Träume sind Schäume—die Tiefsee
――――人魚姫は嵐の夜に、助けた王子様に恋をしました。
彼女は魔女に頼んで、声の代わりに足を貰いました。魔女は言いました。
「王子がアンタをふったらさ、アンタは海の泡になる。良いね?」
姫は首を縦に振って、勢いよく浜辺へと泳いでいきました。
この人魚姫は、きっと浅瀬に住んでいたから、王子様に出会えた。光があったから、きっと、その光の先を目指せたんだ。その先にあるものだって、明確で、綺麗だった。
私は瞼を擦って欠伸をするフリをする。一度だって空気に触れたことが無いから、欠伸という空気の交換行為は「するフリ」にしかならない。でもまあ、私にとっては海水こそが空気何だし、ぶっちゃけ欠伸って言っても差し支えないと思うんだ。
「あーあ」
と、私は空気の代わりに水を喉で震わせて、独り、欠伸の効果音をつける。私に今出来ることは、それくらいしかないから。
深海の、光などほとんど無いこの暗さに、私はもう慣れていた自分の手元に何があるか、どこに何が集まりやすいか、理解していた。朝食等の食事を摂る必要性を感じないので、皿やカップ、フォークやナイフの類は無い。本はただ溶けていくだけの代物なので、本棚も無い。流れの少ない海の底。その辺でただ漂って寝れるので、ベットもない。足がなければ座る意味もないので、椅子も机もない。結論、ここには「人魚姫」に必要な私物は何もないのだ。
あるとすれば、上から降ってくる、クラゲの粘液が絡め取ったプランクトンや、オキアミの死骸、魚の骨のカス、色々混ざってキラキラ光る、深海のお星さま、雪のようにも見えるから、人間はマリンスノーと呼ぶ。確かに、アンコウやセンハダカの光をわずかに反射させ、雪のように落ちてくるのは美しい。そもそも光るプランクトン何かもいるから、それらがフワフワと落ちてくるのも綺麗だ。
けれど、ここは綺麗なものだけで成り立っているわけじゃあない。上から降るものはもっと他にもたくさんある。いや、降ってくると言うよりは落下してくる、と言う方が正しいけれど。
崖から落ちてきた大岩に、小石、砂利。
力尽きて死んだクジラとてつもなく大きな死骸。私は食べたことはないけど、クジラの肉は脂が多くて美味しいんだそうだ。ヒゲクジラの種類は、その特徴であるプランクトンを漉し摂るための、歯が進化した髭が、ブラシやゼンマイの類によく使用されていた。昔はクジラ一頭が上がれば、一つの港が活気づいたとも聞いたことがある。
その事を一体誰から聞いて、何処から知ったか、私は知らないけれど。そういうことを、私は何故か知っている。生まれついての知識じゃないことは確かだ。人魚姫の物語を知っているけれど、あれはただの御伽。人間が作ったもの。私はこの深海にいるけれど、その深海で知り得ることではない、人間の情報を、私は欠けたパズルのピースの如く、腕いっぱいに、零れそうになるくらい持っている。でもその中に、自分に関する事が無い。
私は、ウミユリ。ウミユリという名前の人魚。足が無い代わりに、魚の鰭をもっている。
ウミユリの本当の意味は、生きた化石とも呼ばれる、棘皮生物の一種。現代では深海の海底にしか住んでいないので、地上の人間たちは滅多に生きている姿を見れないという。化石は特に二億五千万年前の地層において集中して見つかっている。最古の化石はバージェス頁岩……カナダのバージェス山付近のある海底崖の痕跡が残る地層、それを形成する岩の中から見つかっていて、その岩は大体五億五千年前の生物を閉じ込めていると言われている。その堆積層の中には有名なオパビニア、マーレラ、アノマロカリスとかも含まれていて、ウミユリがカンブリア大爆発の中で発生したとわかる。
