The heart of “Oroira”
暗闇の中を手探りで駆ける。
「この物語は、タイトルがそのまま示すように、人喰いーー人肉を主食としているものを主人公においています。カニバリズムというよりは、無知だったが故の『人喰い』。監禁され、間違った常識を教育されたことがその原因とされています。作中の言葉から推測するに本だけは与えられていたようですが、まぁこれは注視する必要もないでしょう。
兎に角人喰いは外に出たいと願いーー自分を閉じ込めたいわば『番人』を殺して喰らい、生きる為に金を奪ってようやく外に出る訳です。そして、初めて見た世界という名の『奇跡』に心を奪われた。羨んで、恋い焦がれた。勿論『人喰い』の常識はーー特に食事においては、外では異常でしかありません。当然『化け物』と恐れられはしたものの、それでも生き抜くと決めた『人喰い』は尚も息をし続けて、けれどそんなある日、白髪赤目の少女に出会う。……と、大体のあらすじはこんなものですね。後々少女が死んだり生きたりしますが、とりあえず今は良いでしょう」
カンペも無しによくもまぁつらつらと並べ立て、灰はかたんと僅かに椅子を引く。やや距離の置かれた円卓の上には相変わらずその『左手』が乗せられていて、普段引きこもっている所為で病的に白い指先が、ダマスク・リネンのテーブルクロスに覆われた天板を軽く叩いた。
「さて、皆様は『不思議の国のアリス』というお話をご存知ですか?」
刹那の沈黙。
それから、現在は実質的にこの屋敷の主人となった、【お嬢様】ことレイライン・ハート・オロイラ伯爵令嬢が、満を持して口を開く。
「ルイス・キャロルが書き上げた珠玉のファンタジー……ですよね。一応、人並み程度に知識はあります」
「充分ですよ。でしたら話は早い」
こつ、と灰の手元で音が止まった。
「人喰いは『アリス』。白髪赤目、所謂アルビノの少女は『白兎』を。そして世界、つまり我々の住む理想郷こそが『不思議の国』。つまり、『名も無き人喰い』とは『不思議の国のアリス』を元に書かれた物語でありーーそしてそれは、このオロイラ伯爵邸も同様に」
そうして晒された指が、今度は中身の無い右袖に触れる。切断面を覆うように手の平で肩口を押さえ、それから、ため息混じりに言葉が吐き出された。
「皆さんのお名前です。これに至ってはあまりにあからさまですから説明するまでもないでしょうけれど、」
「【チェシャ】猫に、薔薇を赤く塗るトランプ兵【スペード】。割れし卵の【ハンプティ】、貧しい貧しい【メイベル】。狂ったお茶会の【ヤマネ】と【気狂帽子屋】に、『鏡の国』の双子【トゥイードル・ディー】と【トゥイードル・ダム】。ーー加えて、【アリス・ワンダーランド】。見事なまでに全員が全員、アリスシリーズの登場人物です」
「じゃあ父は【ハートの王様】?」
優雅な仕草でグラスを傾け、レイラインさんが問う。
「ええ、間違いなく」
「なら私は?」
「……貴女は、物語の中核を担う重要な役職ですよ。おそらく、本来は貴女のご母堂、『サイリア・ハート・オロイラ』様が請け負うものだったのでしょうが」
“母”
その言葉を聞いた途端、“関係者”達は揃って大きく目を見開いた。「何故その名を知っているのか」そう言いたげな表情で、全員が全員同様に灰を見る。
ーーただ一人、レイライン・ハート・オロイラを除いて。
彼女は笑っていた。
嘲るように、愉しそうに。
「へぇ、なんだか面白そうな話ね」
「っお嬢様!」
「良いじゃない、アリス。折角だから続きを聞かせて頂きましょう。
それで探偵さん、母は、今は亡き私の母様は、一体何を背負わされていたというの?」
レイラインさんはそう呟き、勢い付いて立ち上がったアリスさんが渋々席に着く。ノートさんはもう普段通りの無表情を貼り付けていて、双子の料理人は、お互いに手を繋ぎながら歳不相応な険しい顔をしていて。
一拍置いて、“探偵”は再び言葉を紡ぐ。その一連の光景は、まるで。
「『Queen・of・Heart』」
まるでミステリー舞台を観ている様だ、と頭の何処かが考えた。
「物語上での“最強”、高慢で残忍な赤の女王ーー……貴女の母君が初代を務め、そして現在は、貴女が二代目を務めている。
きっと彼女が最初だったんでしょうね。彼女と出会い、彼女を“ハートの女王”としてから、伯爵は『アリス』の登場人物を集めた。何のために、かは想像に難くないですけれど、確証はありませんから今はまだ触れないでおきましょう」
