或いは最悪の日
「……、なにこれ」
血の様な赤と硝子玉の様な透明の宝石がそれぞれ散りばめられた、あからさまに高価そうな表紙を怖々と閉じた途端、思わず率直な感想が口をついた。別に本の内容を云々する気もそんな学も持ち合わせてはいないけれど、なんにしたって唐突過ぎる“読書”だったのだから致し方ないだろう。
「この本がなんだってんだよ……」
街外れの森の奥、随分と昔からある大きな建物。
『箱庭図書館』。
確かにそんな名前が一応与えられてはいるけれど、この建造物を“図書館”として使用している人なんて一人もいない。勿論ながら俺だってそうだ。俺の中でこの場所は、『怪談屋敷』であり『友人の自宅』でしかない。
そんな空間に訪れている理由を問われれば、まぁ当たり前だけれど、その“友人”に会いに来たーー否、呼び出されたからと答えることになる。すなわち、十数分とはいえ意味も無く時間を読書に費やす羽目になったというのは、少なくとも、俺自身にとっては不本意な展開だったのだ。
だけれどその不本意な展開を生み出した張本人は、いつも通りの悠然な態度でこう答えた。
「トエト・ド・ライオリー作『名も無き人喰い』」
壁に沿って隙間なく立ち並ぶ巨大な本棚。部屋の中央には一階と二階の吹き抜けを繋ぐ螺旋階段と、古代の数字で記された立体型の羅針盤。そして二階には、今度は等間隔を空けて並べられた本棚。
そうして上下左右加えて前後を本に囲まれたその空間のーー更に奥。二階の、少なからず日当たりが良い窓際に設置された休憩席に座る俺を見下ろして、本棚の前、木製の脚立の上に足を組んで座りまだ湯気の立つ紅茶を上品に啜った“彼”の赤い目が、酷く緩慢とした動作で開かれた。
「発表されたのは五年前。だけれどまだ未完結っていう、ある意味での問題作」
この図書館に住み着いた、炎のような赤髪赤目を持つ少年。
不知火 灰。
彼こそが本日俺と会う予定だった友人であり、こんな所に好き好んで住み着いている変人である。
「“変人”?君にだけは言われたくないなぁ」
「うっせぇ俺はまともだ。つーかこんな所に好き好んで住んでるような奴が一般人な訳ねぇだろ」
と、まぁ灰の変人たる所以はいくつ上げてもキリがないけれど、血縁は不明で出身も不明、付け加えれば年齢も不明、というまだ常識的な異常性のオンパレードの中でもう一つ、灰には見過ごせない大きな“異常”がある。
右腕が無いのだ。
重苦しいコートでも誤魔化し切れない違和感に、誰もが一度は息を飲む。右側の袖が肩の辺りからだらりと下がっている、そんな光景を見て。何故か、また何があってそうなったのかを知っている人物は、当の灰を除けば他にいない。けれどそれが生まれ持った身体的欠損や手術の結果ではなく、後から人為的に無理やり切断されたものだということぐらいは、傷口を見ればわかることだ。普通に生きていて右腕を捥がれる状況がいくつあるだろう?0に近い数になるのは、間違い無い。
要するに、不知火灰という人物は、前言通り全くもって普通ではないのだった。
ではどうしてそんな変人と平凡なる俺が友人関係なのかという話は、ひとまず置いておくとして。まずは目先の疑問を解決することにしよう。
「で?なんで俺はいきなり呼び出された挙句にこんな本を読まされなきゃならなかったんだ?」
「“こんな”とは随分な言い草だな。その本結構な高級品なのに」
「……いや、それはわかるけども」
「ちなみに、表紙の皮は人の皮膚だったり」
「うわっ」
ぱっと本を机に置いて、早々に手を離す。価値や価格に対する感動よりも嫌悪感が先に立った末での行動だった。きちんと手入れはされているのだろうけれど、そういうことではない。
そういうことではないのだ。
ただ、心理的に。あるいは生理的に、受け入れられなかったというだけで。
「趣味悪っ、」
「まぁ、それには同感だけれど」
でもそれだけじゃない。
そう言って、灰は続ける。
「高級羊皮紙にアッテンタート社製のブラックインク。例の表紙には5カラットのルビーが2つに1カラットのダイヤが12。金持ちの道楽を具現化したような一冊だね」
思わず本を二度見した俺は、机の上から持ち上げないままでページを捲る。当然、表紙には可能な限りふれないように。
冒頭の文章をじっくりと目で追って、咀嚼しながら考える。“本”の分野は完全に門外漢だ。この文章が素晴らしいのか悪いのかなんて判断のしようがないのだけれど、やはりそれにしたって、こう言わざるを得ない。
「……値段の割りには拙くないか?」
別に読めない程ではない。が、装丁や材質のクオリティと釣り合っていないのは確かだった。もっと端的に言うなら、分不相応というか。
詳しくない俺から見てもそうなのだ。ビブロフィリアであるこいつが、“自分の”図書館”に置くようには到底思えないものだけれど。
素人にはわからない何かがあるのだろうか、とまた2、3枚紙を捲ってみる。
そうして首を傾げてページを眺めていると、いつの間にか脚立から降りてきていた灰が、もう一杯の紅茶を俺の前に置きながら言った。
「自費出版だからね。でもまぁ、今回重要になるのは文章の出来じゃない訳だし……ストーリーはそんなに悪くないから読んでおきなよ」
「いやだからなんでわざわざ呼び出されて本読まなきゃならないんだって話だよ」
経験上あまり良い思い出の無い“得体の知れない紅茶”を手の甲で押しやってから、俺は改めて本を閉じ、巧妙に逸らされた話題をいよいよ戻そうと、溜息混じりに灰の方を見上げて、
「別にこのくらいなら明日でも、」
ーーそこまで言いかけた所で、自分が床に向かって倒れかけていることに気がついた。
「は、」
「明日じゃちょっと間に合わないんだよねぇ。今日の夕方には汽車に乗らないと、明日の昼間までに着かないからさ」
脳の奥が痺れる感覚。睡眠薬、なんて名詞が頭を過るが、紅茶には一切口をつけてないし、第一こんなに即効性のある睡眠薬が存在するのはサスペンスドラマの中だけだ。つまり、部屋に入った時か本を受け取った時あたりでもう何かを仕掛けられていたのだろうけれど。
「詳しくは目を覚ましてから説明するよ」
そんな声を聞き取るのがやっとな俺の脳では、それ以上先のことを考える余裕も猶予もないようで。
素早く襲ってきた眠気に逆らうことなく、朧げだった意識は掻き消えた。