だから田所里さんはこおろぎなんかじゃないってば!
◆
告白の返事は「私はこおろぎだからあなたとは付き合えない」だった。
黄昏時。中学校の自転車置場。
僕の視界の隅では、秋風が紅くなったもみじの葉を宙に舞わせていて風情たっぷりだったが、こちとらフラれているのでそれどころではない。今の僕に必要なのは風情なんかじゃない。愛だ。
頭ひとつ分下の角度から、凛とした涼やかな目が僕を見上げていた。
その目には一切の負の感情が見当たらない。怖いぐらいに冴え冴えとした瞳である。告白を断るのだから、建前だけでも申し訳無さそうにしてほしいものだ。
「当たり前でしょ?」
彼女は息を短く吹くと、自信たっぷりに笑った。
それは言葉通り、自分の言っていることは当たり前のことだから、当然受け入れられると確信している笑みだった。
彼女はセミロングの黒髪ツインテールの中程を、右は右手で、左は左手でそれぞれにつまんだ。そして、それを自分の眉の上に持ってくると微笑を壊して、キッと強い目線で睨みつけてきた。
「あ、そっか。私に告白するなんて変だと思った。私のことからかってるんだ?」
絵面だけを見れば、どう考えてもからかっているのは彼女の方なのだが。髪で作った触覚を構えて威嚇のポーズ。馬鹿みたいに真面目にこちらを見据えてきた。
僕は両の手のひらを彼女に向けながら、してもしなくても変わらないような弁解を始めた。
「田所里さん、僕は真面目だよ。去年の入学した日、同じクラスで君を見た日からずっと、好きだったんだよ。田所里さんはこおろぎなんかじゃないよ?」
動揺を押し殺してようやく発した僕のセリフに、彼女は威嚇のポーズを崩さないまま応えた。
「あなたは私が秋の虫らしく器用に鳴かないからこおろぎじゃないと判断したのだろうけれど、生憎私はメスなのよ。こおろぎはオスがメスを呼ぶために鳴くの」
「違うよ、ぜんぜん違うよ。僕が田所里さんをこおろぎじゃないと思ったのは、君が人間だからだよ」
田所里さんはむっとした表情で「理不尽なことばかり言わないで!」とすごく理不尽に僕を怒鳴った。
彼女があまりにあんまりなので、僕は自分がかわいそうになる。
思春期男子の暖かな夢が、遥かな希望が、輝かしい未来が、支離滅裂な彼女の言動に蹂躙されていく……。
どうして僕は田所里さんを好きになってしまったんだろう。
そこまで彼女が自分をこおろぎだと言いはるのなら、もうそういうことでいいんじゃないかな、という気分になってきた。
生まれて初めて告白してフラれたわけだけども、相手がこおろぎだったらノーカンでいいよね。クラスで噂になってないかびくびくしたりしないでいいんだよね。こおろぎが好きって言っても、あくまで鈴虫と比べての話だし、あははは。
そうだ。彼女はこおろぎなんだから、今度特大サイズの虫カゴを作って捕獲してみよう。
現実から逃げようとした僕だったが、怒鳴って歩き出した田所里さんは二足歩行で歩く中学二年生の女子なので、彼女が人間であることは間違いないように思われた。
僕はフラれたショックはひとまず隠して、友人の悪霊に言われたとおりに、自分のバッグからナスを取り出す。
「おーい、田所里さん」
自分の自転車を探して右往左往する田所里さんに、僕はナスをかざして叫んだ。
「明日、一緒にデートしようよ!」
「くっ、こおろぎにナスに抗うすべはない……」
田所里さんはそう言いながら、天にかざした僕のナスにぴょこぴょこと飛びついてくるのだった。
◆
僕の友人に工藤という男がいた。過去形なのは、彼が去年の秋に逝ってしまったからだ。
