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【短編小説】あとの話

作者: 青いひつじ
掲載日:2026/06/13



長い道のりであった。

私の命は、今日の、この瞬間のためにあったと言っても過言ではない。

だからこの日を迎えられたことを心から嬉しく思う。




『私は、あなたに優しくできていたかしら。よい妻だったかしら』


私は、「当たり前じゃないか」と、「君と一緒になれて、とても幸せだ」と言えなかった。その代わりに、繋いだ右手にほんの少しの力を込めた。


それは、青く寂しく冷たい夜のことだった。

病室のベットで横になり、妻は静かに涙を流した。



医師から諸々の説明を聞き終えた、病院からの帰り道。月がひとりぼっちの私をアスファルトに写した。昔よく妻と歩いた、街路樹が並ぶ散歩道。隣を歩く背の低い影は消え、私は独りになった。


ふと、道に落ちた靴下が目に留まり、私はそれを拾い上げた。薄いピンク色の子供用の靴下だった。

いつだっただろうか。彼女がぽろっと、子供が欲しいと話したことがあった。


あの時、寂しそうに言葉を落とした彼女に、なんと答えたのだろう。

ここまでの道中で、私はいくつの落とし物をしたのだろう。

最後に彼女の手料理を食べたのは、いつだろう。味噌汁の味は。

いつからあんなに白髪が増えたのだろう。

一体いつから、具合が悪かったのだろう。




妻が入院してから、私はより一層、仕事に打ち込むようになった。

叶えたい目標ができたからか、気を抜けば、数ヶ月後にやってくる彼女との別れを想像してしまうからか。

側にいた時よりも今の方がずっと妻を近く感じるのだから、残酷なものだ。


とにかく私は研究に励んだ。それは深夜も続いた。寝ずに三日三晩続ける時もあった。余計なことは考えなかった。

完成まではあと少しだ。約6年の臨床試験を終え、ついに治験の段階まで到達することができた。現時点での治験者の状態は非常に良好である。2年間のデータをまとめて、承認申請を‥‥。残り、2年、いやスムーズに進めば1年半といったところだろうか。





朝目覚めれば、まだ霧のかかった頭でキッチンに立ち、鍋に水を入れ、火にかける。沸騰するまでの間に洗面所で身支度を済ませキッチンに戻ると、沸々と泡を浮かべ始めたのを確認してから火を止め、コーヒーを淹れる。起きてから家を出るまでは25分ほどだ。帰宅後はシャワーを浴びて布団に潜れば、5分も経たずに眠ってしまう。そしてまた朝が来る。



そんな、巻き戻しては繰り返し再生されるような毎日を過ごしていた、ある日のことだった。

妻の入院してる病院から連絡があり、それは、彼女の外出許可を伝えるものだった。

私は一瞬でその意味を理解し、頬にはいくつもの光が走り、震える声で「分かりました」と答えた。

少し前に妻が、『最後に1日でいいから家に帰りたい』と言っていたのを思い出した。

別れが、もう目の前まで近づいてきているようだ。





1週間後の土曜日。妻が家に帰ってくる日だ。

前日の夜は忙しかった。久しぶりに部屋を掃除して、溜まった洗濯物を片付けた。

透明になった窓から差し込む朝日が気持ちよかった。


正午過ぎ、妻を迎えに病院へ向かった。風船が萎むように、日に日に元気がなくなっていた妻だったが、今日は少し笑顔が多いように感じる。

昼ごはんには、お湯に味噌を溶かしただけの味噌汁を作った。手抜きをしたのではない。分からないなりに予想して作ってみたのだ。食べやすいように、砕いた豆腐も入れみた。

スプーンで掬ってよく冷ましてから、妻の口元へ運んだ。椅子に座った妻は前に屈んで、ちょんと口をつけると『まだまだね』と囁いた。



昼食を済ませると、妻が散歩に行きたいと言い出した。

冷えないように、ニットの帽子を深く被らせて、鼻のあたりまでマフラーを巻く。

外に出ると冷たい風が吹き寄せてきて、私は妻のマフラーの結びめを少し強くした。



『あのパン屋さん、やってるのかしら』


「数日前に再開したみたいだよ」



結婚してすぐの頃、土曜日の朝は決まって2人で散歩に行って、帰りにはパン屋に立ち寄った。どちらかが言い始めたわけではなく、自然にそれが日常になっていた。


同棲が始まって間もない頃は喧嘩してばかりで、お互いに頑固で、素直になれなかった私たち。

仲直りの印に、彼女の大好きなパンを買って、そうしたら彼女も同じことを考えていて。




『イチョウがもう枯れてしまったのね。横になったままだとね、窓からは何も見えないの』


「最近は風が強かったから」


『そう‥‥でも、最後に見られてよかった』



最後。今日が、妻とこうして時間を過ごせる、最後の日だ。



「なぁ」


『なに?』


「君は、私と結婚して幸せだったかい」



妻は答えなかった。

その代わりに小さな手を差し出してきて、私が手を繋ぐと、小さく力を込めて私の指を握りしめた。



落ち葉を踏む車椅子の、このタイヤの音を、私は一生忘れないだろう。

少し曇った空も、湿気を含んだ空気も、匂いも。グレーのニット帽をかぶった妻の後ろ姿も。



『この匂い、懐かしいわね』


「無事復帰したんだね。店主が長らく入院していたみたいだけど」


『そう‥‥治ったのね。よかったわ』


「寄っていくかい?」


『いいえ』


短い会話を繰り返しなが、私たちは公園に到着した。

ベンチに腰掛けると、突然眠気に襲われて、私はそのまま目を瞑った。







ここは民間の製薬会社。

ここでは、治療以外の目的で使用される秘薬の開発が日々行われている。例えば、亡くなった後に使用される"後薬"と呼ばれる薬。これを投薬すれば、願望を叶える夢をみることができ、人生での大きな後悔をひとつだけ解消してあの世にいける。亡くなった人のための薬だ。



『教授の投薬期間が終了しました。明日、火葬場に運ばれるようです』


『そうか‥‥』


『教授はどんな夢をみておられるのでしょう』


『薬が完成した夢をみられているはずだ。長い間、この日のためだけに頑張ってこられたんだから。あと2ヶ月長く生きられていたら‥‥。きっと教授も完成を見届けられないことは気づいておられたのだ』


『だから、自分が死んだ後に投薬して欲しいなんて遺書を‥‥。そうだ、教授のご家族にはお伝えしなくても大丈夫でしょうか』


『教授には、ご家族はいない。奥さまは3年前に急死されたんだ。教授はその時、学会での研究発表中で連絡に気づけなかったそうだ‥‥』


『そうだったんですね‥‥』


『ここにいる研究員たちはみな、研究が恋人のようなものだからね』


『‥‥私は、最後にどんな夢をみるでしょうか』


『それは死んだ後にしか分からない。この薬でみられる夢は、決して見つけることはできない、深い海の底に眠る様な、ただひとつの願いなのだから』




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