1.
棚曇りの空の下、ニーダーエスターマルク辺境伯領の第三の城郭都市ドリッテシュタットにある得意先の八百屋へ野菜の搬入を終えた一人の少年が、にこやかな面持ちでブリュッケン村への帰途に就いた。
少年の乗る荷車は、大型のウサギ馬――長い垂れ耳を持つ馬――に牽引されているが、この種属は来た道を迷うことなく辿って戻るほど賢いので、黙って任せておけば家に帰れるから、御者としては街道を我が物顔に走る上流階級の竜車や商人のトカゲ車の煽り運転に注意するくらいだ。この所、金品目当ての山賊も、郊外で農民らを襲う魔人や魔獣も、竜騎兵の活躍で鳴りを潜めているので、道中は物思いに耽る時間が有り余るほどある。
城壁の外に果てしなく広がる長閑な田園風景に迎えられた少年は、後ろ髪を引かれるように城門を振り返った。
「アケミって、召還される前は女子高生だったんだ。制服姿、見てみたいなぁ……」
進行方向へ向き直った少年は脳内で、アケミに似合う可愛い学生服を着せ、若者で賑わう街のモニュメント前に立たせ、笑顔で手を振る彼女に心時めく。
妄想に登場する懐かしい都会の風景。郷愁に強く駆られる瞬間。この異世界に召還されてから擦り切れるほど再生される記憶だが、もう元の世界には戻れない現実が風となって心の中を吹き舞いて、脳裏から霧が晴れるように消えていく。
吐息をつく少年は俯いて瞑目するも、アケミと少し前に交わした約束を思い返し、開いた双眸を輝かせた。
■■■
一時間前、少年が野菜を得意先の八百屋へ搬入する途中、自分の荷車が同業者の荷車とぶつかったことで口論から乱闘に発展し肋骨を折られたとき、八百屋の隣の慎ましい花屋で初めて見る少女の店員が駆けつけ、治癒魔法で完璧なまでに治してくれた。
腰まで届く長さの三つ編みにした部分的黒髪――染めた金髪が伸びて頭頂だけ黒い状態――と黒い虹彩を持つ東洋人的顔立ちの美少女を見て、異世界の住人にはまず見かけない特徴から、自分と同じく召還された人物と推測。異邦人の町で同郷人を見つけた喜びに心が躍り、礼を述べるついでに出身を聞いてみると、大当たりだった。
この町で初めて日本人に出会って治療までしてもらうという僥倖に目が潤む。少女は少年の黒髪、黒目、東洋人の顔つきで自分と同じ境遇であると推測したらしく、居ても立っても居られなくて治療したのだと言い、自分よりやや背が低い少年に年下を見る目で破顔する。
「わたしはアケミ・トーゴー。ホントはトウゴウなんだけど、こっちの人たちがちゃんと発音してくれないから、そう名乗ってる」
「俺はレオン・マクシミリアン」
「あれ? ホントは外国人?」
「いや、普通に日本人。実は、転移のショックで記憶が部分的になくなって名前が思い出せず、咄嗟に思いつきで名乗ったんだ。もっと厨二病入った名前でも良かったけど」
「そうなんだ。中二で召還されたとか?」
「いや、……実を言うとサラリーマンで入社2年目――だと思う。って、ここまで記憶がボロボロなんだけど。さらに、転移したときに体が縮んでこうなったんだ」
「へー。年上なんだ。私は女子校で高二。……ん? さっきから頭見ているけど、気になる? 何このプリン頭って?」
「いや、黒髪が懐かしくて」
「うちも。久しぶりに見たし。懐かしーって。町の連中、なんか変な目でこの頭見るから染めたいんだけど、こっちじゃ売ってないし」
アケミが頭を撫でながら周囲の目を窺うと、行き交う人間も獣人もエルフもチラチラと視線を投げかける。
「確かに。ところで、召還されてどのくらい?」
「こっちのヘンテコな暦で半年」
「5ヶ月か。俺は10ヶ月」
「半年先輩だぁ」
「それで、ここにいるってことは――」
「分かると思うけど、帝国の落ちこぼれ」
アケミが自嘲的に笑うのでレオンも釣られそうになるが、それを堪えて顔に疑問の色を浮かべる。
「ヒーラーは重宝されると思うが?」
「全然。次々と女が召還されて、ヒーラーが掃いて捨てるほど増えちゃって。1ヶ月前に人員整理で王宮から追い出されて、あちこち転々として今朝ここで雇ってもらった」
「このスキルレベルで追い出されたって?」
「レベルじゃない。あの高慢ちきどもに反抗してたから」
「大胆だなぁ。楯突いて殺された被召還者を何人か知っているけど」