工藤は田所里さんのことが大好きで、多分僕よりも大好きで、この学校の半数を占める『顔がよければ性格なんて気にしない田所里さんファン』の男子達の誰よりも好きであった。工藤は田所里さんを振り向かせるべく、こおろぎの生態について調べまくっていた。ちなみに田所里さんは入学した時から自分のことをこおろぎだと言い張っていた。入学式の後の自己紹介では『田所里秋穂です。こおろぎです、きりきり』という、道端のこおろぎが聞けば泣いて喜びそうな、ある意味で完璧なものだった。人間社会で通用したかは置いておいて。
その後の田所里さんは、本人の主張も虚しく、その美貌の為にこおろぎには全く興味を持たない男子たちに次々と告白されていった。
バラの花を送ったやつもいた。自宅まで押しかけたやつもいた。フラレてもフラレても挑戦しまくるヤツもいた。
でも、いつも田所里さんの返事は『私はこおろぎなので――』だった。
大抵の男子はその返事を聞くと諦める。
『ふざけた返事はこちらを傷つけないための配慮なんだろう』と田所里さんへの愛情をなくさないやつはまれで、『この女頭悪い』と負け惜しみを言いながら諦めるやつが大半だった。すっぱいぶどうみたいな心理だと思うけど、田所里さん的には後者の方が後腐れなくていいのかもしれない。僕個人としては、『いい友達でいましょう』なんて中途半端な返事よりは救いがあるような気がしないでもなかった……昨日までは。
まあ、実際自分が言われてみると馬鹿にされているようでいやだったけども。
このように、田所里さんの容姿に惹かれて告白した奴はたくさんいて、その反応はわかりやすく分類できるのだが、ただ一人だけ他の誰とも違うリアクションを取った人間がいた。
それが、工藤だった。
工藤はフラれる時にその言葉を聞くやいなや、四つん這いになり、裏声を使って大声でこおろぎのように鳴き始めたのだ。
工藤の告白した場所は中学校の中庭だった為、突然の奇声は放課後の校舎に残っていた生徒の目を引いた。
工藤は生徒会に所属している真面目で成績優秀な好青年であり、将来を嘱望されていただけに、この時の光景は誰の目にもにわかには信じがたいものだった。僕にもだ。
後に工藤に聞いた話では『田所里さんが自分はこおろぎだから人間と付き合えないって言うなら、俺もこおろぎになればいいと思った。四つん這いで夢中になって叫ぶことが、彼女の言葉に対する何より真摯な反応だと思った』と言っていた。すっかり黒歴史になっているだろうと思ったのだが、まるで照れるでもなくそんなことを話していて、そんな様子は不覚にもちょっと格好いいと思ってしまった。
そして、真摯な反応をされた田所里さんは、発情したこおろぎと化した工藤を残してダッシュで逃げ出してしまった。誠意の欠片も見られない逃亡にちょっと工藤がかわいそうになる。
あの時……。
不意に流れた撫ぜるような優しい木枯らし。中庭のもみじの淡い配色。『キリキリキリキリ!』と切なく嘆いた工藤の声。
いつまでも忘れられそうにない。
もう一年近く前のことだ。
◆
『越冬するこおろぎはいない。どうしたものか、きりきり』
それは工藤が生前よく呟いていた言葉だった。
それは失恋のショックからなのか、何かに目覚めてひたむきにこおろぎらしく生き、こおろぎらしく死にたかったのか。
工藤はある日突然心臓麻痺でパタリと逝った。迫り来る冬の寒さに怯える工藤は死にたがっているようにさえ思えたので、気合で自分の心臓を止めて自殺したのかもしれん、と僕なんかは疑っていた。
あれから一年近く経った今も、「工藤は馬鹿なやつだったなあ」と思いながら、ふよふよ浮遊霊として僕の自室までついてくる工藤を僕は馬鹿にするのだ。
