赤き女王の円卓❷
薄っすらと湯気が上るスープを見つめて、数秒考える。出された料理を食べないというのは至極失礼な行為だと思うのだけれど、かといって『チノイロ屋敷』で何の用心もせず食事していいものなんだろうか。
微妙なところである。
ーーというか、味の良し悪し以前の問題として、貴族の食事が庶民の口に合わないのはよくあることだ。理屈を述べるなら、生まれ育った環境が違う分構成された味覚の細部が異なるのは当然な訳で。万人が口を揃えて「美味しい」と判断する食べ物は、えてしてほとんど存在しないものだ。
さて。
こに理屈で言うと、生まれながらの庶民である俺に絢爛豪華な夕食は身の程知らずもいいとこだと言わざるを得ない。見ているだけで満足、というか。
ああ、味噌汁飲みたい。
一昔前は、作るのが面倒で滅多に口にすることはなかったんだけれど。最近はほぼ毎日作って頂いていただけに、なんとなく恋しい気がするのだ。
蜆もいいが、やっぱり豆腐が一番だよなぁと、そんなことを漠然と思って。
「惚気?」
「断じて違う」
隣で極普通に食事を終えた灰がにやにやとこちらを見やってくるのを横目で睨んで、俺は結局スプーンを置いた。
やっぱり、無理だ。
「お口に合いませんでしたか?」
「あ、いやそうじゃなくて」
「合わないもなにもーー口に入れてすらいないからねぇ。ただ単に環境が異様過ぎて食欲失せただけでしょ」
なんて、俺の代わりに答えながら灰はぐるりと周囲を見渡して。
上げた口角をそのままにーー満を持して、語り始めた。
「ーーそれでは、そろそろ本題に入りましょうか」
先に一連の事件について振り返っておきましょう、と前置いた灰の姿は、探偵というよりも語り部のそれである。両手を組んで机に肘を付き、まるで台本を読み上げるように、朗々とあらすじだけを述べていく。少しも、迷ったり言い淀んだりする様子はない。
こうなるともう、この場にいる誰もが聞き役だ。遺族であろうと加害者であろうと、全然無関係な人間であっても、ただ相槌を打ち訊かれたことに返答をするだけの役回りを担うしかない。
話し手は唯一。
推理劇というよりは、朗読劇。
「三日前、オロイラ伯爵邸……通称『チノイロ屋敷』で殺されたオロイラ家当主トロエベット・ハート・オロイラ。殺人現場は被害者の書斎、死因は喉と脇腹をもぎ取られたーー否、食い千切られたことによる失血死。背には刺傷、他に争った形跡は無い。
というのが、今回僕に与えられた事件報告の全てでした、が」
「とりあえず補足と訂正を」
ぎし、とアンティークの椅子の背もたれを僅かに軋ませて、灰は見せつけるように人差し指を立てる。
「僕が連れて来た医者の診断では、背中を刺したのは万年筆と思われるそうで。書斎にあった万年筆の先がやや不自然に曲がっていましたから、おそらくはそれが凶器でしょう。血痕は、“当然”綺麗に拭き取られていましたけれど」
そういえば、俺が書斎に入ったとき灰は万年筆を手にしていた。もしかしなくてもアレのことだろうか。
なんて思い返している内に、「二点目は」と先程に続き立てられる中指。
丁度、じゃんけんでいうチョキのような形だ。
「喉と脇腹の他にも、全身の至る所に咬痕が確認されています。ここから推測するに、一連の行為は犯人にとっては殺人行為ではなく食事だったみたいですねぇ。ほら、犬とかがよくやるしょう。色んな角度、様々な方向から噛み付いて、少しでも喰いつき易い場所を探すっていう。どうやら犯人は、本気で被害者を食べようとしていたらしいーー否、実際に食べたかもしれませんが。千切られた肉片も見つかっていませんしね」
そう言ってくすくすと小さく笑った灰が、律儀にも今度は中指を立ててみせる。何が面白いのか、というかもはやその感性が疑われるレベルだけれど、まぁいつものことなのでさらりと流しておくことにしよう。
自主規制。
いや、自粛か。
それはともかく。
「三点目ーー殺害現場は、あの書斎ではありませんね。少し考えれば、わかることですが」
では何処か、と言えば。
「皆さんはご存知でしたか?地下に作られた、隠し部屋の存在を。初耳だという方のために、尤も周知の事実だった可能性もありますが、一応説明しておくと拷問部屋です。監禁部屋といってもいい。何にせよ、伯爵は彼処で随分と悪趣味な愛玩動物を飼っていたようです。それこそ、【犬】に似たものを」
【犬】。
ここでのーーこの国『バビロニア』における【犬】といえば、ネコ目イヌ科イヌ属に分類される四つ足の哺乳類ではなく。
人間。
もっと正確に言うなら、
「奴隷。そういった生き物をーー飼うための部屋。飼っていた部屋。そこが、僕は所謂現場だと判断しました。
さて、となると何故殺害現場は書斎ということになっていたのでしょうか。皆さんが嘘を報告したと言われればそれまでですけれど」
如何ですか?
と、わざとらしく問われて一瞬沈黙が訪れる。いやいや、俺は答えることなど出来るはずも無いから仕方ないとして。
気不味い類の無音が食堂内を満たしーー耐えきれなくなって、逃げるように部屋の隅に視線を移した途端。
「僕が、」
暫く無音を貫いていたノートさんが、すっと手を挙げてからいつもの調子で口を開いた。
「初めに御主人様を発見した時には、御主人様の遺体は、間違いなく書斎にございました」
それを聞いた灰は納得したように頷いて、同時に、口元に浮かべられた笑みを更に深くする。裏表の無い、というよりはむしろ裏しか存在していないような。楽しそう、ではなく、文字通りに愉しそうな表情で。
「成る程。まぁ血痕は残っていた訳だし、嘘じゃあないだろう。とはいえ、現場が地下室であることも確か。だから普通に考えて、殺してから移動させたんだろう、と。
以上、補足と訂正。
さて。じゃあそろそろ、謎解きをしようか」
そうして、場の空気がピアノ線みたいに張り詰める。触れれば切れそうな緊張感がチノイロ屋敷の不気味さと交差して、一刻も早く部屋を出たいという反射的な思考と、語られる刹那の謎解きを最後の一句まで聞き尽くしたいというどうしようもない好奇心が、俺を含む《聞き手》全員の動きを着席したまま止めさせた。
まさに、一度聞き入ってしまえば逃れられない、全員参加の推理劇。
得意げな顔で語り部は言う。
「ここからは、ある一冊の本の存在が重要になる。ーーーータイトルは、『名も無き人喰い』」
「トエト・デ・ライオリーの描いた、どこにでもいるような人喰いの物語だ」




