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02.パンと牛乳

 ところで、太陽の光が降り注ぎ、輝くような自然に恵まれたこの国にも、過去を振り返れば暗い歴史がある。

 戦争、暴動、飢饉。

 それらはすべて魔物の仕業だとされていた。魔物とは、人の心が生む恐ろしい生き物だ。地表から湧き出し、人間を襲う。近年ではあまりないが、五百年前は数十年置きに起こっていたという。そしてそのたびに、生贄が捧げられたのだ。

 しかし昨今は平穏続きで、人々の記憶からも忌まわしい歴史は消え去ろうとしていた——ある日。


 ルカがどんなに自慢をしても、とうとう誰からも相手にされず無視され続けた一日の終わり。

 街角でルカを手招きする老婆がいた。フード付きの黒いマントを羽織った小さな老婆だ。

「おいで……おいで……」

 人に声をかけられることが珍しかったルカは、気を良くして近寄った。

「なに?」

「おまえは王子だね」

「そうだよ」

「じゃあ父王にお言い。この国へ災いをもたらすため魔物が降って来る、と」

 ルカはとたんに青ざめた。

「なな、なに言ってるんだよ」

「ククク。ほんとうさ。生贄を一人捧げるというなら話は別だがね」

「い、いけにえ?」

「そうさ。大人でも子供でも男でも女でもいいよ。生贄をおよこし」

 老婆は口の端を上げ、フード下から目を光らせた。ルカはしばらく驚いていたが、やがて首をかしげた。

「それ、僕でも構わない?」

「……ああ」

「ほんとに? そんな価値がある?」

「誰でもいいんだよ」

「じゃあヨロシク」

 ルカは握手を求めた。老婆はその手を、無表情に眺めた。

「自分がなにを言ったか、わかっているのかい?」

 ルカは大きくうなずいた。

「うん。死ぬんだろう? だったら僕ほどピッタリなのはいないよ」

 老婆は目を見開いた。

「どうしてだい」

「ここには、僕がいなくなっても悲しむ人がいないからだよ。それに僕は風になりたいんだ。人は死んだら風になるって聞いたよ? 自転車がなくても風になれるなんて、すごいと思わない?」

「おや……」

 老婆は、喜んで死を受け入れようとする愛のない入れ物を不思議そうに見つめた。

 人は愛を知ればこそ、人のために喜んで死ねる。

 愛を知らぬ者は自分だけ生き残ろうとし、それが叶わぬとなると道連れを求める。

 少年はそのどちらでもなかった。自暴自棄になっているわけでもない。少年は誰かのために死ぬというよりは、夢を叶えるために死のうとしているようだった。ついでに魔物の襲来を防げたら一石二鳥くらいにしか思っていないのだ。

「愛がなければ死も恐れぬに足りぬと言うか。おもしろい子供じゃ」

 老婆は呟き、少年に背を向けた。

「ついておいで。風になるには試練があるよ。生贄とは単に死ぬことじゃない」

「風になれるんなら、なんでもやるよ」

 ルカは老婆について行った。狭い路地をいくつも曲がり、暗い暗い道を何時間も歩いた。やがて町の景色はなくなり、草原を抜けて崖まで来た。

「さあ、ここへ身を投げるんだ」

 ルカは崖の下をのぞいて見た。険しい岩壁が真下に伸び、底なしのような闇がある。

「簡単に死んじゃいそうだね」

「死ぬんじゃないよ」

 老婆は言って、少年の背を軽く押した。ルカの足は一瞬だけ宙を舞った。しかし下へは落ちなかった。

 一本のけもの道をはさんで、左右対称の草原と森と山がある。そこへ立っていた。

「ここはどこ?」

「鏡の世界さね」

 少年の背後から老婆は言った。

「鏡?」

「おまえはここで自分を知ることになるんだよ。気をつけておいき」

 ルカがふりかえると、老婆はもういなかった。


 ルカは歩き始めた。ずっと続くように思えたけもの道も、ぽつりぽつり民家が見えてくると終わった。なんということはない。他の国に来ただけという印象。ルカは拍子抜けして道端に腰を下ろした。

