第45話 異議が減ったのか、入口が消えたのか
【異議申立導線到達率】
【集計完了】
相沢の端末に、その表示が出た。
前話の最後に準備中だった集計が、夜のうちに終わっていた。
画面には、二つの表が並んでいる。
左側は、本庁が作った成果資料。
右側は、相沢が拾い直した操作ログだった。
【KG系テンプレート 運用成果報告】
【異議申立率:低下】
【処理滞留率:低下】
【支払済み移行率:上昇】
【平均処理時間:短縮】
【評価:利用者満足度向上に寄与】
綺麗な資料だった。
数字は整っている。
矢印は、すべて望ましい方向を向いている。
異議は減った。
滞留は減った。
支払済みは増えた。
処理時間は短くなった。
書類の上では、久我式は成功していた。
真鍋課長が、画面を見て小さく唸った。
「これは見栄えがいいな」
『はい』
相沢が、淡々と答えた。
『見栄えは、とてもいいです』
「嫌な言い方をするな」
『数字の並べ方が、嫌です』
真鍋課長は胃薬の瓶に手を伸ばしかけて、やめた。
「どこがだ」
相沢は、左側の資料の最下段を拡大した。
【評価:利用者満足度向上に寄与】
『満足度を測っていません』
会議室が、少しだけ静かになった。
俺は画面を見た。
「調査項目は」
『ありません』
「アンケートは」
『ありません』
「面談記録との紐づけは」
『ありません』
「では、この満足度は何ですか」
『異議申立率の低下です』
相沢は、右側の表を開いた。
【KG系テンプレート 利用者側操作ログ】
【説明画面到達:あり】
【異議申立導線表示位置:初期画面外】
【異議申立導線到達率:〇・七%】
【異議申立導線クリック率:〇・三%】
【戻る操作:不可】
【途中保存:なし】
【無操作時処理:異議なし】
数字が、同じ画面の中で向きを変えた。
左側では、異議の少なさが制度の安定だった。
右側では、入口に届いていない可能性が見えていた。
御園さんが、画面を見たまま言った。
「〇・七%……」
「十一件のうち、実際に異議申立導線まで到達した人は、ほとんどいません」
俺は、表示位置の行を指した。
【異議申立導線表示位置:初期画面外】
「初期画面にありません」
『折りたたみ項目の下です』
相沢が補足した。
『しかも、確認猶予中に自動遷移します。戻る操作もできません』
真鍋課長が、低く言った。
「入口が細いどころじゃないな」
『はい』
相沢は、そこで一拍置いた。
『入口の前に、ほとんど人が来ていません』
画面上部に、本庁回線の接続表示が出る。
【教育訓練支援室 監理官室】
【上席監理官 久我:接続中】
久我は、前回と同じ姿勢で画面に映った。
穏やかで、整っている。
こちらがどの資料を開いているかは、すでに共有されているはずだった。
『集計結果を拝見しています』
久我は言った。
『異議申立率の低下を、利用者満足度と同一視すべきではないというご指摘ですね』
「はい」
俺は答えた。
久我は、軽く頷いた。
『その整理は理解できます。ただし、異議申立導線への到達率が低いこと自体は、必ずしも不備を意味しません』
真鍋課長が眉を上げた。
「というと」
『異議を申し立てる必要がなかった可能性もあります。説明内容に納得し、支払内容に異議がなければ、利用者は異議導線へ進みません』
これも、正しい。
入口に行かなかった理由は、一つではない。
不要だったから行かなかったのか。
見えなかったから行かなかったのか。
時間がなかったから行けなかったのか。
そこを分けずに断定すれば、こちらの査定も雑になる。
久我は、そこを突いていた。
『制度の安定性を示す指標として、異議申立率の低下は一定の意味を持ちます』
「一定の意味はあります」
俺は認めた。
「ただし、その意味は限定されます」
相沢が、右側の表に新しい列を追加した。
【比較指標:再確認フォーム配信後】
【説明文初期表示:あり】
【異議申立導線:初期画面表示】
【戻る操作:可能】
【途中保存:可能】
【無操作時処理:保留】
【異議申立導線到達率:上昇】
久我の視線が、少しだけ右へ動いた。
『再確認フォームとの比較ですか』
『単純比較はできません』
相沢が、先に言った。
『画面仕様が違います。対象者の心理状態も違います。だから、同じ尺度で満足度比較はできません』
「では、何が分かる」
真鍋課長が聞いた。
『入口を出せば、入口に触れます』
相沢は、表の二行を並べた。
【KG系テンプレート:異議申立導線到達率 〇・七%】
【再確認フォーム:異議申立導線到達率 上昇】
『少なくとも、導線を初期画面に出し、戻れるようにし、無操作時処理を保留に変えると、利用者は異議申立導線を確認します』
御園さんが、静かに息を吐いた。
「異議が出たかどうかではなく、見に行けたかどうか」
『はい』
相沢は、久我の映る画面を見ずに続けた。
『納得率ではありません。導線到達率です』
その一言は、低かった。
