【名も無き人喰い】2
【6】
あの部屋の中で読んだ幾千の本の中にも、ここまでの世界は存在していなかった。
まるでクレヨンの箱を覗いた時の様なカラフルさが少し眩しくて、それでいて、褪せた写真みたいな懐かしさもどこかにあって。あるべきものがあるべきところに無い、不安定で無作為で偶然的な世界。
僕は思う。
これこそが、奇跡なんだと。
なにも知らなかった。
なにも持っていなかった。
僕は人間としては完璧に出来損ないで、生き物としても失格な、そういう存在なのだろう。わかってた。わかってた筈なんだ。
ただそれでも望まずにはいられなかった。そのくらい、僕にとってこの世界は圧倒的で。
「生きていたい」
世界の中心でなくていい。片隅でいいから、特に恵まれなくったっていいから、笑って生きていられたらどんなに幸せだろう?
気づいてしまったら、改めて再確認してしまえば、知らんフリなんて出来るわけもなくて。
だから僕は、一人で小さく決意した。
死ぬまで生きる、そんな生き方を。
さて。
そのためにはまず食べ物を何とかしなくちゃいけないだろう。そう思った僕は、暗い路地裏で通りすがった人を無差別に喰う、という生活を始めた。これで食事は何とかなりそうだ、なんて我ながら短絡的過ぎた様に思う。否、もっと正確に言うと、僕はまだ知らなかったのだ。僕の“食事”が普通のそれとだいぶ異なっていることも、人が人を食べるということがどれほどの禁忌で、どれほどの罪に問われるのかさえも。
がちゅり、と誰かの肩に喰らいついて、いよいよ“食事”をしようとした時だった。その誰かが怯えたように、驚いたかのように僕を見て。
そうして、言った。
ただ一言、「化け物」と。
いくら僕でも、それの意味くらいは知っていた。知っていたから、誰より何より驚いた。戦慄、といってもいい。
折角生きると決めたのに。
与えられた名称は、人間のものではなかったのだ。
「化け物」
その日、そんな言葉が僕の全てになった。人間みたいに生きたかった筈なのに、振り返ってみれば人外だ。つまり僕の一生は、あの深く浅い虚無からやっと抜け出した先でも“人生”ではない訳で。
呼吸が止まりそうな程悲しくて、心臓が割れそうな程苦しかった。でも泣き方のわからない僕は、涙の零し方一つ知らない僕は、どうすることも出来なかった。何も出来ずに、無力で無意味な自分が悲しい程愉快で。
自分で自分がわからないまま息をする。
そんな僕が“彼女”と出会ったのは、それから一ヶ月が過ぎた頃。
所謂、たった今の出来事である。
回想終了。