振り返る足音
【9】
鈍く輝くシャンデリア。
それでもなお薄暗い室内。
高価そうなワインレッドの絨毯。
そしてーー階段の踊り場に飾られた、厳格そうな老人の肖像画。
おそらくは、彼がこの屋敷の主であり。
トロエベット・ハート・オロイラ伯爵その人であることは、火をみるより明らかだった。
拷問狂ーー……そういう先入観があるせいも勿論あるけれど、それにしたって、恐ろしげな老人だ。肖像画を描いた画家はどんな気分で彼と相対していたのだろう。少し気になったし、微かに同情さえしたけれど、あまり考えないでおくことにして。
チノイロ屋敷。
そんな、どうしたって何かが起こるだろう不気味な屋敷の中に軽やかな足取りで入っていく灰と、その不気味な屋敷で働いているというアリスさんの後ろを、まったくもって正常な俺はしぶしぶついて行く。
正直、帰りたい。
とはいえ金が無いのは確かだしーーじゃあ灰の仕事が終わるまで野宿、は流石に無謀なので、ついて行くしか選択肢はないのだけれど。
では今何をすべきかと言えば。
可能な限り空気と化して、忘れられるくらいの影の薄さを意識して。
無難に過ごす。
被害を最小限に留めるために。
いや、無理かもしれないけれどっていうか灰の友人として入った時点で結構関わっちゃってるんだけれど。
最終的には、「ああそういえばそんな奴いたなぁ」ぐらいの印象になれば。
大成功だーーと思う。
それだけだ。
「ネガティブに前向きだねぇ、相変わらず」
と。
いつの間にか歩く速度を落としていたらしい灰が、まるで心を読んだかのように呟く。
今更驚きはしない。本当に。
そうして前を見れば、アリスさんの背中が少し離れた位置に見えた。どうやらこちらの様子には気づいていないようである。だから俺は、聞こえるか聞こえないかぐらいまで声を潜めて、返事を返した。
「ポジティブに後ろ向きよりはマシだろ」
「え、何それどういう状況?その人確実に気狂ってるよね」
「で?」
「うん?」
「どのくらいで終わるんだよ」
すると灰は、くつくつと喉の奥で笑う。
「君も無茶を言うね。いくらなんでも到着したばかりで即解決は無理だよ。フィクションの名探偵じゃあるまいし。ーー加えて、“解決”じゃなく“終了”ときた」
それじゃあ解決しなくていいみたいだよ。
冗談めかしてそう言った灰と目が合って、一瞬言葉に詰まる。別に未解決を望んでいた訳ではないのに、真っ正面から指摘されたら、まるで心の中ではそれを望んでいたような、そんな気がしてきて。
ーーいやいや、流されるな。
「解決しなくていいとは思ってない」
「ふぅん?」
「っていうか解決しないと帰れないんだから、さっさと解決して貰わないと困る」
これは間違いなく本音だった。
どころか、万が一灰に解けなかった場合、無事でいられるかどうかも怪しい。なんていったってチノイロ屋敷だ。使い道のない客人を、何時迄も置いておくとは思えない。
脳裏に浮かぶのは、今回の鍵であるらしい人喰いの本。あそこまではいかなくとも、こんな土の下で無様に死ぬのは嫌だ。
……って。
「お前、本当に犯人わかってねぇの?あの本に関係あるとか言ってたくせに」
どんなクイズにだろうとヒントを出せるのは答えを知っている人間だけ。
それと同じだーー解く鍵は知っているのに全く解けていないなんてことはありえない。
そう言うと、灰はちらりと視線だけをこちらに向け、「簡単なことだよ」と答えた。
「冒頭の部分。“空に浮かぶ観覧車”に“ビルの群れ”、“ケルト十字”と隣接した“千本鳥居”ーーここから、『名も無き人喰い』の舞台がバビロニアだってことは簡単に推測出来る。そんな場所早々有る筈ないからね。付け加えるなら、その後に出てくる“あるべきものがあるべきところに無い、不安定で無作為で偶然的な世界。”って部分。これはもう言わずと知れた理想郷の代名詞だ」
つらつらと、まるで常識でも語るかのように紡がれていく推理は随分と唐突で。俺は黙して聞きながらも、内心驚愕の念を隠せずにいた。
けれど、きっとそんな俺の心情には気付いているだろうに、灰はその口を止めようとはしない。
まるで、暇つぶしのように。
「で、『大観覧車が空に見えて』かつ『高層ビル群』や『千年鳥居』、『金十字』が背景になる場所といえば?
ーーところで、君はこの屋敷に入る前に、一度振り返ったかい?」
「……まさか、」
すい、と立てられた人差し指に後方を示されて、俺は思わず振り返る。遠く遠くに見える無駄に豪華な正面玄関の上、飾り程度の大きさで付けられた窓から微かに覗くのはーー今となってはある意味予想通りだけれど、少し前の俺なら気づきもしなかっただろう、大観覧車。
乗員のいないゴンドラが、ぎぃ、と僅かに傾いて。
「駄目だよ。未知の領域に踏み込むときは、きちんと一度後ろを振り返るべきだ。最近の風潮では振り返ってばかりは悪いことみたいな印象を受けるけれど、決して悪いことじゃない。前だけ向いて生きていたとして、それは良いことではあるけれど、でも一方でとても無用心だ。
ーーーー後ろにいる誰かが、いつ自分の首を描き切るかもわからないのに」
「そういうことだよ、否、それしかあり得ない。遥か異国を舞台に描く作家は何人もいるけれど、人の家の前を描写する馬鹿はいない。
だから、間違いなく、確信的に言える。この本の作者は、『チノイロ屋敷』の住人の誰かだ」
ああ、頭痛い。