【名も無き人喰い】 5
【13】
繋がれた手から伝わる体温は、いつもよりずっと高い。
苦しそうな呼吸が落ち着くことはなくて、満足に体も動かせない彼女が、僕の腕の中で僅かに身じろいだ。
「……あれ、おかしいな」
掠れた、小さな声。
「君の顔が見えないや」
おかしいね。
なんて言って、彼女は笑った。
薄く開かれた赤い目は、申告通り僕を見ているようで、見ていない。ふわふわと、視線を宙に彷徨わせている。それがなんだか不満で、不安で、僕は空いた手を彼女の頬に添えた。
無理やり此方に顔を向けさせれば、やっと僕を見る彼女の両目。
でもこれは、彼女が意思をもって動かした結果じゃない。
僕が、僕の身勝手で、自己中心的にそうさせただけだ。
もう、この子は、きっと。
白い髪が、するすると彼女の細い肩を滑り落ちて。
まるで、死んでしまったみたいに。
死んで。
消えて。
落ちて。
「ごめんね、心配かけて」
心配?
心配なんてーーしていない。
出来ない。
そんな風に、僕は生きてこなかった。
誰かの心配が出来るような人生を、送ってこなかった。
彼女に、僕はどうやって映っているのだろう。
悲愴感を漂わせて、打ちひしがれているように見えるのだろうか。
心配、しているように、見えるのだろうか。
「大丈夫だよ。すぐ良くなるから」
そう言って微笑んだ彼女に、僕は何も言えなくなって。
酷く情けないけれど、一度うなづくことが、今の僕に出来る精一杯だった。
ーー彼女が倒れたのは、ほんの数十分前のこと。
生まれてきた理由を探すと宣言したものの今の生活を変えられなかった僕は、結局今迄通りにいつものように、曖昧で単純なカンケイを甘受していて。
幸せではないけれど、不幸せでもない。そんな風に、ただただ息をしていた、矢先。
崩れるように。
あるいは、壊れるように。
突然彼女は、地に伏したのだった。
何度呼びかけても目を覚まさず。
その体に力が込もることはなくて。
柄にもなく、焦ったりして。
今となっても、彼女は相変わらず苦しそうだ。
「慣れっこなの。もう」
ふう、と一つ大きく息を吐いた彼女は、再びゆっくりと目を閉じた。
慣れている、ということは。
この子にとってこういうことは、日常茶飯事なのだろうか。
少なくとも僕と一緒に過ごすようになってからは初めてだ、って考えてから、気が付いた。
僕と彼女が出会ってから、そんなに時が流れてはいないことに。
「人喰いさん?」
僅か。
ずっとずっと僅かな、期間だ。
数にすれば、2ヶ月程度。
出会ってから60日くらいの月日を。
僕は10年のように、一生のように思っていたのかもしれない。
それくらい二人で居た日々は。
歪んではいたけれど濃密で、甘やかで。
だけれど現に、僕は知らないのだ。
彼女の親も。
彼女の友達も。
彼女の自身さえ。
こんな時、どうしてあげればいいのかだって、わからない。
本物の“人間”だったなら?
僕がもしも“化物”じゃあなかったなら、今より少しでも、何か出来たんだろうか。
ああ、胸の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の方が、痛い。
痛い。
「人喰いさん、そんな顔、しないでよ」
と。
そう声をかけられて、ふっと意識が
また彼女の方へ戻る。
彼女はまだ、笑っていた。
「これは、罰なの。私がした悪いことを、カミサマが、怒ってるの」
知ってるかな。
この国には、昔のカミサマが住んでるの。
いつもあそこの塔の上で、私たちを見ているんだよ。
虚ろな目で語られるそれは御伽噺のようで、また、懺悔のようでもあって。
僕は何も言えずに口を閉じたーーーー沈黙に、縋ったのだ。
だって、罰だと言うのなら。
彼女の罪に対する報復だと、そう言うのなら。
僕に。
僕が、断罪されていない事実を、どう説明しよう。
人喰い。
最大のイカサマをして生きているような僕が、まだこうして無事に生きているのに。
カミサマなんて。
「……カミサマなんて、いないよ」
ぽつりと呟いた僕に、彼女はすこしだけ不思議そうな表情を見せた。
まるで、何を言っているんだと、言外に語り聞かせるように。
僕はなんだか気まずくてーー居た堪れなくて、彼女を直視しなくて済む位置に視線を逸らして続ける。
「そんなものが本当に居るなら、僕も君も、こんなところにはいない」
そしてきっと、僕らは出会うことすら出来ず。
君は、汚れてしまう前の、綺麗な君のままで居られたんだ。
そこまで考えて、でもやっぱり最後まで言葉にすることは出来なくて。ただ彼女を抱き留めた腕に力を込めた僕を、彼女は黙って見ていた。
静寂。
どのくらいの時間が経っただろうーー永遠だったかもしれないし、刹那だったかもしれない、長く短い空白を越えて。
次に口を開いたのは、彼女の方だった。
「違うよ」
「違う?」
「うん、違うの。私たちが出会ったのにはちゃんと意味があったんだよ。私は、ちゃんとわかってる。君だって、気が付いていないだけで、本当は知ってる筈だよ」
君は“選ばれた”。
両目を伏せて、満足そうに囁いた彼女は、
もう、笑ってはいなかった。
苦しげに上下する薄い腹が、今この子が生きているという唯一の証明だ。いつ死んでもおかしくはない、いやむしろ生きている方が不思議だと思えるくらいに、彼女は、弱々しい。勿論、僕に医療の知識など備えられていないけれど。
でも、そういうことではなくて。
そういう問題ではなくて。
「探して」
「私を、探して」
「あなたが選ばれた訳をーーあなたが生かされた訳を、探すの」
「どうか、」
用意されていた台詞を読み上げるみたいに、つらつらと並べ立てられた言葉の羅列。
それが彼女の、最期の言葉だった。
僕らの頬を伝った生温い雫の意味を、僕は、知らない。