そこでふと、私は少し、思い出したことがあった。今、私ウミユリは深海でしか過ごしてない。古代生物のウミユリも、今では深海にしか生息できない。環境の変化が深海は乏しく、環境に殺されないからだ。でも古代生物ウミユリは、大昔は浅瀬でも生きていたらしい。なら、同じ名前を冠する私も、昔は浅瀬で生きていたのかな。
そう考えると、少しウキウキして、妄想を広げる先が新しくなっていって、とても楽しい。
この深海という場所は、何度も言うように環境の変化が乏しくて、環境に殺されることは少ない。その種が絶滅する、ということがほとんどないのだ。生きた化石と並べられるものも、深海に多い。有名なのはシーラカンスのラティメリア・メナドエンシスと ラティメリア・カルムナエ。魚類で行けば、ラブカっていう古代サメもいる。サメ路線ならミツクリザメ。口が怖いと言われているけど、私はあの顔は愛嬌があると思う。
この前、大きな大きな蟹も見た。確か、あれも生きた化石だった。そう、タカアシガニ。足だけ凄く長くて、突っついたら折れてしまいそうだったから、触れようとは思わなかった。
まあ、どうせ深海に住んでる生き物はそんな軟なことで死ぬことはないんだけど。
私が覚えている限りの沢山の生き物を、脳味噌をフル活用して思い出していたら、ハッと、ある場所を思い出した。
深海は降ってくるものばかりじゃない。下の、地の底から湧き出るものもある。そうだ、『今日』はそれを見に行こう。あそこは唯一ここらで変化が起きる場所だ。
――――海底火山。水圧で押され、あまり大きく噴火はしないが、明るく熱い溶岩が吹きこぼれている場所。噴き出し、冷え固まり、堆積したものはまた地に帰り、溶け、噴き出し、冷え固まる。その繰り返しの世界。変化があるかと言えば地上に比べれば無いが、深海にしてはある方だ。たまに大噴火起きて地形変えるし。何より、深海の中では一際明るく温かい。冷えた暗闇の中の、少しのオアシス。
と言っても、大噴火がいつ起こるかわからないので、溶岩には巻き込まれたくない私は、ある程度遠くからそれを眺めるだけだけれど。
赤い光が零れては冷えて消え、また零れた光が冷えた塊を覆う。繰り返しの温もりを感じながら、昼も夜も無いこの世界に漂っていた。今の私に、出来ることはそれくらいしか思いつかなかった。
――――王子様は勘違いで、人魚姫ではなく、他の女性と結婚する事になりました。
声の無い人魚は、自分が王子様を助けたのだと、伝えることが出来ません。
王子の結婚式前夜、姉の人魚達が船の上にいた人魚姫のところにやってきて、言いました。
「何て可愛そうな人魚姫」
「人間何て愚かな生き物を好いてしまったばっかりに」
「泡になってしまうなんて、許せない」
「魔女と取引したのよ」
「髪を引き換えに、魔法の短剣を」
「これをあのバカ王子の胸に刺して」
「そうすれば、人魚に戻れる」
「また一緒に、泳ぎましょう」
一つの綺麗な短剣を彼女たちは、船の甲板に投げ込んで、海の中に戻っていきました。
人魚姫はそれを拾って、王子の部屋に足を進めました。
少しの居眠りの中、人魚姫の物語を思い出した。でも、いつもこの先が思い出せない。人魚姫は、結局、あのバカ王子を殺したのだっけ?
