閉じられた姫君。
【10】
「お嬢様ぁ、お客様をお連れしましたぁ」
こんこん、と軽い音を立ててノックしたアリスさんが、中からの返答を聞いて扉に手をかける。
天井ぎりぎりまで面積を取ったその巨大で豪華な扉は、とても1人で開けられるような重さには見えなかったけれど。
「さて、どぅぞぉ」
アリスさんはそれをいとも簡単そうにーーやはりどこまでも規格外にーー引き開けて、しずしずと身を引いた。
こちらに敬意を払って、というよりは儀式的で形式的なロボットみたいな仕草が、いちいち彼女の情動の緩慢さを表しているようで。
正直、ぞっとする。
物語でも現実でもこういうタイプが、一番とち狂っているものだ。例えば、……殺人事件の犯人、とか。
いやいや、たらればで語るのが愚策であることはわかってるけれども。
わかっては、いるけれど。
なんというか、どうにも落ち着かない。そんな気分で、面倒臭そうにしながら無警戒に部屋へ入っていった灰の後を恐々と追いかけて。
そこで、今迄の自分が敷いていた“まだぬるい”心の準備を、深く濃厚に後悔することになる。
薄桃色の壁紙と、フリルやレースで装飾された家具。それから、その隙間を埋めるように溢れかえった夥しい数のぬいぐるみ。
やり過ぎなくらいに乙女ちっく……というか、端的に単純に表現すれば異様な部屋の。中央に置かれた天蓋付きのベッドの上に座り込んだ金髪の少女は、これまたふりふりひらひらなドレスを着込んでにっこりと笑っていた。
自分の身の丈ほどある、しかもファンシーにデフォルメされておきながら妙に凶悪そうな表情をしている、どう見ても気持ちの悪い熊のぬいぐるみを抱いて。
「初めまして、トロイベット・オロイラの娘の、レイライン・ハート・オロイラです」
ただまぁ、室内の異様さに比べれば随分マシに見える少女の姿に少しだけ安堵する。拷問狂のお嬢様っていうからもっと見た目からぶっ飛んでる人物かと想像ーー予想していたけれど、そうでもないようだった。
正常だ、とはいえないが。
「あなたが、不知火様ですか?」
長い金紗の髪がサラサラと流れて、少女は俺の隣の灰を見る。視線を受けた灰が「ああ」と無愛想な返事を返せば、人懐こい笑顔で「よろしくお願い致します」と頭を下げた彼女は、彼女たちのやり取りを黙って見ていた俺の方を向いて、
そうして、ぴたりと、固まった。
「……あなたは、」
その言葉に、彼女にとっての俺がイレギュラーであるという現実に気がついた俺が、とりあえず名乗ろうと口を開いた、瞬間。
「好きです」
「……へ?」
「好きです好きです愛してる!」
ぐい、と思いがけない力強さで引かれる手。それに驚愕の声や疑問の音を上げる間も与えず、彼女は先ほどとは打って変わったまるで薬に酔っているような目で、ベラベラと愛の言葉を紡ぎ出した。
「会えて嬉しいわ今迄どこにいたのよずっと探していたのよだってあなたは私の運命だもの!ううん運命なんて軽い言葉を使っちゃ駄目よねわかってるわ。私たちのこの奇跡的で究極で絶対で最大で空前絶後の縁にして愛を伝えるには二言三言じゃ全然、全く、壊滅的に足りていないものね。大丈夫よ幾つだろうとあなたが望むだけ言葉を重ねて告白するから。あなたが満足するだけ注ぐから安心してだってだって大好きだもん好き好き好き好き好き好き愛してる愛してる愛してる!」
「え、あの、え?あ、人違ーー」
「人違い?そんな訳ないわいくらなんでも有象無象で塵芥な男性と唯一無二の貴方を間違えたりしないわよ笑えない冗談ね。ああ違うの別に貴方の冗談が全然面白くないとかそういうことを言いたいんじゃなくて、ただあんまりそういうのは冗談でも言って欲しくないわってそれだけなのよ。でも怒ったりしないからね貴方が本気じゃないってことはよくわかってるもの貴方のことは生まれた時からこの世界中の何より誰より理解しているのよ」
ーー訂正。否、前言撤回。
この人、相当だ。
かなり退化しているだろう生物的本能が危機をがんがん叫ぶ。思わず掴まれた手を振り払いたい衝動に襲われるけれど、さりげなく引こうとしても、こうもがっちりと押さえ込まれていては微動だにしない。
