第四話『学校のヒミツ④』
詳しいことは聞かされぬまま時は過ぎ、気が付けば一年生は新入生指導の日を迎えていた。
聞かされないと言っても、当の応援団による説明が行われなかったというだけであり、学校の先輩や先生からは、一年生の不安を煽るような体験談や嘘か本当かわからない説明がなされ、それが嫌でも耳に入ってきた。
体育館
そこがこれから先輩いわく『戦場』となる場所であり、数多のドラマやトラウマを生み出した場所であった。そして、指定時刻五分前にして一年生は全てその場所に揃っているこの状況。これから何が始まるのか。そんな不安だけが、彼らの頭の中には渦巻いているのだった。
しかし、その中にいても笠下月乃は日常はいつものように繰り返されていた。
それはつまり、唯我独尊の厚顔無恥。このような環境に放り出されてスッキリした気持ちでいられるはずもなく、彼女は約束の時間が訪れるその時まで、気晴らしに周りの生徒の顔を眺めていた。すると、ちょうど視界に入ったつかさがにっこりと笑って手を振ってきたのが見えたためか、彼女も表情を緩めて手を振り返す。
そして、彼女がそんなことをしているのとほぼ同時だった。その『時』が訪れたのは。
――ドンッ
いままで浮いた雰囲気を漂わせていた体育館の中も、その太鼓の重低音がひとつ響き渡ると、ざわついていた空気が嘘のように、まるでミュートボタンを押されたかのように、一気に静かになった。
月乃が左手につけた時計に目を移すと、指定時刻の四時を回って十秒ほどが経過していた。その正確さといったら、当の月乃もびっくりである。
次に舞台袖から数人の生徒が出て来るのが見えた。
彼らの登場によって、より一層空気が張り詰めるのが目に見えてわかったのだが、そんな状況を悠長に観察していると、なんと彼らは体育館に付属されたカーテンを閉め始めるではないか。ザーッ、という音ととも床を照らしていた光が遮断される。
周りを見ると状況がよくわかる。体育館の中の全てのカーテンが全て閉められていた。
暗がりの体育館。
そして、彼らが再び舞台袖に消えると、それを待っていたかのように学ランをきた生徒がステージ上に現れた。もちろん、一年生男子も学ランを着ているのだが、着こなし具合が一年生の比ではない。腕に腕章、頭にハチマキ、その数は三。
そう彼らがこの学校の『応援団』と呼ばれる存在なのだと気付くのに時間はかからなかった。
見下すような格好で一年生の顔色、おそらくは多くが不安や恐怖に染まったそれを眺めると、その中の一人、真ん中に立った、一際鋭い目力で、他とは一線を画すようなオーラを纏った生徒が、これまた、他では聞かないようなドスの効いた声を張り上げる。
「新入生諸君ッ」
体の芯まで染み渡るような声だった。そんな声で彼は続ける。
「掲示板に張り出されたプリントに目を通してきてくれたと思う。私が第四十八代応援団団長の霧島凍一である。貴様らァ、ガキくせえ顔してるなァ!今日集まってもらったのは他でもない。そんな中学生気分が抜けない貴様たちに喝を叩き込みッ、この高校の伝統をその背中に担うことのできる大きな人間になりッ、その上、流惺高校の一生徒として、誇りと自覚を持ってもらうためであるッ。我々は応援団である。我々は一切の妥協を許さない。もし、そのようなことがあれば、地獄を見ることになるのは貴様たちの方だッ。覚悟しておけ。話は以上だ」
ほぼ密室と言う環境に、応援団から睨み付けられると言うこの状況、それに加えて先程の脅し文句。先輩や先生からの良くない噂も相まって、一年生の緊張がピークに達するには十分すぎた。
(はあ、めんどくさい……)
月乃はそう心の中で溜め息を漏らした。
彼女の性格を考えるとそのような思考に至るのは至極当然のことなのだが、それが許されない状況に陥っていた。詰まるところ、このような行事は月乃がもっとも苦手とするもののひとつだった。
けれども、月乃でもこの新入生指導と言う行事を楽に切り抜ける方法は知っていた。それは、真面目に頑張ることでもなく、やる気無くだらだらやることでもない。方法は頑張りすぎず手を抜きすぎない、要するに目立たないようにすることである。
