。
――畜生……畜生……畜生……畜生畜生畜生!!!
空虚となった心の中で怒りの火が付き、虚無の帳に燃え移り、それを灰燼に帰す勢いで憤怒の感情がマグマとなる。地の底に落ちた反動の如く湧き上がるそれは凶暴化し、全く自制が効かなくなった。
歯が欠けるのも恐れず食い縛り、爪が肉に食い込むほど拳を握りしめ、レオンは地面に拳を叩きつけて立ち上がる。全身の血液が首筋の血管を逆流しそうな激憤の熱は、無力であることの不甲斐なさも、叫ぶことしか出来ない情けなさも焼き尽くした。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
絶叫するレオンの声に、一応は警戒した魔獣どもだが、小柄な少年からそれ以上の脅威を感じず、視線をそらす。
レオンは足下に転がる拳大の石を拾い上げて大きく振りかぶると、魔獣目がけて投げつけた。
力み過ぎて大きく逸れた石はリーナを食らう魔獣の肩に命中したが、痛覚よりも空腹が勝るのか平然として咀嚼を繰り返す。
すかさず、もう一つを投げる。すると、今度はニナをくわえていた魔獣の額に直撃した。
半眼となった魔獣は口を開けてニナを地面に落とし、咆哮しながらレオンに向かってくる。対するレオンは近くに落ちていた手頃な太さの長い枝を槍代わりに拾い、魔獣の口の中へそれを突き刺すつもりで身構える。黒い巨体が徐々に加速しながら迫ってくるその時――、
「はいはーい。良い子は、そこまでよー」
男の裏声が聞こえたかと思うと、レオンの前に執事服を纏った男が突然空気中から湧き出た。頭一つ以上背が高い男を見上げると、黒い双眸を持ち黒髪を真ん中分けにした東洋人の顔立ちの男だ。幽霊みたいに青白い顔で頬がこけて、ギョロッとした目で睨まれると震えが来る。
魔獣の間に割って入ったからと言って正義の味方ではないことは、両手に持つ物ですぐに分かった。血の滴るサーベルを二本持って斜め下に振り下ろしている。この場で誰を切り捨てた後なのかは言うまでもない。
男は素速く振り返って大人しく立ち止まった魔獣を確認した後、すぐレオンに向き直って口角を吊り上げた。
「おーやおや。ずーっと隠れて見てたけど、レオン・マクシミリアンって、ほーんとに魔法が使えないのね。まーだ魔法回路壊れているの? お気の毒ぅー」
この言葉遣い。声色。王宮で聞いたことがある。髪と目の色から、自分と同じく召還された人間に違いない。
「だ、誰はお前は!?」
「あら、やだ。ジロー・カイキを覚えてないの? まあ、あーんたから見れば、雑魚だったから眼中になかったとか? やーねぇ」
口の中で名前を反芻すると、時々宮殿内でオネエ言葉を使うその名前の男がいたことを思い出した。もう少しふっくらした顔つきで、細い目に長髪だった気がするが、今はまるで別人に見える。
「そーの顔、何となーくは覚えているみたいね。あーんたがあそこから追い出されたとき、私も追い出されたの。覚えてない?」
「覚えてないね」
確かに一緒に追放された気がしたが、同意せずに冷たく言い放ったところ、ジローは剣を握ったまま肩をすくめるので、嘘がばれて斬りかかるのかと冷や汗をかいた。
「あーら、残念。あれから、この世界の人間になじめなくて、今はあーんた達が言う魔人にお世話になっているの。用心棒としてね。名前もシュナイダーに改名よ」
「魔人に? 用心棒として?」
「そーいう生き方もあるのよ。あーんたは農民になって漫然と生きていたみたいだけど」
「漫然とだと!?」
「そーよ。違うの? その生き方、胸張って言える?」
最初は力を失って失意のどん底にいる自分に差し出された救いの手に甘えて、無為の日々を過ごしていただけだったが、今は違う。スローライフを堕落でもしたかのように言われる筋合いはない。
「ああ、言えるさ。俺は、ここでみんなと暮らす決心をしたんだ」
「このクソ世界の士商工農の身分知っているわよね? あーんた、世界の頂点から底辺へ転げ落ちたのに悔しくないの?」
「そんな感情は、王宮に置いてきたね」
「そーして深海魚の生活に浸かっていると」
「意味がわからん」
「底辺にいると見えるものも見えなくなるのね。疫病は常に農民から蔓延する。圧政に暴力で立ち向かう。不潔で野蛮で無知で狡猾で――」
「農民のことをそんな言い方するな!」
一喝すると、再び剣を握ったまま肩をすくめるので、またもやビビってしまう。
「ねーえ、魔界に来ない? 優秀な男のヒーラーがいて、回復だけじゃなくて魔力を増幅してくれるの。あーんたの魔法回路も修復してくれるわよ」
レオンは悪魔の誘いに一瞬、心が動く。それが態度に出たらしく、シュナイダーがにんまりとほくそ笑んだので後悔し、態度を硬化させた。
「いやだね」
「強ぉーい力をまた得られるわよ。私たちを勝手に召還して捨てて、人生をめちゃくちゃにしたあの連中に復讐できるのよ。どう? 素晴らしいことじゃない?」
恩人を虐殺した人間が、いけしゃあしゃあと甘い言葉で誘いをかけてくる。唾棄すべき行為だ。
