第8話 君は「なんか」じゃない
魔導通信石が鳴った。
その音が、嫌な記憶を呼び起こした。
ルーカス局長が通信石の前に立ち、短い文面を読み上げた。
「『元王太子婚約者として機密文書の守秘義務確認に関し、王宮への出頭を命じる』」
事務室が静まった。
トビアスがゆっくりと椅子から立ち上がった。ミラの手が止まった。
出頭命令。
辺境伯閣下の名でさえ拒否できない格式の、公式命令。
◇
私は窓の外を見ていた。
いつもの森。いつもの山。いつもの空。
でも、色が少しだけ褪せて見えた。
守秘義務の確認。形式的には正当な手続き。でも本当の意味は──連れ戻すための口実だ。
……わかっていた。こうなるかもしれないと。
あの人は王太子で、私は元婚約者で。権力の差は、初めから明白だった。
「ご迷惑をおかけしたくないので」
声が、自分のものに聞こえなかった。
「私が行けば、いいんですよね」
また、これだ。
前世もそうだった。問題が起きると、自分が引けば済むと思ってしまう。自分なんかが迷惑をかけているのだから、自分がいなくなれば丸く収まる。
三十二歳で死ぬまで、ずっとそうだった。
今もまだ、同じことを繰り返している。
「行かせないぞ」
トビアスの声が、思考を断ち切った。
「何言ってんだ。行かせるわけないだろ」
「セラフィーナさんがいなくなったら私たち困ります!」
ミラが立ち上がった。目が赤い。
「書類が読めるようになって、初めてまともに仕事ができるようになったのに!」
飼育員たちも口々に言った。
「管理台帳の おかげで業務が半分になったんだ」
「個体ナンバリングのおかげで、保護報告が楽になった」
マルタさんが食堂から出てきた。
「あんたを王宮に返してたまるもんかい」
エプロンで手を拭きながら、目だけは真剣だった。
「きゅう」
足元でモルテが鳴いた。私の膝にしがみついて、小さな翼を震わせている。
──ああ。
ここには、私を必要としてくれる人がいる。
前世には、いなかった。退職しても、誰も引き止めなかった。死んでも、たぶん翌週には補充の人が座席に座った。
でも、ここは違う。
目が熱くなった。
◇
局長室に呼ばれた。
ルーカス局長が、机の前に立っていた。座っていない。立っている。
その目が、まっすぐ私を見た。
「私、ご迷惑を──」
「君は」
遮られた。
いつもの「……」がなかった。沈黙も、言い淀みもない。
「君は『なんか』じゃない」
声が、震えていた。
あのルーカス局長の声が。低くて、硬くて、いつも鉄壁のように冷静なあの声が。
「君がいてくれて──この局は変わった。書類が整理された、だけじゃない。みんなが笑うようになった。朝が楽しみになった」
言葉が、溢れている。この人の口から、こんなに多くの言葉が出るのを初めて聞いた。
「俺も──」
止まった。
口が閉じた。喉が動いた。飲み込んだのだ、何かを。
「……すまない。うまく言えない」
(局長。……言わなくても、伝わりました)
「俺が王都に行く」
声が変わった。震えが止まり、硬い声に戻っている。決意の声。
「年次領主会議で、セラフィーナの功績を正式に報告する。出頭命令の法的根拠の不当さを訴える。辺境伯閣下の名代として」
「局長、それは──」
「ハインリヒ閣下の委任状はもらった」
机の上に、辺境伯の署名入りの書状が置いてあった。
「……大丈夫だ。任せろ」
◇
夜。
一人の借家で、棚の奥から古い報告書を全部引っ張り出した。
着任してから提出した報告書。一冊目。二冊目。三冊目──
全部に、赤い字で書いてあった。
「よくできた」
「よくできた」
「よくできた」
下手な字。剣を握るような筆圧。一画ずつ力を込めた、不器用な文字。
──全部だ。一冊も欠かさず、書いてくれていた。
業務評価メモだと思っていた。
違った。
これは──
涙が落ちて、赤い字が滲んだ。慌てて袖で拭いた。
(ばか。泣いてどうするの。報告書が台無しになる)
でも止まらなかった。
◇
翌朝。
庁舎の前に馬が一頭、繋がれていた。
ルーカス局長が旅装に身を包んでいた。外套を羽織り、剣を腰に差している。
「局長」
「……何だ」
「待っています」
小さく言った。
局長が一瞬だけ目を見開いて──それから、頷いた。
「……ああ」
馬に跨った。
蹄の音が遠ざかっていく。大きな背中が、朝靄の中に消えていく。
モルテが私の足元で、去っていく背中をじっと見つめていた。
(行ってらっしゃい。……行ってらっしゃい、ルーカスさん)
心の中で初めて、局長を名前で呼んだ。




