訪れない推理劇
【18】
こんこん、と適当にノックしてから扉を開ける。昨日一度訪れている食堂だけれど、当然ながら、昨日とは場の空気が全く違っていた。
新たに追加された『アリス・ワンダーランド』の席札が、生々しく現在の状況を伝えて。『チェシェ』と『ハンプティ』の席に、それぞれディーさんとダムさんが座っている。
俺を除いて、計5人。11席+2がきちんと埋まっていただろう頃のチノイロ屋敷を想像すれば、なかなか寂しい食卓だ。
「七夜、報告を。
彼女の遺体はどうだった?」
なんて言って頬杖をついた灰に溜め息を吐きながら、要望通りにカルテを開く。
「直接の死因は、首筋からの薬物注入。向かって右側、鎖骨の上辺りに注射針の痕があったから間違いない。索状痕に生体反応は無いし、必要以上に凶器と皮膚が擦れた痕跡も無かったから、殺した後に吊るしたと考えていいと思う」
「ーーーーえ?」
ぽつりと零された困惑の声に視線を上げれば、驚愕に目を見開いたレイラインさんが見えた。ああそっか、この人は現場見てないんだもんな。伯爵の遺体は明らかに“食い散らされた”遺体だったのだから、そして何より灰が【人喰い】の存在を匂わせた後のことなのだから、同じく喰い殺されていたのではないかと彼女が思い込んでいたって何もおかしくはない。
此処に来てから俺は見るもの聞くこと全てを疑ってかかっている気がする。こんな調子じゃ神経が保たないぞと、自分で自分に警告した。
話を続けよう。
「死後反応の具合から見て、死亡推定時刻は2・3時間前前後。抵抗した痕跡は無しーーその他の目立つ外傷も無し」
「2・3時間?その割には、“彼女”随分冷たかったけれど」
「それは俺も思った。でも死後硬直が少ししか出てなかった上に遺体の腐敗も見られなかったから、多分外気温が低かったんだろ。なんだかんだ言ったってこういうのは個人差あるしな」
ふぅん、なんて納得しているのかしていないのかわからない返事を返して、灰は考え込むように顎に手を当てた。何がそんなに気になっているのかは想像もつかないけれど、なんにせよ、この時点で見つけられる手がかりなんてたかが知れている。つまりは新たに何らかのアクションを試みなければならないということで、定番ではアリバイ調査だったり証拠捜索だったり、あるいは動機探しだったりをする必要があるのだ。
現在時刻は午前9時32分。
となると前言通りの今日中の帰宅は、物理的に不可能そうだと、半ば投げ遣り気味に思う。いや、灰に頑張って貰えば今日の夜中から明日の朝までには帰れるかもしれない。こればかりは運次第だ。
重ね重ね言うが、俺は出来る限り早くチノイロ屋敷を後にしたい。そのためならば、常識の範囲内でのみ協力しようじゃないか。
まあ俺が何しようとそこまでタイムに差が出る筈もないけれどーーーーと、何とは無しに振り返った途端。
「さて、七夜」
「え?ああ、うん。どうした?」
いつの間にか考え事を終了していたらしい灰が、にっこりと笑って言葉を吐いた。
「どうもこうも無いよ。そろそろお暇しよう」
「ーーは?」
「解決したら即帰るって言い出したのは君の方だろう?僕もこれ以上此処に用は無いし、今出れば丁度次の列車に間に合うからタイミングも良い。という訳で、帰ろうか」
俺だけじゃない、その場にいた全員が呆然とする中、灰は一人さっさと席を立つ。予想の斜め上を通過する行動に誰もが一瞬思考を止めて、けれど真っ先に、レイラインさんが慌てた様子で灰を引き止めた。
「ちょっと待って下さい!解決って……犯人がわかったんですか?」
「他にどんな解決法があるのか見当もつかないな。犯人も動機も方法も過ぎる程にあからさまなんだから、これでわからないなら僕は探偵を辞した方が良いと思うよ」
欠片も困ってなんかない癖に、灰はわざとらしく肩を竦めて言った。表情にも仕草にも、さぁこれから推理を披露しようなどという気配は無い。どころか、例えるならーー玩具に飽いた子供が遊び尽くしたそれを片手間に放り投げる時の、あのなんとも言えない倦怠感すら滲み出ていた。
投げ出すのが積み木や人形くらいならさして気に留めはしないものの、今回は人の命がーー正確には失われた人の命が関わっているだけに、そうも言っていられない。
「っ、でしたら謎解きを要求します。誰がアリスを殺したの」
ばん、と円卓を叩いて立ち上がったレイラインさんを横目で見やり、灰が笑う。
「ーーおいおい、推理小説じゃあないんだから、関係者集めて推理ショーなんて毎度毎度やってられないよ。無駄とわかっていることをわざわざする程、呑気な性格もしていない」
「むーー無駄?いや、確かに現代では昔のように法に則って裁くことは出来ませんけれど、でも私刑という手段がある以上、」
「違う違う。罪と罰の話じゃなくて、有為か無為かの話だよ。断罪はあなた方が勝手にすればいい。その為に僕は語る。けれどどんな罰を与えようとしても、裁判官が判決の前に死んでしまったら断罪は行われないーーつまり何もかもが無意味に終わる」
そうなると知っていながら続けるなんて無駄以外の何物でも無いよ。
靴音を響かせながら颯爽と扉に向かうその背中を慌てて追った俺は、はたして本当に帰っていいものかと彼らの方を振り返った。屋敷の住人たちは唐突な幕引きに怒ることすらままならない様子で、ただ呆然と灰を見つめている。
当然といえばーー当然だ。
夕食の時のあの口調からして、きっと誰もが、灰が今回の事件にある程度の関心と興味を抱いていると思っていた。それは間違いでは無かった筈で、少なくとも今朝事件が起きるまでは、珍しくも乗り気だったのである。でなければ、“アンコール”とやらの為にわざわざ宿泊するなんてあり得ないーー読みたい本も、あったらしいし。
だから心変わりをしたというなら、アリスさんの事件が起こってからなのだろうけれど。
ーーーーーーーー否。
そうではない。
これはあくまで推察だ。人間という生き物は、理論より先に感情で行動する。理論はいつだって後付けの理屈に過ぎないものだ。
しかも今彼らの頭の中を占めているのは、困惑よりも不安の方で。
「あのさ、探偵」
代表するように手を挙げたディーさんが、今だ強張った顔で問う。
「今の台詞だと、僕ら皆、殺されるみたいに聞こえるんだけれど」
すると灰は、ノブに手を掛けたまま振り返り答えた。
「いや、“皆”は死なないな」
「……ーー正しくは、“犯人を除く全員”、だよ」
ぱたん、と扉が閉まる。
その音を合図に、チノイロ屋敷における伯爵殺人事件及びアリス殺人事件は、酷く呆気なく終演を迎えたのだった。