「そんなばかなことをぼやぼや考えてたから成仏できないんだ、ばか!」
明日の田所里さんとのデートに備えて一人ファッションショーを終えてくたくたになった僕の傍らで、足のない工藤がうねうねとウネリながら言い訳を始めた。
「違うよ、俺一回成仏したもん。ただ、あっちの世界が超高齢化社会で、囲碁も将棋も飽きちゃったからこっちに戻ってきただけだし。その気になればいつだって成仏できるしー」
「本当に?」
僕はソファーの背もたれに足を投げ出して、ぶっきらぼうに聞いた。
「それと、田所里さんに悪い虫がつかないか心配だったのだ。きりきり」
「田所里さん! そう、田所里さんだけどなあ、なんかおまえの言うとおりに告白したらフラれたんだけど、僕、田所里さんと本当に上手くいくの?」
「おまえ、幽霊疑ってっと、呪われて祟られて撲殺されんよ?」
「だって、おまえが……」
数日前、ふっと再び浮遊霊として僕の前に現れた工藤は、僕にある予言をしたのだ。
『おまえ田所里さんとキスできんよ』
僕はにわかには信じられなかった。なにもかも平凡でなにに対しても努力もせず、帰宅部としてアイスをぺろぺろしながら日々を過ごしていた僕に、そんな幸運が舞い降りてくるわけがないと思った。僕の日常に見合う幸運はガリガリくんで当たることぐらいなものだと思っていたのだ。
「おれの言うとおりにしてたら、明日デートの約束できたろ? 任せとけって」
そう言いながら「クックック」と笑う工藤には、生前の好青年の面影は微塵もなかった。
野菜を餌にいいように田所里さんを操ってどうしようと言うのだろうか……。
そして、田所里さんを餌に僕を操って何を企んでいるのだろうか……。
元好青年、現悪霊の工藤を僕はどうにかしてやりたかったが、故人を貶めるのはよくないのでやめておいた。「工藤をどうにかしたら田所里さんとキスできなくなっちゃう」とか全く考えてないので、余計な詮索は無用である。
「なんかおまえ軽くなったな」って工藤に言ったら「幽霊だからな」って返ってきてドヤ顔されたのでむかついた。
◆
「やあ、田所里さん! 待った!?」
僕は駅前で空高く飛沫を上げている無人の噴水に駆け寄った。
リハーサル通りの精一杯のスマイルと爽やかな第一声。秋の陽射しは明るくて、ドラマのワンシーンで採用されてもおかしくないようなロケーションだった。これで田所里さんがその場にいたら完璧だったと思う。
もしかしたら近くの植え込みの土中から『暇だから雑草食べてた』とか言いながらもこもこ現れるかもしれないと思ったのだが、単純に遅刻らしい。
時計を見れば一時ピッタリだ。昨日、自転車小屋で確かに『昼の一時に駅前の噴水で』と約束したのに。ちなみに今日は祝日なので、学校は休みである。
「田所里さんは遅刻じゃないぞ」
浮遊霊兼背後霊のダブルワークに忙しい工藤が僕の肩越しにそんなことを言ってきた。
「え、僕時間間違えたか?」
「違う。田所里さんは今頃自分で買った野菜を食べてるから、わざわざおまえとのデートに付き合う必要がなくなったのだ」
「……それってつまりすっぽかされてるってことか?」
「そうなるな! でもまあ、餌で釣ろうとしてるんだからしょうがない」
「それはおまえが言い出したんじゃないか」
「大丈夫だ、無駄ではない。とりあえず二丁目の潰れたスーパーの跡地へ行くぞ。そこで田所里さんとおまえはキスをする」
正直、もうそれほど頑張らなくてもいいかな、という気になっていた。
確かに田所里さんはめっちゃかわいいけど、超絶美人だけど、やっぱり人間にはちょっとハードルが高いんじゃないかな。こおろぎの真似する女の子より、美人じゃなくていいから思いやりのある女の子と青春を送りたい……。
