真夜中メトロ
【3】
腹の奥から響いてくるような揺れが、ゆっくりと感覚を浮上させていく。脳より先に体の方が覚醒して、おかげでふわふわとした気怠さに包まれながら俺は目を開けた。
ぼやける視界が最初に捉えたのは、見覚えのある鮮やかな緋色。
「もう夜だからあまり相応しい表現とはいえないけれど、形式上“お早う”と挨拶しておくよ。お早う。」
「まどろっこしい言い回しすんな」
夜。
ということは、最低でもあれから5時間程度は経過している訳だ。完全なる拉致行為である。一体どういうちつもりなのだろうか。と、俺は目の前に座っている緋色ーー灰をじとりと睨みつけた。
「何使いやがった」
「企業秘密」
「……麻薬とかじゃないだろうな」
「流石に依存性のあるものは使ってないよ。君なら名前を聞けばわかるくらいにはメジャーな薬だしね。ただまぁ、国際的に違法なのは認めよう」
違法なのかよ。
そうツッコミを入れようとして口を開いた途端、より一層酷い揺れを感じて思わず口を噤む。
ついでに周りを見渡せば、大きめな窓と仕切り代わりのカーテン、それから、俺と灰がそれぞれ腰掛けている対面式の座席が目に入った。
目覚めた当初は気づかなかったけれど、どうやらここは何処ぞの列車の中らしい。それも個室、長距離移動用の。
加えて灰の隣には黒の旅行鞄が乗せられていて、ーーけれど俺の隣にあるのは、その半分位の大きさのアタッシュケースのみ。
なんだかこの先の展開が読めた様な気がした。が、そんな推測はあえて否定しておくことにしよう。所謂現実逃避というやつだ。もしも俺の想像している通りに事が運ぶのならば、それはあんまりにも面倒な“現実”なのだから。向き合うのは、もう少し後でいい。
自己完結。
「一応聞いておくけど、ここ何処」
「『地下』行きの列車の中」
「……『地下』ぁ?」
普段ならまず聞くことのない、けれど忘れる筈も無い程の存在感を持つその地名に俺は眉を寄せる。
地下にあるものといえば、“元”政府関係者用の居住区や研究所、工場地帯くらいだ。一般の人間が呑気に行く様な場所ではないのだが、何がどうして、俺はそこへ向かっているのだろう。
「ちなみに目的地はオロイラ伯爵邸。別名、『チノイロ屋敷』」
ーーああ、本格的に嫌な予感がしてきた。
そう心中で呟いて、俺は灰の言葉の続きを待つ。チノイロ屋敷なんてあからさまに縁起の悪そうな別名と出会ったのは随分と久しぶりだった。いや、可能な限り出会いたくない種類のものではあるけれど。
「先日その屋敷の36代目当主トロエベット・ハート・オロイラ伯爵が殺されてね。犯人を探してくれって依頼されてたんだよ。ほら、これでも一応、」
「ーー探偵だから、ってか?だったらお前一人で行ってくればいいだろ。なんで俺まで……」
「まぁそうなんだけど。でも、ちょっと困ったことが起こりそうなんだよね」
不満さを全面に込めた文句さえさらりと受け流され、なんとなく不服に思いながらも反論しかけた口を閉じる。こいつと口喧嘩で勝負しようとするのがどれだけの愚行であるかを、俺はよく知っているのだ。こちらがいくら正論を並べたてたところで、人間離れした語彙と長ったらしい理論によってのらりくらりと躱される。
結果は火をみるより明らかなのだから、無駄な抵抗をするよりもさっさと説明を終えてもらった方が早く済む。これは経験論だ。
「困ったことって?」
さて、仕切り直し。
「ん、後々くだらない疑いをかけられるのも面倒だから君には言っておくよ。もしも今回の事件が、僕の想像通りの“裏面”を含んでいたとしたらーー」
と。言い終える前に、灰の赤い双眸が僅かに細められる。珍しい表情だった。深く深く、物語の奥行きまで見通していくような。
思いがけない真剣な空気に、俺は無意識下で身構えて。
「また新たに人が死ぬ」
ーーその言葉に、息を呑んだ。
「な、」
「ああ、大丈夫だよ。何も君が死ぬとまでは思ってない。君に同行してもらったのは、ただ検死のためってだけだしね。僕がやったっていいんだけれど流石に細部までは無理だし、こういうのは説得力が大事だから、出来れば本職に頼みたくて」
俺が混乱している間にも、あくまで気怠げな口調を継続しながら朗々と語られていく推理。正直、頭がついて行かない。何しろ俺は一般人だ。短期間に人が何人も死ぬ事態に直面したことなんて殆んど無いのだから。
