【短編022】 最後の読者:書いたはずのない登場人物が、原稿を読んでいた。
本作は、小説を書く男と、彼が生み出した物語の中に現れる存在を描いた短編です。
現実と虚構の境界が少しずつ揺らいでいく過程を中心にしています。
静かなホラー・文芸寄りの作品となっていますので、ご注意ください。
小説の書き出しに二週間かかっていた。
篤のデビュー作は去年の秋に出た。
文芸誌の新人賞で、選評に「静謐な才能」と書かれた。
本人は、その言葉の意味が今も分からない。
静謐な才能、というのは売れない、の言い換えかもしれないと思っていた。
実際、初版の八割が戻ってきた。
二作目の締め切りは、三か月後だった。
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ミカというのは、篤が書いている小説の登場人物だ。
二十代の女で、誰かの遺品を整理する仕事をしている。
依頼があると、段ボールと手袋を持って死者の部屋に入る。
感情を持て余していて、それを誰にも見せない。
最初にミカを部屋で見たのは、三月の夜だった。
篤は机に向かっていた。
画面に向かって、一行も書けないまま一時間が過ぎていた。
何かの気配がして振り向くと、窓の前に女が立っていた。
鍵はかかっていた。
四階だった。
女は篤を見ていた。
驚いていないように見えた。
視線が、篤の顎のあたりに合っていた。目ではなく、そこを見ていた。
ただ静かに、こちらを見ていた。
篤が声を出す前に、女は消えた。
そこには何もなかった。
カーテンが、少し揺れていた。
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翌朝、その場面を書いた。
ミカが、誰かの部屋に入る場面だった。
書きながら、昨夜見た女の顔を思い出した。
顔立ちに細部があった。
鼻の形。まつ毛の長さ。
今まで自分が作った人物には、そういう細部がなかった。
書き終えてから、最初の一段落を読み返した。
鼻の形、と書いてあった。
まつ毛の長さ、とも書いてあった。
どちらも、書いた記憶がなかった。
その日の夜、またミカが来た。
今度は廊下に立っていた。
電気はついていた。
篤は少しの間、ミカを見た。
ミカは篤の少し後ろを見ていた。
消えた。
篤はその日書いた原稿を読み返した。
ミカが室内を歩く場面があった。
廊下、と書いていた。
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一週間で、篤は三十枚書いた。
ミカは毎晩来るようになった。
来る場所は、その夜の原稿と一致した。
ハルが気づいたのは、その頃だった。
黒い猫で、額に白い三角形があった。
近所の空き地に住みついていて、週に二度ほど勝手に上がり込んでくる。
扉の開け方を知っていた。
その夜、ハルは廊下の中ほどで止まった。
何かを見るように、首だけを動かした。
篤には何も見えなかった。
ハルはしばらくそうして、それから向きを変えて部屋を出ていった。
その夜の原稿には、ミカが誰かの気配を感じる場面があった。
気配の主には、名前がなかった。
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四月に入って、順序が逆になった。
気づくと、昼と夜の区別がなくなっていた。
食べた記憶のない日があった。
ある夜、ミカが机の引き出しを見ていた。
翌朝、篤はミカが何かを探す場面を書いた。
書き終えてから、少しの間、画面を見た。
次の夜、試した。
まだ書いていない場面を、頭の中だけで考えた。
ミカが階段を下りる。
書かなかった。
ただ、想像した。
翌朝起きると、玄関の靴が二足分あった。
篤のものではない靴が、一足、並んでいた。
女物でも、男物でも、判断できないサイズだった。
篤は少しの間、それを見た。
触らなかった。
その日、ミカが窓を割る場面を書いた。
書き終えてから、台所の窓を確認した。
ひびが入っていた。
書く前はなかった。
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ある朝、昨夜書いた原稿を開いたら、最終行の下に一行あった。
篤は書いた覚えがなかった。
フォントも余白も同じだった。
その一行を、篤は最後まで読んだ。
それから、画面を閉じた。
削除はしなかった。
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担当編集者の番号を押して、切った。
喉が、動かなかった。
ハルが来た。
玄関から入ってきて、直接台所に行き、水を飲んだ。
それから廊下の突き当たりに行って、また止まった。
鳴かなかった。
低く、喉の奥で何かを鳴らした。
篤は廊下を見た。
何もなかった。
ハルは動かなかった。
三分くらい、そこにいた。
それから、玄関に戻って出ていった。
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五月に入る直前、篤は小説の中でミカを死なせようと思った。
ミカを長く書きすぎた。
ミカは動かなくなっていた。
次の場面が書けなかった。
その夜、ミカは机の横に立っていた。
今まで、ミカは遠くにいた。
廊下、窓の前、部屋の隅。
机の横に来たのは初めてだった。
篤の視線と、ミカの視線が合った。
ミカが、一歩動いた。
ミカは篤を見ていた。
正確に、篤を見ていた。
今度は顎ではなく、目だった。焦点が合っていた。
気配を感じているのではなく、篤を見ていた。
消えなかった。
一分が過ぎた。
二分が過ぎた。
ミカは動かなかった。
篤も動けなかった。
それから、ミカは机の上を見た。
原稿が開いていた。
ミカは原稿を見て、また篤を見た。
消えた。
その夜、篤は何も書かなかった。
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翌朝、篤は原稿を読み返した。
一時間後、篤は椅子の背にもたれた。
ミカは遺品整理をする人物として書いた。
死んだ人間の部屋を片づける。
残されたものを、適切な場所へ運ぶ。
それがミカの仕事だった。
段ボールに物を入れる場面を書いたことがあった。
ミカは手袋をはめたまま、ためらわずに入れていた。
ミカについて書いたのは、篤だけだった。
ミカを読んだのも、今のところ、篤だけだった。
物語の最後に、ミカは初めて自分の仕事の依頼を受けることになっていた。
依頼人の名前は、まだ書いていなかった。
篤はメモ帳を開いた。
最後のページに、何かが書いてあった。
篤の字ではなかった。
整った、細い文字で、一行だけ。
*この物語の、最後の依頼人の名前は、宮下篤という*
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篤の本名だった。
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それから篤は書き続けた。
どちらか分からなかった。
ミカは来なくなった。
来る必要がなくなったのかもしれない。
締め切りの一週間前、篤は書き終えた。
最後の場面は、ミカが新しい部屋に入るところで終わった。
誰の部屋か、書かなかった。
読者が決めればいい、と書いた。
その夜、ハルが来た。
珍しく、篤の膝に乗ってきた。
重かった。
温かかった。
額の白い三角形が、蛍光灯の光で少し光った。
ハルはしばらくそこにいて、それから降りて、出ていった。
玄関で一度だけ止まって、それから外に出た。
翌朝、玄関の靴は一足だった。
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あなたが読んでいるこの文章も、誰かの原稿の一部だ。
お読みいただきありがとうございます。
「書く」という行為と、「書かれたものが現実に触れてしまうこと」の境界について考えながら書きました。
静かな話ですが、少しでも何か残るものがあれば嬉しいです。