「馬鹿め。おまえまで田所里さんを男をコケにする悪女だとでも思っているのか。田所里さんがこおろぎのフリをしているのにはわけがあるのだ」
「おまえ、いい加減に人の思考読むのやめろよ」
「まあ、聞けよ。田所里さんの実のお父さんは既に他界している。知ってたか?」
「いや……ああ、でもそういや、片親だって話は――」
僕の返事を最後まで聞かずに工藤はだらだらと語り始めた。田所里さんがこおろぎになった理由を。
「彼女のお父さんは、天使のようなルックスを持つ田所里さんにメロメロだった。田所里さんの美貌は成長に従って、ますます磨きがかかっていく。そんなある日、お父さんは心臓麻痺で亡くなったのだ」
「心臓麻痺……おまえと同じ死因だな」
「話は途中だ。その後、田所里さんのお母さん……つまり俺の将来のお義母様は――」
「うるさい悪霊」
幽霊のくせに生きてる人と幸せな結婚生活を思い描くのは図々しいんじゃないだろうか。健康な人間をあっちの世界に連れて行く計画でもあるのだろうか。ちょっとだけ背筋が寒くなったような気がしたが気のせいだろう。
「こほん。彼女のお母さんは、ある男性と交際を経て再婚する。正式に再婚する前から、小学生だった田所里さんの面倒をよく見てくれるいい人だったそうだ……」
「田所里さん、血の繋がらない父親がいたのか……?」
義理の父親。理由はわからないが、ざわりと僕の肌が粟立った。
「それで、再婚した男性だけど――はっ、そこの植え込みを見ろ!」
工藤は話を中断して、少し離れた植え込みを指さした。
そこにはこおろぎが一匹。
「何だ、ただのこおろぎじゃないか」
「捕獲するんだ! 早く!」
なんで僕がただのこおろぎを捕獲しないといけないんだろうか。もしかして工藤はこのこおろぎと田所里さんを見間違えているのではあるまいか。
僕は、ささやかな疑問と友人への絶対的な不信を胸に、植え込みに手を突っ込んでこおろぎを捕まえた。
「よし、こいつがいれば勝てる!」
何に勝てるというのだろうか。
工藤の質量ゼロの脳みそはもはや惰性と慣性でしか動いていないのではなかろうか。
僕は今日が終わったら必ずお祓いをしてもらおうと心に誓い、こおろぎをポケットに入れると、二丁目のスーパーへと先行する工藤の後をのろのろと追いかけた。
◆
「工藤、さっきの話の続きを聞かせてくれよ」
くしゃくしゃと落ち葉をならしながら二丁目へと向かう。
「ああ、田所里さんの二人目のお父さんだけどな。その人も心臓麻痺で死んだんだ。結婚した後も、田所里さんを可愛がってくれていたそうだが……。傍から見ていてもいいお父さんだったらしいが」
ふと疑問が浮かぶ。
「傍から見ていてって、誰の話だ?」
「血の繋がってる方の父親だよ。あっちで仲いいんだ」
「ああ、そっちのお知り合いね」
「田所里さんのお父さんと知り合いなんて羨ましいだろ。そうだ、おまえも死ねばいいんだ」
「物騒なこと言うな、ばか」
頭の中でお祓いの予算を上乗せしつつ、話の続きを促した。
「で、当時小学校五年生だった田所里さんもこれはおかしいと気がついた。当初は自分の父親になった人間は死んでしまうんじゃないかと、お母さんと結ばれた人間は死んでしまう呪いでもあるんじゃないかと考えていたようだ。だが、その頃、熱心に田所里さんに言い寄っていた同級生の男子も唐突に心臓麻痺で死んでしまう。田所里さんは考えを改めた。どうもこの心臓麻痺の原因は自分にあるのではないか。死んだ人達はみんな自分に好意を抱いていた。呪われているのは自分の方なのだろうか、それとも自分の周囲にいる誰かがデス――」
