【名も無き人喰い】1
【4】
僕は、何も持っていなかった。
家族も友達も希望も絶望も愛も哀も、名前すら僕には無い。だから誰も僕を知らない。誰も僕を、見ていない。
それを悲しむことさえ、僕は出来ないんだ。
ずっと空回りしてる歯車みたいな一生。“人生”なんて大層な名前を使うには不釣り合いすぎて、笑えてくる。だって、何も無いのだから。
こういうことを人は、空虚とか虚無とか空白とかって呼ぶんだろうと、5歳の時に気が付いた。もう少し早く気が付いてもいいものだけれど、それはやっぱり、僕が楽天家だという何よりの証明だった。
何年か経って、僕は本を読めるようになった。といっても難しい文章はよくわからなくて、一般的に“絵本”と呼ばれる類のものだけだったけれど。
何も知らなかった僕にとってそれは不思議な《世界》だった。小さなものも大きなものも同じだけの価値を持って転がっていて、温かな幸せに包まれた“奇跡”と呼べる憧憬。
その時の僕は、まるで普通の子供のように本の中に《世界》を見ていた。空っぽな筈なのに、気のせいかもしれないけれど、少しだけそこを羨みながら。
次の日、そんな感情は目覚めた時にはもう忘れていた。でも寝る前に思い出して、また目覚めて、忘れて、思い出して、眠って。
くるくると繰り返し。
そして6歳の時、僕は人を殺した。
今思えば、アタマの奥の方に追いやったつもりだった“憧れ”から目を離せなくなっていたのだろう。だから、行ってみることにした。生まれて初めて羨んだ不思議の国へ。でもそのためには欠けているものを埋めなきゃいけなくて、特に、生きるのに必要なものは持って行く必要があって。でも僕には何もなくて、何も無かったから殺した。僕には目に見えないものがいっぱい欠けていたけれど、お金とか食べ物とか、そういう目に見えるものもいっぱい欠けていたから。目に見える大事なものは持って行かなきゃいけない。じゃなきゃ《世界》には会えないし何しろ死んでしまう。だから持って行かなくちゃと、ただそれだけの理由で僕は、僕を《こんな風》にした父親を殺したのだった。
父さんは簡単に死んだ。万年筆を首筋に刺したら、そのまま何も語ることなく2、3秒で死んだ。だからお金を奪って、ついでにお腹も空いていたから父さんを食べた。僕はこの4日間、なにも食べさせてもらえていなかったのだった。そりゃあお腹も空くよなと、父さんの左腕に食いつきながら思ったのを覚えている。だからだろうか、初めて食べた人間は、とてもとても不味かった。
食事というものは考え事をしながら行うべきではないと、その時知った。
僕は扉を開ける。
暗い暗い道を、手探りで進んで。何も見えない、何も聞こえないその空間から抜け出そうと足掻いた。何度も転んでは何度も立ち上がって、ひたすらに。
あの部屋に戻る方法なんて知らなかった。知らないままでいいと、思っていた。
僕はただ、《世界》に会いたかったのだ。
それ以外のことなんて、どうだって良かったんだ。
そうして初めて見た僕の《世界》は、何も持たない僕が初めて望んだ《世界》は、とても鮮やかで酷く悲しい、
群青色。