がんばらない、そう心に誓った月乃は、あくびをひとつ噛み殺しつつも、その耳にはステージ上の右側に立っていた応援団員が発した言葉がちゃんと届いていた。
「では、さっそく新入生指導に移る。まず始めに校歌を歌ってもらう。校歌とは知っての通り学校の顔であるッ。それを疎かにすることは、すなわち顔に泥を塗ると言うことと同義であるッ。そんな愚行をさせぬよう、我々がきっちりと指導していく。前奏から流す故、それに合わせて歌うようにッ」
その名前もわからない団員は、団長にも負けないくらい大きな声を張り上げて説明を続けたが、それが終わった後、数拍の間を置くや否や、途端に鋭い目付きで一年生たちを睨み付ける。
「おい、一年生ッ!返事はどうしたァ?返事をするのは基本中の基本だッ!わかったかッ!」
「「ハ、ハイ」」
「声が小さいッ!」
「「ハイッ!」」
激昂する団員を前に、一年生はただただ素直に従う以外の術はなかった。そんなこんなしているうちに、説明通りに校歌の前奏が流れ始める。
一方で、月乃はと言うとその時になって始めて、ちょっとだけ焦りを覚え始めていた。なぜなら、彼女は校歌と言う面倒なものは、冒頭の数文字しか頭に入っておらず、空で歌う等と言う芸当は到底できなかったからである。
(そういえば、つかさちゃんが校歌だけは覚えとけみたいなこと言ってた気がするなあ……。あのときは聞き流してたけど……)
しかし、覚えてないものは仕方がなく、この状況に至ってもはやどうすることもできなかった。
(まあ、口パクでいいか。いいよね)
そんな心配は無用の長物。その時の月乃は一抹の不安だけを残しつつ、そんな軽い気持ちでこの新入生指導に望んでいた。
しかし、校歌の歌詞が始まるや否や、応援団は演奏を停止させたではないか!
運が悪いことに、月乃が持った一抹の不安は、キッチリ、ガッチリ、的中してしまったのだ。応援団は一年生を再び鋭い目付きで睨み付ける。その時に団員の一人と月乃は目が合ってしまった。それに気づいた月乃は、気まずくなって視線を下げる他無かった。
月乃を含め、一年生の中で何が起こったのか分からないまま、数刻が過ぎ、流石におろおろし始めるものも出てきた。それを見た団長はあからさまに大きな溜め息をひとつ吐き、声を荒げて叫ぶ。
「やる気あんのかァ、てめえらァ!」
(やる気なんて最初からないよ、ばか)
月乃はこっそりと応援団には聞こえないくらいの小さな声でそう呟く。隣の生徒には聞こえただろうが、その生徒も、腫れ物を触るように月乃に視線を送り、苦笑いをしただけですぐに目線をそらした。
「何だ、そのみみっちい声は?校歌は学校の顔だって言っただろォ?声帯が千切れるくらい、鼓膜が破れるくらい、大きな声を出せッ!あと、歌うときはエビ反りッ!前方ではなく、天に向かって叫べッ!わかったか、一年どもォ!」
「「ハイッ!」」
応援団長の説明に一年生は訳もわからず返事をする。そうしないと、何だか言われもない罵倒をされる気がしたからだ。しかし、説明不足である。実に理不尽である。校歌を歌うのに特別なしきたりがあるのなら、始めに説明すべきであろう、と月乃を含め少なくない一年生がそう感じ取ったに違いない。まさに社会の理不尽さの縮図である。そんなものを高校入学早々体験できるなんて夢にも思わなかった。
「では、もう一度、はじめからやり直すッ!」
応援団長が合図を送ると、再び校歌の前奏が流れ始めた。
一年生の間に緊張が走る。
歌詞の始めに差し掛かると、何人かの息を吸い込む音が聞こえた。けれども、ただそれだけである。一年生の全体の声量が大きくなったわけではなかった。応援団は再び曲を停止させる。
言葉はなかった。
応援団長は何を思ったのか、ステージから降りてくると、月乃のいるクラス、つまり二組の列に入り込んで、どんどん列の後ろの方に歩を進めてきたではないか。そんな彼の思いもよらない行動に対し、二組の生徒は自然と道を空け始めた。