「おい、話の腰を折って悪いけど、その田所里さんの悩みはどうやって知ったんだ?」
「当時田所里さんの守護霊の座を争っていた、二名のオトウサマ方から。死んでからも田所里さんにべったりで思考を読んでんだぜ。あの変態オヤジ共は」
ため息をつきながらやれやれと首を振る工藤。
「ええと、それで、結局その心臓麻痺の原因はなんなんだ?」
「わかりやすく言うなら、田所里さんに惚れるとそうなるんだ。可愛い子を見るとドキドキしたりするだろ? あれと同じで、田所里さんを見るとドキドキする。田所里さんは可愛すぎるので、好きになればなるほどドキドキが上限なく加速していく。やがては心臓の可動限界を超えてドキドキしてしまい、負荷をかけすぎた心臓が止まり死に至るんだ」
胡散臭い。
僕は工藤の話を聞き流しながら、幽霊って脳みそないのにどうやって物考えてるんだろうなって思った。死んだらこんな風になっちゃうなら死にたくないな、と思った。
「おい、ちゃんと聞いてるか? ともかく、田所里さんは自分に男子が好意を持つと死んでしまうと知っているのだ。だから、中学に入学した彼女は自分の青春を犠牲にしてこおろぎのフリを……。しかし、その努力も虚しく、最近おれが死んだ。こおろぎのフリを始めてから初の犠牲者だった。田所里さんはショックを受けてだな、あれこれと考えていた『また自分のせいで人が死んじゃった。また私に近づいてしまったからなの? いや、でも工藤くんは私のためにこおろぎになろうと頑張っていた。もしかしたら工藤くんはこおろぎは越冬できないから、私と心中するつもりで自らの心臓を気合で止めたのかも……。それならば私も死ぬべきだろうか、いや、でも死にたくないからそれはいいや。でも……こおろぎの真似をする工藤くんに対して真っ直ぐに向き合うことができずにいた私には、何かの償いをする義務があるはず。できる贖罪があるとするなら、工藤くんについた嘘を嘘にしないために、私もまたこおろぎとして生きるしか術はないのでは……? でも、こおろぎとして生きるならどうせ冬を越せずに死ななければならない……? でも、待って、確か幼虫で越冬するこおろぎがいたはず。幼虫になったつもりで冬を越せばきっと工藤くんも許してくれるよね。たくさん考えてお腹すいたからきゅうりでも食べよう』てな具合にな」
僕は話を聞きながら「お父さん達のこと変態呼ばわりしてたくせにこいつ絶対田所里さんの思考読んでるなあ変態だなあ」とか、「幽霊でも裏声で女の子っぽく話す男子はキモいなあ」といまいちな感想を抱いていた。
そして、よせばいいのに勝手に僕の思考を読んだ工藤がテンションを落としていた。
「ま、まあそんな感じで、田所里さんはおれのことをあれこれと考えてくれた挙句、とうとうこおろぎになりきろうとしてしまった。最近では一人で自室にいる時でさえない羽を広げようと頑張っている」
「まあ、なんとなく話はわかったよ。工藤。つまりおまえは、田所里さんに自分のことは気にせず人間に戻って青春を過ごしてもらいたいわけだな」
「そういうことだ! おれが心臓麻痺で死んでしまったのはおれの心臓が弱かったからだ。彼女は悪くないからな!」
◆
やがて、目標の空き地が見えてきた。三ヶ月前に潰れた二丁目のスーパーで駐車場として使われていた場所だ。
道すがら、田所里さんとキスをする為の段取りを工藤から聞き、それならばいけるかもしれないと思った。いけるかもしれないと思っているので、田所里さんが人気のない空き地に膝を抱えて座っているのを見つけた時は心臓が飛び出しそうになった。深呼吸をして落ち着こうとするが、どんどんと脈拍は早くなる。早くなる……?