一つだけ言えることは、人魚姫はこの時点ではとても幸福で満たされているということだ。後戻りする権利がある。彼女には、自分の髪を犠牲にして助けようとしてくれる人……人魚がいる。そして、姉たちは判断を自分に任せてくれる。任せざるを得なかったという可能性もあるけれど。
私は孤独だ。
王子様を見つけることもない。私が私であることを、誰も認めてくれない。認めてくれる人がいない。今更こんなこと思っても仕方がないけど。目を凝らして、私は尾びれを動かしてその場から泳ぎ去る。目の先には、煙のようなものと、白く動く大福のような何か。
私はここが一番好きだ。溶岩にある程度近く、いい感じに明るくて、熱水が噴き出しているから暖かい。そんなことよりも一番の理由は、生き物がいつも密集しているということだ。なんとなくではなるが、そのおかげで私の中の孤独感は薄れる。深海の大福ことユノハナガニは、チューブワームを食べる姿が愛らしい。この場は明るめとは言えど、深海らしい暗さではあるので、彼らは結構動き回る。一度、少し遠いところで死んでいたミツクリザメの肉を近付けたら、わらわらと群がって、すぐに食べつくされてしまった。目が退化している分、嗅覚が鋭く、サメのようにアンモニアの溜まった肉ならすぐわかるらしい。今日はそんなお土産も持っていないが、群がっている中から一匹だけを掌に乗せた。深海の高い水圧に耐えるための硬くて丈夫な甲殻。白くてすべすべな、卵の殻のような見た目の質感だが、実際にはそんなの比じゃないくらい硬い。人間ならば深海の水圧でブチュリと潰れてしまうけれど、この硬い殻なら潰れずに済む。
他にも、深海生物はここで生きていくための体の工夫をしている。硬の守りだけでなく、柔の守りを持つ子達だっている。深海クラゲやメンダコなんかは、ゼラチン状の体で海水を多く持ち、水圧に対応する。
あぁ、そうだ。メンダコを久しく見ていないんだ。
そう思って、手にカニを持ったまま、少しだけ海上に浮上した。海上と言っても、海は深水二百メートル以上なら全て深海だから、どうせ深海には変わりないんだけど。暗闇に慣れ切っているこの目なら、案外、暗いところでもなんでも見える。私は辺りを見回し、フラフラと遊泳を始める。
メンダコのあの、生まれたばかりの猫のような耳のような部分は、最早正義だ。つまり、可愛いは正義。わかりやすくて助かる。
しかし、私の前に、可愛い可愛い癒し系は現れない。辺りに、マリンスノーが多めに降ってきた。
「もう帰ろうか、ユウ」
勝手に、ユノハナガニに「ユウ」と名付け、逃げないように手の中に包み、鰭を動かして、また、深い深い海の底に堕ちていった。散歩はもう御終い。することはもう無いから、私の「今日」も終わり。時間、昼と夜何て概念、ここには存在しない。私が「終わり」と思ったら、その日は終わり。変化何て皆無。
寝床のようなところで、目を瞑る。次目覚めた日、幸があることを願って、胸元に手を当てる。ユウを胸で軽く握りしめた。ユウは暴れることなく、私の皮膚をハサミで軽く擦った。それが意外にも心地よくて、ウトウトと眠りにつく。
――――突然の事だった。体がとても痛くて、重くて、もう足場何てあっても、沈んでしまうと思った。高いところに上った。誰もいなかったから、何もかもが「アタシ」の中で無になってしまって、上から下を見れば、下から上を見るよりもその高さを理解できた。人間が一番恐怖する高さは、十一メートルだと何処かの本で読んだ。最後まで私は笑えなかった。階段を一つ一つ、踏みしめていった。後ろには誰もいなかった。
カン、カンカン、と、金属の打ち鳴る音が聞こえてきて、現実に振り帰る。
あぁ、そこにいる、貴方は、
ハッと目を覚ます。今は何時かしら? あぁ、違う、ここには時間なんてなかったんだった。そうだった、目覚めの悪さはいつも通り。
さて、今日も「私の一日」が始まる。
今日こそ、私はメンダコちゃんに会いたくて、また少し浮上する。昨日のユノハナガニのユウはまだ私の傍にいたいらしく、私の髪に足を絡ませてくっついていた。
真っ赤な私の天使、メンダコちゃんは群れを作らないので、一匹一匹を探索で探すしか方法がない。漂い続けフラフラと行く。何処にも休む場所はない。深い深い海の底の、その海中は、ただ、海水しか無い、地平線と言うんだろうか、そういうものに近い、暗い先しか無い。底も暗ければ、右も左も暗い。辛うじて、うっすらとではあるが、頭上は明るみがあった。
少しだったら私も勇気を出して良いだろうか。そんなことが私の頭を過って、尾鰭を底に向けて動かして、浮上する。ユウは地上でも生きられる深海生物だ。底に落としてしまうのも可愛そうで、肩で安全確認が出来る辺りの髪に絡ませた。案外彼は暴れる様子もなく、私から離れようとする素振りも見せない。
水圧は軽くなってきているのが解る。けれど、そこまで来ると私の鰭は痛む。ずっと動かしている鰭と、それを支えるための背骨は、動かす度にギシギシと軋むようで。もう諦めてしまおうか、と考えた。
いや、何を? 何を私は頑張っているの? 何で上に行こうとしているの?