大体、生まれた時から知ってるって、今会ったばっかりだろうよ。
彼女にはどうにかして正気を取り戻して頂いて、運命だの愛だの身に覚えのない言葉を是非とも訂正して貰いたい。が、それはちょっとばかし無理そうな気がする。何しろ完全に目がイっているのだ。残念ながら、精神的な病は俺の管轄外である。
そう思い、傍らの一応友人を振り返ってみるも、
「えー君達が知り合いだなんて知らなかったなぁやるじゃないか七夜ー」
……どうやら助けはいないらしい。
駄目だこいつ、楽しんでやがる。
と、行き場のない怒りと焦りが渦巻く心情の全てを込めて睨みつけてやると、もはや本当に友人なのかすらも怪しくなってきたあいつはちらりと此方を見て、それからわざとらしく不思議そうに言った。
「でも君さぁ、来月結婚するんじゃなかったっけ?っていうか、去年からもう婚約はしてたんでしょ?」
「え?」
先に反応したのは、今だ俺の手を捉えたままの彼女の方で。
けれど、この場で誰より動揺したのは確実に俺だと思う。そういう類の私事を、こいつに語った記憶は一切合切無いのだから。
先ほどより少しだけ緩んだ拘束からぱっと右手を取り戻して、勢いのまま灰へと詰め寄った。
「おいなんで知ってる」
「え?そりゃあまぁ、こないだ君の奥方が挨拶に来たからだけれど。いやいや凄い人だったねぇ色んな意味で。この国で生まれ育ったとは思えないほどの平和ボケっていうか危機感ゼロっていうか」
「そうだけどそこじゃなくて!なんで!お前に!挨拶!?」
「君が天涯孤独の身だからでしょ。親に挨拶出来ない分友人である僕には報告しておくべきだと思ったんじゃない?昨今の若者にしてはっていうか理想郷の住人にしては珍しく礼儀正しい人だよね。女性としての好みとしては些か天然過ぎてタイプとは違ったけれど、人間としてはかなり好きな部類だったから、柄にもなく随分と話し込んでしまったよ。あの休憩席で紅茶を飲んだ人物は君に続いて二人目だ」
「な、」
「ああ、安心して。別に変なことは話してないから。君と僕が出会った頃のこととか、君が何回罠に引っかかったかとかそれぐらいだから」
「他人の嫁に妙なこと吹き込んでんじゃねぇ!」
「そういえばさぁ、いや彼女と会う前からっていうか君の名前が“文月七夜”だって聞いた時から思ってたんだけれど、君って七夕に縁あり過ぎじゃない?奥方の名前聞いて吃驚したよ。結婚して籍入れたらもう完璧に七夕夫婦じゃん。なんたって彼女の下の名前、“お」
「いいよ言わなくて!つーかなんでここでバラした!?」
もうこいつ友達って呼びたくない。
そんなことを考えながら、ずきずきと痛み始めた額を押さえる。こうなるだろうから、灰にだけは婚約も結婚も話さないでおこうと決めていたのに。《あいつ》が度を越した天然であることは理解していた筈なのに、何故「箱庭図書館には近づくな」とか「不知火灰に関わるな」とか警告しておかなかったのかを今更になって後悔した。危機察知能力が皆無な《あいつ》に、危機を嗅ぎ分け避けるなんて芸当は断定的に不可能なのだから。
急激に襲い来る脱力感と倦怠感。
俺は深く深くため息を吐き出してーーけれど後ろで鳴った金属と金属の擦れる音に、一瞬にして背筋が凍るのを感じた。
ああ、すっかり失念していた。
この場には俺や灰の他にも、二人の人間がいたのだ。それもその内の一人は、頭のどこかが狂っているスピリチュアルヤンデレだ。デレがあるかは、別にして。
そしてそういうのを前にして俺たちのやり取りは、自殺行為でしかなく。
「ねぇ?ねぇ、ねぇ。ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇってば、」
ぐ、とその指先が更に白むほどの力を込めて掴まれた白衣の裾を引かれて、恐怖しないでいられる筈もなかった。
そうしておそるおそる伺った彼女は、おぞましいくらいの影を両目に宿していて。
「わかってる。わかってるいるわ」
なんて呟いた彼女は、一片たりとも笑っていなかった。