考えて、それから少し呆れる。
どれほど他人事に考えてるんだ、俺は。
否、“殺した人間”と“殺された人間”以外は全員が他人な訳で、だから此処に居る7人の内の殆どが他人事なんだけれども。
皆で殺しましたー、とかじゃなければ。
まぁ、それはそれとして。
「灰」
「うん?」
「一応訊いておくけれど、何でその……伯爵夫人?が最初なんだよ。自分が“王様”だから奥さんは“女王”、ってことじゃねぇの?」
だとしたら。
だとしたら、最初はやはり伯爵なんじゃないだろうか。
「……『アリス』における王様ってのはあまり目立つキャラクターじゃなくてね。少なくとも自ら嬉々として称したくはない名前だ。貴族ってのは須らく自尊心の高い生き物である訳だし、理屈通りに考えれば最初はやっぱり奥方の方だよ。たまたま妻に迎えた女性が“そういう性格”だったから、自分はその夫として“王”を名乗ったんだ。
ーーさて、これは余談ですが」
目の前に居るのも間違いなく貴族であるのに物怖じどころか遠慮もせず言い切った灰は、なんでもないことの様に続ける。
「サイリア・ハート・オロイラが『Queen・of・Heart』ならば、噂の拷問狂はトロエベット伯爵ではないと僕は考えています。彼はその罪を代わりに被っていただけで、チノイロ屋敷のチノイロ屋敷たる所以を創ったのはーーサイリア伯爵夫人の方だったのではないかと。
あくまで僕の推測ですから、拷問狂が伯爵夫人であろうとあるいは伯爵だったとしても、特に事件に関係はないでしょうけれどね」
ーーーーなんか大分前提が否定されていってる気がするんだが、突っ込んだら駄目なんだろうか。
駄目なんだろうな。
事前情報が違っていたということは。
即ち、そもそも仕入先が情報を偽っていたということで。
今回に限ってはーー依頼者側が、探偵を欺いた形になるのだから。
結局は欺ききれていなかったけれども、この場合大事なのは結果ではなく、晒して欲しい真実と共に隠しておきたい真実もあったと、そういう現実の方だ。
そんな真実がろくなもんじゃないことはわかってる。
そして、灰が“真実”を分別するような探偵でないのも、俺はよく知っているのだ。
最悪。
まさしく、運の尽きとも言える組み合わせ。
つまり、いやまぁ最初から予想は出来ていたけれど、この物語の結末は、清々しさとは無縁の泥々とした終幕であることは違いない訳で。
「本題に戻りますが、ーー『名も無き人喰い』の序盤の舞台が“理想郷”で、もっと言うなら地下都市メトロポリスのオロイラ伯爵邸であることは僕と彼が確認しています。加えて、“アリス”と“地下室”二種類の共通項。これは偶然でしょうか。否、偶然だなんてことはあり得ない。それでは偶然に対する冒涜だーー意図があり、意思があって二つの物語は繋がっている。
簡潔に結論だけを述べるなら、トエト・デ・ライオリーとトロエベット・ハート・オロイラは等号関係であると。よく考えてみれば子供でも解ける様なパズルでしたよ。焦らす価値も、無いほどに」
充分焦らしてたと思うのだけれど、素知らぬ顔でそう言われれば口を挟むのも憚られて俺は静かに目を反らす。
「“トロエベット”を略して“トエト”。“オロイラ”はローマ字に直して、並べ替えて“ライオリー”。
……自分の書いた小説と同じように殺された被害者。そんなことがあり得るとするなら、可能性は一つだ」
結局。結論。結果、結末。起承の転結。終幕の幕引き。完結。
そんなの、想像出来るわけも無く。
また想像しようとも思わないけれど。
灰は言う。
この先を見透かしているみたいに、得意げな態度で。
「要するに今回の事件は、『名も無き人喰い』を《原作》においた殺しだってことだよ。そして何より、『名も無き人喰い』は今だ未完の小説だーー物語がどこで終わるのかなんて、誰にもわからない」
「……まぁ、これで終わりってことは、まず無いだろうけれどね」
その言葉を最後に灰は口を噤んでしまい、推理劇は始まりと同様酷く一方的に終わりを告げた。しばらく黙って続きを待っていたレイラインさんも数分後には無駄だと気付いたようで、後味が悪いというかどうにも煮え切らないまま、物騒な夕食はお開きとなったのだった。
回想終了。
私はアリス。
不思議の国を、手に入れた。