上には何もないことを私は知っている。島の痕跡があれば深海から続く崖があるはずだ。船が止まっていれば錨が見える。でもそんなもの何処にも見えはしない。何処にも縋りつくところが無いのは明白だった。
でも何か、私は諦めてはいけない気がする。海面に顔を出し、窒素と酸素と二酸化炭素、その他諸々の気体と粒子を肺に直接取り込むことを。誰かに言われたわけじゃない。何故か私は今になって突然、空を見てみたいと思った。力尽きて沈んでしまっても、ここでは重力何て関係が無いのだから、諦めても失うものは何もないはずだ。
よくわからないものに押されてゆっくりと浮き上がる。少しずつ辺りが明るくなってきた気がする。でも暗いことには変わりがないから、まだ深海なのには変わりない。
――――ボコリ。
下から湧き上がってきた突然の奇妙な音に、すかさず身を守ろうとする。自分がいた深海に目を凝らす。ボコボコボコリと音を立てて湧き上がるのは、沢山の気泡。幾らか私の肌に触れて割れたけれど、特に臭いはしなかった。したとすれば、生臭い魚の腐った臭い。腐敗ガスが浮き上がったにしては、あそこの近くには死んで間もない、これだけの量のガスを発するような大きな死体は無かった。
気泡と同時に大きな気配も感じる。頭が少し痛い。
――――コカカカカカカッカッカ……カカカカカカコ……
何処かで聞いたことがある、この音。クリック音。超音波に近い、哺乳類の生きた潜水艦が使う、あの音だ。私がいることを理解しているだろうか。わからないが、彼らは大きい。私のような小さな人魚の事なんてわかっていない方があり得るだろう。
恐怖か好奇心か、私はその場を動けなくなった。正確には、その場を制止するようにしか鰭を動かせなくなっている。来るクルくる。アレが来る。
クリック音が大きくなる。深海生物ではないにしろ、アレの存在は大きい。
遠目に見える白い傷跡。青をベースに黒を足したような体色。額は脳油の塊を抱えているため大きい。その脳油を温めて、今、アレは浮上をしている。気泡は一段と密度を増す。これだけの気泡を出しているところを考えると、海上まで一気にスピードを上げるつもりだ。
アレ、こと、生きた潜水艦、マッコウクジラ。彼は私を跳ね除けるほどの水流を巻き上げて、私の横を過ぎ去っていく。
「ユウ!」
ユウが危うく私の髪から離れてしまって、深海に落ちて行ってしまうところを、寸ででキャッチして胸に抑える。マッコウクジラはそんなの気にせずに海上に勢いよく浮上していった。所々に藤壺が見えるところ、かなり年は食っている。
一つ、私は良いことを思いついて、ユウをしっかり髪に噛ませて泳ぎだす。向かうはマッコウクジラ。幸い大きいこともあって、まだ尾鰭は見れない。更にラッキーで、藤壺がしっかりとついた場所があった。
「疲れてるの、少しごめんあそばせ。鯨さん」
藤壺に手をかけて、マッコウクジラに張り付く。悠々としつつもしっかりと海上に上がっているのが、私にかかる海水の圧でわかる。今張り付いているのは胸鰭近く。案外早く上がっているから、下手に動けば振り落とされる。
耳元でクリック音と、海水の動く音がゴーゴーと鳴る。少し頭は痛いけれど、何とか大丈夫だ。ユウも髪にしっかりとハサミをつけて、離れる素振りはない。
「このままお空が見えるところまで連れてってくださる? 人魚姫のお願いよ」
マッコウクジラは私の言葉が解るのかどうかはわからないが、少しスピードを上げた気がする。苦しいんだろうか。少しづつ明るくなっていく海中。音はもう気にできない。
海の上に行ったら、何がある。急に襲う不安感を、好奇心に変えようと思った。
海の上に行ったら、大きな鳥がいて、道を指し示してくれるのよ。いいえ、一番に見つけたものを追うのよ。空に行くものは陸上へと渡るもの。何もない空にずっと飛んでられるわけではないんだから。海のように重力のあまり関係のない場所ならいいけれど、空には地上と同じだけの重力がある。重力は味方で敵だ。地に足をついてられるようにしてくれるけど、それ以上の場所に行こうとするのを拒む。動物が進化する上で一番過酷だったのは重力を突破して地上に行くことだった。