大きな声ではない。
だが、資料の見出しを一枚、剥がした。
俺は、本庁の成果資料にカーソルを合わせた。
【評価:利用者満足度向上に寄与】
そこへ、注記欄を開く。
【事故査定課注記】
【異議申立率の低下は、利用者満足度を直接示すものではない】
【異議申立導線到達率が低く、導線視認性および操作可能性に起因する可能性を排除できない】
確定前に、久我が口を開いた。
『黒木さん』
「はい」
『その注記を入れると、本庁の運用成果報告は再評価対象になります』
「承知しています」
『KG系テンプレート導入以降の成果指標全体にも影響します』
「承知しています」
『異議申立率の低下を成果として扱ってきた部署は、評価の再提出を求められる可能性があります』
「承知しています」
久我は、そこで一度黙った。
責めているのではない。
リスクを確認している。
その確認が、そのまま逆圧になる。
事故査定課は、また処理を遅らせる側になる。
本庁の成果資料に、傷を入れる側になる。
相沢の分析も、数字遊びとして片づけられる危険がある。
それでも、注記を入れない理由にはならない。
「相沢」
『はい』
「この注記で、技術的に言い過ぎている箇所はありますか」
『ありません』
「満足度を否定していますか」
『していません』
「異議申立率の意味を、完全に否定していますか」
『していません』
「何を否定していますか」
『満足度として読むことです』
俺は、確定キーを押した。
【事故査定課注記:確定】
画面の表示が変わる。
【KG系テンプレート 運用成果報告】
【評価:利用者満足度向上に寄与】
↓
【評価:指標定義確認中】
【注記:異議申立率は、利用者満足度を直接示さない】
【注記:導線到達率および画面操作条件の再確認を要する】
左側の綺麗な資料に、初めて灰色の注記が入った。
派手な変化ではない。
ただ、成果資料ではなくなった。
再検証資料になった。
真鍋課長が、椅子の背にもたれた。
「なるほどな」
「はい」
「異議が減ったのではなく、入口に届いていない可能性がある」
「その評価です」
「胃に悪いな」
「査定です」
「それはもう聞いた」
真鍋課長は、胃薬の瓶を開けなかった。
代わりに、本庁資料の灰色の注記を見た。
「相沢」
『はい』
「この注記、本庁側が嫌がるか」
『嫌がると思います』
「理由は」
『数字は変えていません。読み方だけを変えています』
真鍋課長は、短く笑った。
「一番嫌なやつだな」
『はい』
相沢は、そこだけ素直に頷いた。
真鍋課長は、本庁資料から目を離さなかった。
「いい。通せ」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
この灰色の注記が、どこに刺さるか。
それを分かったうえで、真鍋課長は止めなかった。
久我は、画面の向こうで資料を読んでいた。
表情は、変わらない。
ただ、次の言葉を発するまでに、通信環境のせいではない一拍の空白があった。
『事故査定課の注記として受理します』
「お願いします」
『ただし、今後は再確認フォーム側の到達率についても、同じ精度で検証してください』
「もちろんです」
久我は、こちらの成果だけを利用しない。
こちらの指摘も、こちらの新仕様も、同じ検証台に乗せる。
それが久我の怖さだった。
有利な数字だけを使う相手ではない。
不利な数字も一度受け取り、制度の中に組み替えようとする。
御園さんが、相沢の画面を見た。
「入口に届かなかった人は、異議がなかった人ではないんですね」
「はい」
俺は答えた。
「少なくとも、異議がなかった証明にはなりません」
相沢が、次の比較表を開いた。
【異議申立導線 画面遷移解析】
【対象:KG系テンプレート適用済み案件】
【確認項目】
【一、導線表示位置】
【二、折りたたみ有無】
【三、確認猶予時間】
【四、戻る操作可否】
【五、無操作時処理】
その下に、まだ空欄の表がある。
【画面遷移再現:準備中】
真鍋課長が、眉をひそめた。
「次は何を見る」
『入口に届かなかった理由です』
相沢は、画面を見たまま答えた。
『リンクが見えなかったのか、開けなかったのか、戻れなかったのか、間に合わなかったのか』
久我の画面に、同じ項目が共有された。
久我は、ゆっくりと頷いた。
『そこまで確認するなら、標準様式そのものの構造確認になりますね』
「はい」
俺は、まだ空欄の表を見た。
入口に届かなかった数字は、出た。
次は、その入口がどこに置かれていたのかを見る。
異議が減ったのか。
入口が消えていたのか。
その違いを、数字ではなく画面で確認する。
相沢の端末に、再現画面の初期表示が立ち上がった。
【KG系テンプレート 確認画面再現】
【初期表示範囲:算出中】
【異議申立導線:初期表示外】
灰色の資料の横で、古い確認画面が開き始める。
次に査定するのは、数字ではない。
入口そのものだ。