 だが数時間そうしていると、おなかが空いてきた。生きている証拠だ。ルカは向こうに見えている町へ入ることにした。

 そこそこに人の往来がある町だった。レンガや漆喰や石造りの街並だ。ルカはパン屋を探して店に入った。ポケットに少しの銀貨と金貨がある。

 店を出たルカは、パンをかじりながら考えた。銀貨も金貨も使い切ってしまったら、どうすればいいんだろうと。だんだん不安になる心は抑えきれなかった。夜になったら寝る場所もないことを思い出して、いたたまれなくなった。

 パンを食べてしまうと、いよいよ心配になってきた。といって、なにをすればいいのかわからない。ルカはなにもせず、じっとうずくまった。

 なにもしないので、なにも起きなかった。時間さえも過ぎて行く気配がない。おなかも空かない。

 ルカはやがて退屈になり、立ち上がって再び歩き始めた。すると時間も流れ始めたように感じた。だんだんと太陽が傾き、夜に近づいていったのだ。おなかも空いた。

 ルカは大衆食堂を見つけて中へ入った。子供が一人で食べに来たことを誰も気にしないふうだ。ウエイトレスもほかの客に接するようにルカに接した。


 その晩は農家の納屋に忍び込んで藁の中で寝た。さみしくはなかった。誰もが自分を知っていながら見向きもされない孤独より、もとより誰も知らない世界での孤独のほうが、ずいぶん温かいと感じたのだ。

 翌朝。ルカは思わず寝過ごして、納屋の(あるじ)に見つかってしまった。しかし、主は怒ることなく、こう言った。

「畑の手伝いができるのなら、置いてやってもいいぞ」

 ルカは畑の仕事などやれないと思ったが、明日の寝床もないので黙ってうなずいた。


 畑の仕事は予想以上に厳しかった。まだ十の少年に農具を使いこなすのはむずかしく、育ちのせいか要領も悪かった。

「てんで使い物にならないな。まあ誰でも最初はそんなものだが……掃除はどうだ? 納屋の掃除や馬や牛の世話をするなら畑はいい」

 ルカはまったく自信を持てなかったが、畑仕事よりはいいだろうと思い、うなずいた。

 しかし、やっぱり大変だった。普通なら夕方前後に終わる仕事も、ルカの手にかかれば夜遅くまでかかってしまう。食事といえば一日一回。パンと牛乳だけ。おなかが空くので力も入らず、余計に手間取った。それなのに、

「食事は仕事に見合った分しかやれない」

 と、主は言った。ルカの仕事は「パン一個とコップ一杯の牛乳」の働きでしかないと言うのだ。ルカは不満だった。しかし追い出されるかもしれないという不安から文句は言えなかった。


 だが二週間も続くと、ルカはついに参って掃除用具をいっさい投げ出してしまった。

「やってられないよ!」

「おや、もうやめるのかい?」

 突然声がして振り向くと、例の老婆がいた。ルカは早く風になりたいのに、そうはしてくれない老婆に腹を立てた。

「こんなことしたって意味ないよ」

「本当にそうかい?」

 老婆はクククと笑い、少年を連れ出した。

 畑では主が汗水流して必死に働いている。もう昼を回ったが休む気配もない。やがて夕方になると、やっと仕事をやめて家に戻り、野菜の入ったスープを一皿食べて就寝した。それから朝が来て目覚めると、一杯の牛乳を飲み干し、テーブルにルカのパンと牛乳を置いて仕事へと向かった。

「これがあの男の毎日さ。おまえに与えるパンは本来なら、あの男の朝食なんだよ。貧しいのさ。それでも文句を言わず、おまえを手元に置き、自分の食事を分け与えている。本当にもうやめてしまうのかい?」

 ルカは黙ってうつむいた。

 老婆は少年の様子をうかがい、やんわりと諭した。

「男は自分が空腹だから、腹を空かせたおまえの苦しみがわかるのさ。人の苦しみを自分の苦しみとして感じるからこそ、損得なしに食事を分け与えることができるんだよ」

「どうして? お腹が空いてるなら全部ひとりで食べちゃえばいいんだ」

「そうしてしまえないものが男にはあるのさ」

「それはなに?」

「クックック。いずれわかるよ」

 老婆は言い終えると静かに、どこへともなく消えた。

 ルカはしばらく茫然としていたが、そのうち老婆にならうように、そっと立ち去った。主がパンと牛乳を用意してくれたそのテーブルに、純金の懐中時計を置いて。

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