「おい、工藤」
「どうした。怖気づくな、頑張れ!」
「さっきの話を総合して考えるとだな。彼女にキスをするようなことをすると、心臓に負荷がかかりまくって僕は死ぬんじゃないか?」
「大丈夫だ。幽霊になってわかったことだが、おまえは臓器が左右反対になっている非常に珍しい体質なんだ。だから大丈夫だ」
「マジかよ。初めて聞いたぞそんな話。でも、なんで左右反対だと大丈夫なんだ?」
「ああ、もう、まどろっこしいヤツだな。わかったよ、そんなに不安ならこの計画はもう中止だ。田所里さんはおれの呪縛から解き放たれることなくこおろぎとして青春を無駄にするし、おまえはおまえでガリガリ君のはずれ棒を眺めるだけの青春に逆戻りだ。あーあ、もったいないなあ! こんなチャンスは二度とないのになあ!」
「お、おい。ちょっと待て。誰もやめるなんて言ってないだろ。それに僕は本当は工藤の話をまるっきり信じてるわけじゃないんだ。だいたい大げさなんだよ。いくら田所里さんが可愛いからってドキドキしすぎて心臓が止まるわけないだろ」
僕はもう工藤は振り返らず、田所里さんに向かって歩みを進めた。
田所里さんは僕の気配に気づくことなく、じっと雑草の生えた地面を見つめている。
工藤の話によると、人間として生きることを諦めた田所里さんは、地面に息づく様々な虫達に思いを馳せながら、お友達を探しているらしかった。
……どう見てもかわいそうな子なのは間違いないが、田所里さんの可愛さでそれをやられると、不思議とちょっとだけいじらしい。
「やあ、田所里さん、待った?」
僕は昨晩の練習を無駄にしないようにリハーサル通りに登場した。
聞かずとも、待ち合わせ場所にいない時点で僕を待ってないのは明らかだったが、すっぽかされたことから話を始めると田所里さんも気まずかろう。器の大きさをアピールできるので、これはこれで悪くないと思った。
田所里さんは驚いた顔をして、気まずそうに顔を逸らした。
「……待ってないよ。今日は野菜はいらないから……もう私にかまわないでよ」
「本当に?」
僕はそう言うと、ポケットの中からビニールに入ったナスを一本取り出した。
工藤が死んでから、田所里さんはこおろぎらしく生きることを自分に課してきたはずだ。ならば、昨日田所里さんが言ったとおり、ナスに抗う術はないはずだ。
目の前にナスが取り出されて、田所里さんの目つきが変わった。センチメンタルな乙女の目から、飢えた昆虫の目になった。
僕は自分の口でナスを一口かじるとそれを口から少しだけ出した。
そして、言った。
「田所里さん、僕の口からナスがはみ出しているだろ? それをあげるよ」
作戦を考案した工藤がちょっと離れたところで『きめえ!』と叫んでいるのが聞こえたが聞こえないフリをする。
僕の口元を見つめていた田所里さんの目が、動揺と共に人間らしい色に戻る。
「田所里さんはこおろぎなんだろ?」
「そ、そうだよ、私はこおろぎ……だから……その」
「こおろぎは恥ずかしがったりしないだろ?」
僕はそう言いながら、自分のポケットから一匹のこおろぎを取り出す。噴水の所で捕獲した、あれだ。
そしておもむろに顔を上に傾けると、そのこおろぎを自分のくわえるナスの上にちょこんと乗せた。こおろぎは逃げることなく、僕のくわえているナスをかじり始める。僕はこおろぎの乗ったままのナスの欠片を片手でつまんで口から出すと、それを優しく地面に置いた。
改めて見る田所里さんの顔から、血の気が引いていた。
「説明するまでもないけども……こおろぎは人間の唾液なんてちっとも気にしないんだぜ」
僕は一口分減っているナスをまた口元に持ってくると、大きく口を開けて一口齧った。そしてそれを歯で支えながら外気にさらす。
「さあ、どうぞ」
田所里さんがびくっと身を震わせた。
「え……えと……」
「田所里さんは嘘をついていたのかい? 本当はこおろぎなんかじゃないんじゃないのかい? だってさっき僕の口元でナスをかじっていたこおろぎと田所里さんは全然違うもの」
それを聞いて、田所里さんはキッと僕を睨みつける。立ち上がり、迷いのない足取りで僕に詰め寄って来た。
僕の心臓がアップテンポになっていく。
「私はこおろぎだから――なんにも恥ずかしくなんてないッ」