「楯突くとヤバいから、適度なサボりで」
「人使い荒い役人の目を盗むのは大変だったろう?」
「ねえ。それより、ズバリ聞いて悪いけど、レオンも?」
「……まあ、そんな口」
実際は、異世界最強の魔法使いを越える弩級の魔法スキルを得たので天狗になっていた。それが、6ヶ月前に、並み居る挑戦者相手に調子に乗って魔法を繰り出しているうちに体内の魔法回路を破壊してしまい、王宮付属の医師から『再起不能』と宣告されて追い出された。この自分のミスで世界の頂点から転落したという惨めな過去を自虐ネタでも曝け出す勇気がなく、話の流れに便乗する。
「ある意味、同じ境遇?」
「……まあね」
その後、1ヶ月間諸国を放浪し、この辺境伯領で山賊に身ぐるみを剥がされ、飢え死に寸前のところをマッハと名乗る農民一家が通りかかり、救いの手を差し伸べてくれた。それからマッハ家で居候の身となり、飯の代わりに農家の手伝いをやって、スローライフも良いものだと思い始め、都会で職にも就かず今に至る。いずれこの身の上話になるだろうと思っていると、アケミの目元が緩む。
「ところで、体が縮んだって、まるであの小一の探偵みたい」
頭が身の上話モードになっていたので切り替えに間が出来たが、久しぶりに聞く「小一の探偵」から得意分野へ話が移行したことに嬉しくなり、早速食いつく。
「あのって、蝶ネクタイに半ズボンで眼鏡かけてる子供のこと? もしかして、アニメ好き?」
「好き。イケメンが出て来れば何でもOK」
「あの探偵はイケメンじゃないけど」
「元の方よ」
「そっち?」
「それ、訊くまでもないと思うけど。レオンは何が好き?」
「俺はファンタジー。アニメもラノベも好きだよ」
「同じ! 紙派? 電子派?」
「電子かな。紙かさばるし」
「うんうん、そうだよね」
これがきっかけで意気投合して一頻り懐かしのアニメの話題で盛り上がるが、アケミがそれまで冷やかしの客すら来なくて暇そうにあくびを繰り返していた犬頭の店主の目を気にし始めた。そわそわする彼女を見て、
「続きは、明日とかどう? 同じ頃にまた野菜を届けに来るから」
「うん、いいよ。今日くらいの時間しか取れないけど」
「十分だよ。じゃ、また」
「待ってるね」
■■■
荷車に揺られながら回想に耽ったレオンは、「待ってるね」と言って肩まで上げた手を振る彼女の笑顔を何度も思い出し、相好を崩す。
「異世界で女子高生とデート……。元の世界では考えられないなぁ」
自分は、縮んで中学生みたいに見える背丈と童顔。異世界に来て10カ月間髪を切っていないので肩まで伸びた黒髪。一家に恩義を感じて少しでも役に立てばと畑仕事を手伝って小麦色になった肌。傍から見れば花屋の姉さんに田舎者の小僧の組み合わせだが、元は女子高生と大人の男という逆転の組み合わせ。彼女に振られる経験多数のレオンは、今度こそ成功するかもと大いに期待し、年下の女子とこれから付き合うことに鼓動が高鳴る。
『うまく話せたよな? 変に思われなかったよな? ……うん、大丈夫。俺の話聞いて楽しそうだったし』
彼女の零れる笑みを思い返せば、気に入られたはずと解釈するのが自然で、幸先が良いスタートに両手の拳を握る。年の差を意識せず、共通の趣味でつながっていきたい。退屈な野菜の搬入作業も楽しくなる。
『それはそうと、あれだけのヒーラーのスキル、もったいないなぁ。花屋なんかにいないで稼げばいいのに。……あっ、それなら』
農作業用の質素な服の袖を腕まくりするレオンは、心の押し入れの奥に仕舞い込んで久しい野望を引っ張り出した。それは、ダンジョンに潜って稼ぐハンターになることだ。
『ヒーラーのアケミと組んで、ダンジョンに潜れるといいなぁ。ゴールインした連中だっているし……って、会って早々何考えているんだ、俺』
右手で後頭部をガシガシと掻きむしる。
『よく考えろ。今の剣術スキルゼロの俺じゃ、ガキが棒っこ振り回しているのと変わんないだろ』
左の掌を恨めしそうに見つめると、自分が繰り出したド迫力の魔法の記憶が大音響と共に蘇り、長い吐息が漏れ出る。
『魔法だって使えないし。能なしには今の生活がお似合いだろ、ってか……』