だが、そういう事情を話したところで灰が相手なら全く無意味であることも、不本意ながら俺はよく知っているのだった。先ほども言ったことだけれど。
“不知火灰に正論は通用しない。”
故に、納得は出来ないまでもせめて理解はしようと、あまり出来の良くない脳をスペックを超えて回転させる。
「ちょっと待て。第一、説得力なんて俺もお前も変わんねぇだろ」
「そうでも無いよ。まだこの国が『日本』だった頃ならともかく……今じゃ二人しか居ない“正式な医者”の一人だからね。本職というなら君以上の本職はいないよ、『文月先生』?」
「わざとらしい言い方すんな」
「でもほら、探偵とはいってもそれは副業であって、僕の本業は図書館の管理人だ。一介の図書館長が検死するのと医者がするのとじゃあ、大分重さが違うものだよ」
「……そういうもんか?」
「そういうもんだね」
まるで常識だと言わんばかりに淡々と頷かれて、俺は一つ溜息を零す。
ーーーー大昔に日の出ずる国と呼ばれていたこの国が、『バビロニア』と名を変え“理想郷”としての地位を確立したのは、もう何百年も前の話だ。誰もが理性も正義も捨て去って、欲望と快楽だけを存在理由にしている本能の吹き溜まり。だから警察も政府も存在しない。もちろん、人の命を救う“医者”も。
階級制度自体はある。現にこれから向かわざるを得ないらしい地下都市『メトロシティ』には、まだ政府が存在していたころそれに関わっていた人物達が豪華な暮らしをしているし、天空都市『リトルポリス』はそれこそ皇族専用の居住地域だ。普段俺たちが生活している地上都市『エリュシオン』にだって、【犬】と呼ばれる奴隷が存在している。
職業制度だって勿論ある。だから昔と違うのは、一つ。
規則や人の命を“守る”ための力が、つまるところの“抑止力”がなくなったと、その一点だけだ。
とはいえそれは結構な差異でありーーだから好き好んで“医者”なんかやってるやつが珍しいのは、まぁ確かなことだ。そこについては否定しないし、必要とされる機会が多いというのも仕方が無いことだとは思う。というか正直、死体の見聞が目的であり理由であろうことはアタッシュケースを見た時点で大体想像がついていた。おそらく中身も、当初に推測した通りのものが入っているのだろう。前例が無い訳では、ない。
が、だからといって何故、薬まで盛られてこれから人死にの出そうな所へ連れて行かれなければならないのかは、やっぱり納得いかないものだけれど。
「何にせよ今更だよ」
そんな俺の内心をまるで読んで居たかのようなタイミングで、灰は言う。
「この列車は地下に着くまで止まらないし、仕事帰りだった君に地上までの乗車代を持ってるとは考え辛い。加えて、地下に君が頼れるような知人が居ないことはわかってる。よって君は大人しくついて来るしかない訳だ。御愁傷様」
「ーーお前、さては最初っから狙ってただろ。わざわざ仕事帰りに呼び出したりとか、」
「別に?相変わらず同じ手に引っかかるなぁとは思ったけど。紅茶を囮に使ったのだって、今回が初めてじゃないんだからさ」
「…………」
悪かったな学習能力低くて!
という言葉は、何とか喉元で食い止めた。「いえいえ」だとかの肯定で返されればこちらが虚しくなるだけだ。そして、こいつはきっとそう返してくるような奴なのだから。
とはいえ、いつか必ず復讐はしてやる。と密かに決意して、握り拳を作った。
途端、ぽいっと気安く本を放られる。
思わず受け取ってみれば、それは今回の元凶とも言える例の本。
「『名も無き人喰い』、だっけ?」
「そう。繰り返し言うけど、それちゃんと読んでおきなよ」
人皮装丁にダイヤとルビーを散りばめた表紙。羊皮紙にもインクにも金をかけたという高級本。
薬が効くまでの時間を潰すためのものだったとしか考えていなかったが、他にも何か意図があるのだろうか?
とてもそうは見えなくて、しげしげと本を眺める俺の前でーー『灰の下の名探偵』と呼ばれた箱庭図書館の主は、器用に口角を吊り上げる。
「今回の事件において、最も重要な鍵になる筈だから」
……何が起こってもおかしくないこの状況で「人食愛好者でも出てくるのか」とは、流石に切り返せなかった。