「連中に復讐? それが何の罪もない農民を殺害することとどうつながっているんだ? 殺すなら帝国の役人だろ?」
「ゆーと思った。そこは、私たち、魔人に雇われている身だからさー。上からの指示には逆らえないってとこあるけど」
「指示?」
「やられたらやり返せって」
「あの家族がお前達に何をしたって言うんだ!?」
「も一つ、出来るだけ殺せと」
「絶対に許さない!!」
「何? やる気?」
「ああ」
「あーら、言わせておけば、図に乗っちゃって。無力のくせに何ができるの?」
シュナイダーが瞬時に右手のサーベルを振り上げ、レオンの首の左に剣の刃を近づける。鋭利な金属の冷たさが肌に触れなくても伝わる気がして、首から背筋にかけて電撃のように悪寒が走った。
「きーつけなさい。刀と首の皮との隙間は2ミリもないわよ。ちょっとでも動いたらお陀仏よ」
「…………」
「フフッ。異世界最強も形無しね。あっ、元か」
「…………」
「逆らうなら、このまま左に剣を振るけど?」
「…………」
「なーんだ。やるならやってみろって言う勇気もなくなったヘタレなのね」
「違う!」
「じゃあ、何?」
「…………」
「脱力だわ。まあ、こっちも、あーんたの魔法回路が修復できれば最強の力が手に入るので、来てもらいたいから殺す気はないけど。……もしかして、それに期待かけちゃってる?」
「うるさい! や、やるなら――やってみろ!」
「フフッ。動揺しまくりで笑えるわー」
と、その時、遠方から土を蹴る無数の足音が聞こえてきた。シュナイダーは目だけ動かして接近する集団を確認すると、
「おーやおや、騒がしい雑魚どもが今頃やって来たと思ったら、マイヤー騎士長の軍勢みたいね。凄いのが出張って来たわね。じゃあ、考えておいて。また来るから」
サーベルを下ろして背を向けたシュナイダーは、二匹の魔獣とともに駆け出し、空中に出現した大型で金色に輝く魔方陣の中へ飛び込んだ。その直後、魔方陣は瞬時にシュリンクして消え失せた。
「火を消せ!」
竜騎兵の言葉に振り向くことなく、レオンは地面に転がるニナへ駆け寄り、抱き上げた。首から下の腕、足、胴体が満遍なく噛まれていて、服の破れたところから血が噴き出し、白い骨まで見える。抱かれて手足も首もダランとしているが、胸に手を当てると微かに鼓動音がする。
――生きている!
「ニナ!! しっかりしてくれ!! ニナあああああぁぁっ!!!」
だが、閉じた瞼は絶叫でもピクリともせず、開いた口から流れる吐血が地面を濡らす。
「おい。その子は生きているのか?」
不意に背後からかけられた言葉に、涙が溢れる顔を向けると、頭に竜の飾りを付けた兜を被る兵士が黒い虹彩の目を見開いた。兜のせいで目だけしか見えないが、もしかして東洋人かと覗き込むと、兵士の目が笑った。
「レオン! レオン・マクシミリアンじゃないか! 俺だよ俺!」
「誰?」
「トオル・コウエンジだよ! 一緒に王宮で馬鹿やってたの覚えてないか!?」
兜が外されて現れた懐かしい顔と対面し、記憶が鮮明に蘇る。彼も被召喚者だ。
「お前……なんでここに?」
「最近、こっちの領主様に雇われて竜騎兵やっているんだ。って、積もる話は後だ。その子は生きているのか?」
「ああ。心臓は動いている」
「よくこれで生きているな」
「おい、感心してないで、救護班とか来ていないのか?」
「遅れてくるはずだが、この傷を治せるスキルの奴はいない」
トオルが大袈裟に肩をすくめるので、レオンは瞬時に立腹する。
「ってことは、死ぬのを看取れって言うのか!?」
「いや、待て。知り合いに錬金術師で医師のハロルド・ズルツェンバッハと言うのがいる。俺と一緒に領主に見込まれて雇われ、今はドリッテシュタットに住んでいるが、掛け合ってみるか?」
「錬金術師? それで医者? 大丈夫か、その医者?」
「変わり者だけど、腕は確かだ」
「……わかった。お前を信じる」
「よし。なら、一緒に来い。俺はマイヤー騎士長に掛け合ってくる」
トオルが騎士長に状況を説明し、生存者の治療のために一時戦線を離脱する許可を得ると、自分の竜にまたがってレオンからニナを受け取り、後ろにレオンをまたがらせるとニナを彼に預けた。
「行くぞ! 振り落とされるなよ!」
竜は恐竜のアロサウルスに似て、翼はなく、緑色の固い鱗に覆われて二足歩行し、大人二人を背に乗せて余裕で走れる。気が荒く頑丈に出来ている種属で戦闘向きだ。竜車にも似たタイプの竜が使われるが、そちらは黄土色で大人しい。
レオンは、またがる足から響いてくる振動と冷血動物の体温を感じつつ、必死に祈った。
『ニナ! 生きろ! 生きろ! 生きろ! 生きてくれ!』
左手に命の重みを感じる。揺れで腰が後ろへ滑るので、トオルの鎧の腹に回す右手に力が入る。風を切る音が耳に飛び込み、嵐のように聞こえる。
「頑張れよ! もう直ぐ、ドリッテシュタットだからな!」
そんなトオルの声は、レオンの鼓膜を震わせるも、一心不乱に祈る彼の言葉に割り込めなかった。
事件現場の描写を一部書き換えました。