現実が頭の中を大きく占めるも、捨てがたい野望も膨らんでくる。心が両方を行き来するうちに荷車の揺れが眠気を誘って舟を漕ぎ、頭がガクンと傾いては目が覚める。見飽きた風景は眠気覚ましにはならず、しばらく車が途絶えているから緊張の糸が切れ、睡魔がすぐにやって来る。こうして居眠りやあくびを何度も繰り返し、ついには鼾をかき始めた。
夢の中でアケミに加えて二人の仲間と一緒にダンジョンに潜って、いつの間にか身につけた剣術で魔獣をバッタバッタと斬り捨てていると、眼前に迫り来る魔獣どもの吐く息が、どいつもこいつも生臭いというよりかは物が燃える臭いになっていることに違和感を抱いた。
『……ん? なんか焦げ臭いぞ』
臭いから火を連想し、火は火事を想起させ、焦りが意識を現実世界へ引き戻す。レオンは風が運んできた臭いを改めて嗅いでみると、調理に失敗した焦げ臭さでも、この周辺で時々行われている焼き畑特有の臭いでもないことに気づいた。
「なんだこのイヤな臭い……」
独り言を呟いて風上へ視線を向けると、驚きのあまり息を飲み、全身の肌が粟立った。
視界に飛び込んだのは、黒煙を上げる家と野菜畑に横たわる五人の農民の姿。その五人とも服と大地を鮮血で染めている。眼前に広がる陰惨な光景に目が釘付けになると、胃袋が突然に痙攣を始め、食道を逆流してきたものを抑えきれずに路上へぶちまける。
今は隣国と戦争状態にない。あの残忍な殺戮の手口から、明らかに魔人の仕業だ。以前に大々的な魔人討伐や魔獣狩りが行われて静かになっていたが、警戒が緩んだ頃を見計らって報復に来た可能性もある。
報せにドリッテシュタットへ戻るべきか。否、もう少し進めば居候先の家だ。マッハ家の安否が心配だから、今すぐにでも駆けつけるべきだ。家には老婆に母親に、娘が五人。頼り甲斐がないと言われても、男は自分しかいないのだ。
――でも、今は魔法も剣も使えない役立たず。
そんな奴が、凶悪な魔人や魔獣と一人で対峙したら? 怖気を震って立ち竦み、失禁までしかねないだろう。
――怖い。今すぐここから逃げ出したい。
肝心な時に魔法が使えない屈辱。他人はおろか、自分の身でさえ武器で守れない不甲斐なさ。
――俺に力があれば! あの時の力が!
だが、異世界に召還されて最強と恐れられていた往時を回顧し、凡庸な人間に成り下がったことに臍を噛むのは、今やるべき事ではない。時は一刻を争う。
腹は決まった。
「急げ、急げ!」
そばにあった鞭代わりの棒でウサギ馬の尻を叩いて急かすと、荷車が急加速した。馬が地面を蹴る音と空の荷車がガタガタ言う音が街道に鳴り響く。
一家の無事を祈る気持ちに悪い予感が覆い被さり、背筋が凍る。残酷な運命に打ちひしがれる自分の姿が脳裏に浮かぶので頭を振り、ただひたすら『無事でいてくれ』と念じる。
しばらく荷車を走らせると、戻る家の方角にある林の上から黒煙が狼煙の如く立ち上るのが見えてきた。この方角には家が一軒しかない。ということは、マッハ家の家屋が燃えているのだ。
悪い予感は的中した。
「畜生畜生畜生畜生畜生!!」
運命を呪い、声を張り上げ、唇を噛む。
さらにウサギ馬を急がせたが、林を超えたところで、燃え盛る家が見えた途端、荷車が急停止した。
現実を目の当たりにして血も凍る。だが、これは林の向こうで覚悟していたこと。
「おい! 行け! こらぁ!!」
棒で尻を連打して発破をかけるが、馬は鼻を鳴らして耳を大きく動かし、後ろ歩きを始めた。焚き火の横を平気で通るこの馬がここまで警戒する態度を取るのは、本能が火災以外の危険を察知して怯えている可能性がある。
前進を諦めたレオンは、舌打ちをして荷車から飛び降り、つまずき、足がもつれながらも、ひたすら走った。無事でいてくれという祈りが、みんなきっとどこかに避難しているはずという根拠のない希望的観測に置き換わる。だが、その願いを奪ったのは、家の裏手から飛び立った二匹の小型ドラゴンだった。
一匹が両足で二人の子供を獲物のように掴んでいる。もう一匹は一人の子供を掴んでいる。
三人が攫われた。それも目の前で。
「嘘……だろ……」
茫然自失の体で立ち尽くすレオンは息が止まり、人攫いの羽ばたく音も燃える木材の爆ぜる音も消えた無音の只中にいた。
事件現場の場面を書き換えました。