第9話 この人材は、辺境に不可欠です
大広間は、息が詰まるほど広かった。
天井から吊り下がるシャンデリアの数は、覚えたくもない。磨き上げられた大理石の床。ずらりと並ぶ各領地の代表者たち。宮廷高官。そして──玉座の上の国王マティアス陛下。
俺は息を吐いた。
人前は苦手だ。いつもなら声が小さくなる。言葉が出てこなくなる。
だが、今日はやるべきことがある。
「──ベルクハイト辺境伯領の業績報告を行います。名代として、魔物保護局長ルーカス・ベルクハイトが報告いたします」
声が出た。自分でも驚くほど、はっきりと。
◇
「当局では、本年度、事務体制の全面改革を実施いたしました」
資料を広げた。書類処理速度の推移。マニュアルの導入効果。個体ナンバリング制度による管理精度の向上。予算管理表の刷新。
「これらの改善は、すべて一人の事務官の着任によって実現しました」
大広間がざわめいた。
「セラフィーナ・ローゼンベルク嬢。ローゼンベルク伯爵令嬢にして、当局正規事務官」
ざわめきが大きくなった。その名前を知っている者がいる。──元王太子婚約者。婚約破棄された伯爵令嬢。
視界の端で、クラウス殿下の顔が強張った。
「具体的な成果をお示しいたします」
モルテの個体管理記録を広げた。健康状態、成長記録、行動パターン。一頭ごとに丁寧に記された記録は、この精度でなければ保護計画を根拠づけることはできない。
「この記録管理は、セラフィーナ嬢なしには実現できませんでした」
大広間を見渡した。
声を張り上げた。
「この人材は──辺境に不可欠です」
広間が静まった。
俺の声が、天井に反射して戻ってくるのが聞こえた。
──あの人のために、こんなに大きな声が出るとは思わなかった。
◇
「加えて、一点。当局事務官に対する出頭命令について申し上げます」
資料をもう一枚、広げた。セラフィーナから預かった革表紙の冊子。五年分の業務記録の控え。
「この記録と、王宮に提出された報告書の照合を求めます」
クラウスが立ち上がりかけた。
「何を──」
「王宮提出の報告書原案の筆跡鑑定を申請いたします」
国王陛下が頷いた。宮廷魔法師が呼ばれた。
帳簿が開かれた。報告書が並べられた。
魔法師の手が光り──数分後、結果が読み上げられた。
「……クラウス殿下の名で提出された報告書原案のうち、九割以上がセラフィーナ・ローゼンベルク嬢の筆跡と一致いたします」
広間が凍った。
百人を超える出席者が、誰一人として声を発していなかった。
その沈黙こそが、クラウスに対する答えだった。
「──クラウス」
国王陛下の声が、静かに落ちた。怒鳴るのではなく、一段低くなる。
「弁明はあるか」
クラウスの喉が動いた。言葉を探しているのが見えた。
しかし──出てこなかった。
朗々と響くはずの声が、そこにはなかった。
◇
裁定が下された。
クラウスには「実務研修」として地方領地への派遣。婚約破棄の違約金未払いは、ローゼンベルク家への正式な賠償。出頭命令は、権限乱用として即日撤回。
リリアーナ嬢の「白百合の聖女」は、社交界から静かに崩壊した。クラウスの地方研修に同行する羽目になり、あれほど忌避していた事務仕事を目の当たりにする。
◇
回廊に出た。
父が待っていた。オスカー・ローゼンベルク伯爵。
その顔を見た瞬間、目が潤んだ。
「お父様」
「……よくやったな」
父は泣いていた。
「ごめんな。王宮に送り出して──ずっと、気に病んでいた」
「お父様のせいじゃありません」
首を横に振った。
「お父様。私は辺境で働き続けます。ここが、私の居場所です」
父が涙を拭いて、頷いた。
「……わかった。立派になったな」
◇
回廊の奥で、ルーカスさんが壁に寄りかかっていた。
大広間で声を張り上げた人とは思えない、いつもの無表情。でも──目が赤い。
「局長……いえ」
言い直した。
「ルーカスさん。ありがとうございました」
ルーカスさんが顔を上げた。
その手が、私の手を取った。
大きな手。剣を握っていた手。証拠の帳簿を突きつけた手。
──震えていた。あの時と同じ。森の中で擦り傷を確認した、あの時と。
「……よかった」
低い声。掠れている。
「ここにいてくれて」
返事の代わりに、手を握り返した。
(この人の声は、私の前でだけ違った。半音高くなって、少しだけ柔らかくなる。──ミラが言っていた通りだ)
「帰りましょう、ルーカスさん。私たちの場所に」
◇
帰路の馬車の中。
並んで座った。窓の外を、秋の田園風景が流れていく。
マルタのスープが恋しい。モルテが膝に飛び乗ってくるのが恋しい。五時の鐘が恋しい。
「……セラフィーナ」
「はい」
「帰ったら、話がある」
ルーカスさんは窓の外を見たまま、それだけ言った。
(話……? まさか異動ですか? 私は定時退勤を手放しませんよ? それともクビ? え、業績あるのにクビ?)
馬車が揺れた。
秋の風が、車窓から吹き込んでくる。
隣に座る人の肩が、少しだけ近い気がした。




