アリスと帽子屋
錆びた蝶番の耳障りな音を聞きながら開けたドアのその先に存在していたのは、“過程”でも“継続”でもなく、ただ“結果”となった彼女の姿だった。先に室内にいた灰とトゥイードル兄妹、加えて俺とトーマさんの目の前で自然に揺れる両脚が、持ち主の絶命を懇切丁寧に説明している。
肢体、否、死体。
アリス・ワンダーランド。
もはや生き物とは言えない彼女の姿が、そこにはあった。
「やあ、遅かったね」
乱雑に首に縄をかけられ天井から吊るされている彼女の足下にしゃがみ込んだ灰が、俺たちに気づいて手を挙げる。
「じゃあ早速“お仕事”頼めるかな、文月先生。ぱっと見た限り外傷の無い綺麗な死体だとはいえ、詳細まではわからないからね」
「それはいいけれど、いや全然良くないけれどーーーー殺人、なのか?」
「さぁ、今のところはなんとも。自殺かもしれないし、新しい宇宙が出来るくらいの確率で起こった事故の可能性もある。まぁ、2メートル強の高さのある天井に足場を使わずぶら下がる技術力があるなら、自殺だって有り得るよ」
なんとも投げ遣りというか、雑というか。いや、こいつなりのジョークでなのかもしれない。真相は読めないが、兎に角灰はとても答えとはいえない答えを返して、床についていて膝下辺りを軽く払うと急に立ち上がった。その視線が一度俺の左側へ向かい、それからふっと戻される。
「早くしろ」と促されているみたいだった。
実際、そうなのだろう。
とはいえ気は進まない。何しろ、顔見知りの死体だ。直接話したことはないし昨日会ったばかりだし、接点は殆ど無い薄い繋がりで。でも、一度会ったことがあるのは確かだった。無論、生きている内に。
存命中の姿を知っている人間が死体になって、更にその死体を弄るというのは、何度経験しても最高に気分が悪い。
普段目を逸らして生きているあの概念を、必然を、見せつけられているようで。
だからあまり関わりたくない系統の事件であるし、断ったって別に構わないことは知っている。
灰だって文句は言わないだろうーーこれは仕事であって義務では無い。
「ーーーー……」
今回ばかりは、迷わなかった。
「いいよ承ってやる。その代わり、事件解決したらさっさと帰らせろ」
何しろ俺は、仕事だけは真面目にやる主義だ。必要なら義務を破ることに躊躇いは無いが、自分の主義と反することは、どんな瞬間だって許しがたい。
ならば最善は勿論、一刻も早く仕事を終えてこの屋敷を出ることだろう。そのためには、こいつが早々に事件解決をするのが必要不可欠なわけで。
「絶対だ。妥協も譲歩も無し。俺は、一瞬一秒だって長くここに居たくないんだ」
そう強く念を押せば、灰は肩を竦めて了承した。仕方ないなぁとでも言いたげな仕草に若干苛つきはしたものの、交渉は成立、さぁ善は急げだと振り返った俺は、そこで初めてトーマさんの存在を思い出す。
死体を発見してから、彼は一度も口を開かなかった。部屋を出てもいない。どころか、動いてすらもいなかったのだ。
死体の方を振り返った俺が視界に捉えたのは、そんな彼の姿だった。
ドアの前、入って来た時の寸分違わない格好で立ち尽くしている彼はただひたすらに、“アリスさんだったもの”を見つめている。感慨深そうに、けれど、どこか冷え切った目で。
隣の灰が、小さく笑う。
笑っただけで、言葉を零す事はなく。
時が止まってしまったみたいな重圧に、俺もそれきり押し黙って。
もはや語れない彼女と元から語らない彼の間に、音は存在しない。する筈もなく、故に“二人”はそのままで、静かにゆっくりと見つめ合っていた。




