第1話 二重生活
Side:紫苑
授業終了の言葉を聞いてガライアのレンズを持ち上げる。カチリ、という音と共にAR・MRモードが解除され目の前からホログラムウィンドウとホログラムキーボードが消え去る。
状況も落ち着きようやく再開した大学にも大旅団の技術が取り入れ始めていた。
まずパソコンがガライアへと切り替わった。大学が大旅団の仮施設として使われていたこともあり、優先的にガライアを回してもらえているのだ。教科書もノートもパソコンも、さらにはスマートフォンまでガライアで代用できるため荷物がかなり軽くなったのは利点だ。
小さな鞄を持ち席を立つと真っ先に講義室内の階段を駆け下り扉から外に出る。
白いタイルに反射した強い日差しと押し寄せていた夏の熱気に一瞬速度が落ちる。
目的の場所まで全力で走りだそうとしたその時、耳にメッセージの受信音が届く。ガライアのレンズをおろすと起動音がしていくつかのウィンドウが展開される。視線を右上に向けるとたった今受信したメッセージの文字が流れていっていた。
右手を伸ばすとメッセージウィンドウを目の前に持ってきて展開する。同時に展開されたホロキーボードに手を添えると、今行く、と返した。
「アラキアー!」
坂を駆け下り大学内でもひと際目立つ建物の中に入ると、白衣姿の彼が立っていた。
「よう。急がなくても逃げないってば。ほら、こ……」
「ふぎゃっ!」
転ぶ、と口を開きかけたアラキアの前で派手にこける。
床には何の突起もなく滑るような箇所でもない。
起き上がると呆れたような表情を浮かべるアラキアと目が合った。
「受け身くらい簡単に取れるでしょ、光騎士サマ?」
「しょうがないじゃん。今はただの大学生なんだから」
綺麗な受け身なんかとったら変でしょ、と続けると彼は苦笑する。
「別にそれぐらい光騎士だっていうのはバレてるんだしいいと思うけど。ほら」
差し出された手を握ると立ち上がる。
「じゃあ、行こうか」
今の私たちの身分はかなり複雑だ。
表向きは大旅団に参加していた大学生だが、大旅団内部では『力の象徴』として総司令と並ぶ地位に就いている。
そのため大学に通いながら大旅団の施設にも出入りしていた。
結城がどう働きかけたのかはわからないが、訓練施設として使った大学の施設の一部をそのまま大旅団の支部として借り受けているのだ。簡単な用事ならわざわざ地球本部のある都心まで行かなくても済んでいる。
私服の上から日本イスクの白クロークを羽織ると施設内にある応接室へ向かう。扉の前に立っていた片山に合図を出すと片山は中に向かって呼びかける。
「結城総司令」
「来たかね?」
自分で扉を開けて部屋から出てきた結城は私たちを招き入れる。
机の上に置かれた弁当を私たちが食べ終えたところでようやく結城は口を開いた。
「貴重な昼休みをすまないな」
「いえ、あの列に並ばないで美味しいものが食べれると思えば。っていうのは半分冗談ですけれど」
「ボクはうれしいけど」
「それはさておき、本題に入るとするかね。かなり抽象的な質問だが、今はどんな感じだね?」
結城が言っているのは私たち2人と象徴という存在を結びつけないために行われている情報封鎖のことだろう。大学が再開してまだ半日しか経っていないが、世間から見た感覚では大丈夫そうだった。普通に考えれば象徴の正体が普通の大学生とは思わないだろう。
問題はこれから始まる学生生活と大旅団員としての職務に追われる日々だ。
大旅団が裏で手を回してくれているとはいえ、表向きは他の学生と同じ生活をしなくてはいけない。一番わかりやすい例が課題と出席だ。特に講義への出席は他の学生を誤魔化しきれるものではない。
そこに大旅団の書類作成や会議への出席が入ってくる。
そして『象徴』として表舞台に立つという仕事も。最悪、光騎士として象徴の護衛につくため数回ならば休めるだろうが、そう何度もできるわけではない。容赦なく留年判定が下されるだろう。
「象徴という存在自体はうまく浸透していっているだろうな。それについては予想以上の成果だと思うがね。だが、強制選択の時のように頑なに受け入れない人はいる。強制する気は全くないのだから別に構いはしないのだが、最も厄介なのは実際に自身の目で確かめないと認めないと言っている人たちなのだがね」
そう簡単に表に出したくないのだがね、と結城はつぶやく。
「……スケジュール」
ただでさえ平日は講義。うまく課題を処理できたとしても自由に動けるのは土日の2日間のみだ。
大学が再開するまでは職務に専念できていたが、これからはそうもいかなくなる。私たちが大学生活を諦め大旅団に集中すればいいだけの話だが、情報操作の観点から考えてもそれは避けさせたいという話だった。考えてみれば真っ先に家族に疑われることは間違いない。家族だけならばまだいい。
「同じ学部ならまだしも、違いますからね。仮に無理やり全休をつくったとしてもあいませんね。急に『公務』を入れられると、ちょっと」
「転移装置を設置するという案はアストレ君から叱られてしまったよ。……ただでさえ激務だとね」
「やっぱりスケジュールに関しては時間が必要そうですね。というわけで後で話し合いましょう」
「そうだな。次の議題だがアルマ君、クレアレアのエネルギー供給はどうだね?」
「……それについては大丈夫。安定してるから」
意識せずともクレアレアの流れに異常があればすぐにわかる。
世界中で複雑に絡み合っているが、今のところは何の異常もない。新たな災厄の心配もない。
「いつでも、できると思うよ」
私の言葉に結城は満足そうに頷く。
クレアレアによる通信網はこの半年でほぼ完成した。未だに大旅団艦内の水準には遠く及ばないとはいえ、一般向けモデルのガライアを使用するくらいなら問題ない。
そして、アレをしても。
「では、また週末に」
昼休みが終わる頃、ここで話し合えることをなんとか話し終え応接室前で結城と別れる。
その時結城は思い出したように声をあげ私たちに言った。
「ああ、そうそう。君たちは体育系の実技を取るのは禁止だ。いいかね?」
「ふえ?」
「イスクが普通の人間の中に混ざってスポーツをしているところを想像したまえ。……特に君たちのような、いや、私もだが」
「あー……」
この2年間、大旅団の戦闘部員として戦ってきたがそれは私がイスクだったからだ。イスクの身体能力は普通の人間をはるかに上回る。
そんな人の中で生活してきて基準が以前とは異なっている。これは大旅団員全員にいえるだろう。
どんなに屈強な軍人やオリンピック級のメダリストといえど、ただの人間ならば下位のイスクの足元にも及ばない。せいぜい身体能力面のみを見るならばトゥルーエとアスリートがいい勝負をするだろう。
私やアラキアも例外ではなく、クレアレアを完全展開しているときは元より、完全展開しなくとも無意識のうちにその能力は出るはずだ。
「……わかったよ。まあ、取る気はなかったけど」
「そういうことだ。では」
片山を連れて去っていく結城を見送ると、すでに講義開始時間ぎりぎりだった。
「アルマ、次はどこだ?」
「……坂の上、の奥」
アラキアは、と視線を送ると私と同じ方向を指さす。
共に『普通』に行っては間に合いそうにない場所。
私たちは顔を見合わせると結城に心の中で謝りつつ全速力で坂を駆け上った。飛ばなかっただけ許してほしい。