そんなことを考えていたら、もう海中は光に満ち溢れていた。フワフワとする感覚。上を見上げると、マッコウクジラの頭の影が、太陽の光でクッキリと出ていた。目が少し痛い。明るいところに少しずつ慣れてきてはいたけれど、やっぱり、初めての太陽は海面越しでも痛い。肌もチクチクする。それにここは暑いくらいに暖かい。太陽に直接海水が温められているからだ。局所的な温もりでない。
でも辺りを見回しても、何もないのは予想通りだった。今はマッコウクジラの藤壺だけが頼りだ。そこそこに私の尾鰭も回復してきたけれど、出来るだけ楽はしたい。
さようなら、深海。こんにちは空。そんなことがふと、思っただけで実現する何て、夢のようだ。なら、ここは夢か? 違う、夢ならこんな暖かさ感じないし、藤壺で切れてしまっている指が痛むこともない。
マッコウクジラは海面にギリギリ近づいて、頭上の気孔だけを空気に触れさせる。思いっきり深呼吸するように、彼は息を吸った。
私も息を吸ってみたい。そう思って、藤壺から手を放して、海面から顔を出して、
「ゲホッ……エ゛ッ」
――――暗い、木と線香と、冷たい花の臭いが充満した中で、息を吸った。
意味が解らない。寒い。ここはどこ? 痛い、肌が、火傷みたいに痛い。身動きのとりにくい箱の中に自分がいると理解する。その動きにくい体を何とか動かして、言うことも聞かない体を動かして、一番痛い腕の関節部の柔らかい部分の皮膚を触る。ガサガサ、トカゲの鱗のような、血で滲んでいるのか、少し湿り気があるが、それは正に鱗だ。いや、実際には、硬くなった角質が剥がれて、逆立ち、鱗状になっているのだ。
「一心頂礼万徳円満釈迦如来真身舎利本地法身法界――――」
お経が聞こえる。確か、このお経は、
「仏加持故我証菩提以仏神力利益衆生発菩提心――――」
ゴウ、と、炎の上がる音がする。東京の火葬で使われる火の温度は……何て、考える意味ない。
「あ、あぁ……開けてぇ!」
掠れている声とも言えない音を振り絞り、叫ぶ。上手く動かない体を動かして、妙に立派な私の棺を叩く。
あぁ、思い出した。全部、全部、思い出した。
「助けて! アタシまだ死んでない! 開けて!」
堕ちたんだ、間違えて堕ちたんだ。深層心理、海に、深層に。そう、足を滑らせて、もう、あの人に、自分から落ちないって誓ったのに、落ちてしまった。
「助けてぇ……ねえ……」
奇跡が起きたんだ、死がひっくり返る。脳はコールドスリープ状態になっていた。あの海の冷たさなら、そうならないこともない。あぁ、今更そんなこと考察しても意味がないのに。
ドンドン熱くなる、ドンドン叩く。肌が割れて痛い。死に化粧が酷く滲みる。
「ユウ……謝るからぁ……助けてぇ……」
熱が私の身を焼くのが分かった。
そうだ、最後、人魚姫は…………
「知ってる? 外れの火葬場の話」
クラスメイトの女子が、教室の端で話しているのが耳に入る。
「聞いた聞いた。遺体の生前の婚約者が発狂したんだって?」
「そう、『ユリの声が聞こえる! 生きてる!』って叫んだんだって」
この前火葬場に運ばれた遺体の名前は、ユリというらしい。そこまでの情報漏えいがあると、流石に笑いもこみ上げてくる。
「でもさ、噂なんだけどね……」
女子の一人が、少し青い顔で言葉を紡ぐ。
「他の人も、火葬する前としてるとき、何か叩く音を聞いたんだって……嫌だよね、生きたまま体を焼かれるなんてさ」
昼時だったこともあり、流石にそこは笑えないと、日比谷は、田町のお喋りに耳を傾けた。田町はしきりに荒川へ目を向けて話している。
「そういやぁさあ、昨日の夜に天草がな!」
あり得ないほどに、今日は晴天で、空が青いのが、窓から見える風景でよくわかった。