田所里さんはそう叫ぶと、僕の口元に一気に顔を近づけてきた。
「ちょっ!」
僕は慌ててその両肩を抑える。肉薄する田所里さんの勢いが死んだ。
真っ赤になった田所里さんが数センチ前で目を伏せていた。
僕はくわえていたナスを咀嚼して飲み込む。おいしい。
「田所里さん、無理しないでよ。田所里さんは、こおろぎなんかじゃないんだよ」
田所里さんは、目の前でぽろぽろと涙をこぼしていた。
「でも……。でも、それじゃ工藤君が……私のせいで死んじゃった工藤君が……」
その時、傍で見守っていた工藤が唐突に僕に急接近、いい雰囲気の田所里さんと僕に割り込んだと思いきや、あろうことかそのまま僕の身体を乗っ取りやがった。
「キリキリキリ……。この鳴き声で僕がわかる?」
「工藤君!? 工藤君なの?」
僕は、意識だけがぽんと自分の外にはじき出されてしまった。
幽体離脱的な感じで至近距離で話す僕の身体と田所里さんを見つめている。
なにこれ。工藤、おまえ引っ込んでろよ。
「そうだ、工藤だ。おれは確かに田所里さんと関わって死んでしまったけど、それは田所里さんのせいじゃないんだ。おれの心臓が弱かっただけの話なんだ。だから、おれのことを気に病んでこおろぎの真似をしているんなら、そんなのもうやめてくれ」
「うう……ありがとう……。工藤くん、工藤くんに告白の返事まだだったよね。私、本当は工藤くんに好きって言ってもらって……」
うわ、マジかよ。
頬を赤らめた田所里さんが、自分の唇を僕の唇に近づけていく。僕の唇に近づいて来るのを遠目に見ることになるとは、これいかに。
ちょっと待て工藤。話が違うぞ。
ギャラリーと化した僕は、二人がキスしながら抱擁を交わすのをただ眺めていた。
…………。
極めて複雑な心境である。
これが完全に工藤と田所里さんだったら、世の中なんてぶっ壊れちまえよってな具合に悪態の一つもつけるのだが、超絶美少女の田所里さんと口付けをしているのは慣れ親しんだ僕のボディなのである。若干誇らしいような、憎らしいような、どうリアクションをとっていいのかわからない。わからないので何も考えず、原っぱで鳴いている昆虫の声に耳を済まして秋の風情を楽しむことにした。りーりーりー。
そして、突然それは起こった。
慣れ親しんだ僕のボディが数メートル先、田所里さんの腕の中で痙攣を始めた。
「え、ちょっと……ねえ、どうしたの!? 工藤くん!?」
慌てる田所里さん。慌てるってレベルじゃなく半狂乱になる僕のメンタル。
そのまま僕の身体を借りた工藤はばたりと横に倒れ、にゅるりと工藤の霊体だけが飛び出してきた。
「わり、借りてた身体壊しちゃった」
「はあああああああッ!?」
どうやら工藤は僕の身体で心拍数を上げすぎて僕の心臓を止めてしまったらしかった。
ファーストキスを終えたばかりの幸せいっぱいの笑顔でそんな謝罪をされても殺意しか湧いてこない。
ふざけんなこのやろう。
◆
あれから数ヶ月が過ぎた。
僕は工藤を許さない。絶対に許さない。そう心に誓っていたが、天国の暮らしもわりと悪くなかったので、もう許した。
田所里さんはといえば、工藤の説得の甲斐もあってもうこおろぎはすっかり卒業したのだが……。
死んで早々、僕にはしなければならないことができてしまった。
今日も現世へと降り立っては、田所里さんを気に入ってそうな元クラスメートを見つけてはこう切り出すのだ。
「なあ、田所里さんと仲良くなりたくない?」
「え、田所里さんっていっつもゴキブリの真似してる田所里さん?」
田所里さんは、僕の死にショックを受け、やはり自分は誰にも好かれてはならないのだという決意を固めてしまい、最近ではゴキブリの真似をするようになっていた。効果はてきめんで、こおろぎの時に比べてさらに田所里さんファンは激減した。
だが、僕はこのままではよくないと思う。優しい田所里さんには人間らしい青春を桜花してもらいたい。
なので、僕は今日も心臓の強そうな男子を探しては、リスクを一切打ち明けずに「田所里さんと付き合いたくないかい?」とささやきかけるのであった。
いつかきっと、強靭な心臓を持つ男子が田所里さんに人間らしい青春を与えてくれるその日まで。