穏やかでないのは月乃の心である。彼女の額には普段は浮かばないような汗が浮かんでいた。しかし、応援団長は肩を揺らしながら、月乃の横を通りすぎる。彼の目当ては彼女ではなく、彼女の二人後ろの生徒だったのだ。
歩みを止めた団長にみんなの視線が集まった。
「大丈夫か?」
彼が声色を変えて優しく声を発した先にいたのは、気分が悪そうにうずくまる少女の姿だった。ステージ上から彼女の姿が見えた団長は、急いで駆け寄ってきたのだった。
少女の返事はない。
団長は、それを確認するとヒョイと彼女を背負い、体育館の外まで運んでいく。その間、一年生はその様子を呆然と眺めていた。
しばらくして、ステージ上に戻ってきた応援団長は一つ咳払いをすると、声色を戻して叫んだ。
「全員座れ。さっさと座れッ!」
一年生たちは多少戸惑ったが、とにかく言われるがまま、恐る恐る床に腰を下ろし始め、それを確認した応援団長は、話を続けた。
「間を空けてすまなかった。では、新入生指導を再開する。といっても、貴様ら一年生は基本がなっていないので、今までのを続けても無為に時間を浪費するだけだ。そこでッ、今から俺が一人、クラスと出席番号を指名する。そしてその一人に見本として歌ってもらうこととするッ。他の奴は良く聞いておけ。いいなッ!」
「「ハイッ!」」
一年生一同は再び大きく返事をする。
(やっば。これって指名されるの?どうか当たりませんように……)
そんななか月乃は再び焦り始めていた。歌詞を覚えていない月乃は指名されれば、それこそ一巻の終わりである。そうでなくても、一人だけ晒し者にされることを良しとする生徒はそういるはずもなく、心の名ではその場にいる全員が、どうか当たりませんように、と祈っているような表情を浮かべていた。体育館の中は、いろんな表情の生徒が渦巻くなか、団長の口からクラスと出席番号が発表される。
「それでは指名するッ。二組の……」
指名されたクラスは、月乃のクラスだった。それを聞いて、月乃は一層ギュッと目をつむる。
「……十一番!立てッ!」
その瞬間、月乃はホッと胸をなでおろした。指名されなかったことに対し、今までにないくらいの安堵を覚えていた。けれども、安心したのも束の間、すぐに別の緊張が訪れることになった。
「は、はいっ!」
指名された、二組の十一番の男子生徒が若干裏返った声を出しながら立ち上がった。その声に月乃は少しばかりの聞き覚えがあった。そして、その予想は立ち上がったその生徒の後ろ姿を見て確信に変わる。顔を上げた月乃の目に映ったのは、他でもないあの手嶋太陽だったのだ。
「何をグズグズしているッ!今すぐステージに登壇するようにッ!団長の命令だぞッ!」
そう急かしたのは、ステージに向かって左側に立っていた団員だった。長い髪を後ろに束ねたその団員は、勘違いでなければ女である。
緊張からか、はたまた恐怖からか、太陽の顔には大量の汗が浮かんでいた。いつも彼のことをバカにしている月乃であってもこればっかりは同情せざるを得ない。みんなが太陽を見守る中、応援団の声が無慈悲に体育館の中に響いていたのだった。
そのあとは、筆舌に尽くしがたいハラハラな出来事の連続だった。がむしゃらに我を忘れて歌う太陽を見て、みんなはそれを手本とするより、独りよがり晒し者にされる恐怖を感じ取っていた。
その上、応援団はそれを逆手にとって、「手を抜いたものは、ステージに登壇してもらう」と言ったものだから、次に全員で歌うときは、みんな必死だった。
――恐怖
体育館の中を支配していた空気はその一言に尽きる。
直接は手は出さなかったものの、団長以外の団員はステージから降りてくると、一年生に直接指導に当たっていた。何も悪いことをしていなくても、近くで大声で怒声を浴びせられるのには、何だか心に来るものがあったのは間違いない。
一方で、月乃はどうあがいても口パク以外のことはできなかったため、他の人より二倍三倍と余計な労力を結果となった。
汗と涙と熱気が渦巻く中、こうして一日目の新入生指導が終了したのであった。