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婚約破棄ですか?大歓迎です!これからは辺境で定時退勤を満喫しますね  作者: 九葉(くずは)


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第8話 君は「なんか」じゃない

 魔導通信石が鳴った。


 その音が、嫌な記憶を呼び起こした。


 ルーカス局長が通信石の前に立ち、短い文面を読み上げた。


「『元王太子婚約者として機密文書の守秘義務確認に関し、王宮への出頭を命じる』」


 事務室が静まった。


 トビアスがゆっくりと椅子から立ち上がった。ミラの手が止まった。


 出頭命令。


 辺境伯閣下の名でさえ拒否できない格式の、公式命令。





 私は窓の外を見ていた。


 いつもの森。いつもの山。いつもの空。


 でも、色が少しだけ褪せて見えた。


 守秘義務の確認。形式的には正当な手続き。でも本当の意味は──連れ戻すための口実だ。


 ……わかっていた。こうなるかもしれないと。


 あの人は王太子で、私は元婚約者で。権力の差は、初めから明白だった。


「ご迷惑をおかけしたくないので」


 声が、自分のものに聞こえなかった。


「私が行けば、いいんですよね」


 また、これだ。


 前世もそうだった。問題が起きると、自分が引けば済むと思ってしまう。自分なんかが迷惑をかけているのだから、自分がいなくなれば丸く収まる。


 三十二歳で死ぬまで、ずっとそうだった。


 今もまだ、同じことを繰り返している。


「行かせないぞ」


 トビアスの声が、思考を断ち切った。


「何言ってんだ。行かせるわけないだろ」


「セラフィーナさんがいなくなったら私たち困ります!」


 ミラが立ち上がった。目が赤い。


「書類が読めるようになって、初めてまともに仕事ができるようになったのに!」


 飼育員たちも口々に言った。


「管理台帳の おかげで業務が半分になったんだ」


「個体ナンバリングのおかげで、保護報告が楽になった」


 マルタさんが食堂から出てきた。


「あんたを王宮に返してたまるもんかい」


 エプロンで手を拭きながら、目だけは真剣だった。


「きゅう」


 足元でモルテが鳴いた。私の膝にしがみついて、小さな翼を震わせている。


 ──ああ。


 ここには、私を必要としてくれる人がいる。


 前世には、いなかった。退職しても、誰も引き止めなかった。死んでも、たぶん翌週には補充の人が座席に座った。


 でも、ここは違う。


 目が熱くなった。





 局長室に呼ばれた。


 ルーカス局長が、机の前に立っていた。座っていない。立っている。


 その目が、まっすぐ私を見た。


「私、ご迷惑を──」


「君は」


 遮られた。


 いつもの「……」がなかった。沈黙も、言い淀みもない。


「君は『なんか』じゃない」


 声が、震えていた。


 あのルーカス局長の声が。低くて、硬くて、いつも鉄壁のように冷静なあの声が。


「君がいてくれて──この局は変わった。書類が整理された、だけじゃない。みんなが笑うようになった。朝が楽しみになった」


 言葉が、溢れている。この人の口から、こんなに多くの言葉が出るのを初めて聞いた。


「俺も──」


 止まった。


 口が閉じた。喉が動いた。飲み込んだのだ、何かを。


「……すまない。うまく言えない」


(局長。……言わなくても、伝わりました)


「俺が王都に行く」


 声が変わった。震えが止まり、硬い声に戻っている。決意の声。


「年次領主会議で、セラフィーナの功績を正式に報告する。出頭命令の法的根拠の不当さを訴える。辺境伯閣下の名代として」


「局長、それは──」


「ハインリヒ閣下の委任状はもらった」


 机の上に、辺境伯の署名入りの書状が置いてあった。


「……大丈夫だ。任せろ」





 夜。


 一人の借家で、棚の奥から古い報告書を全部引っ張り出した。


 着任してから提出した報告書。一冊目。二冊目。三冊目──


 全部に、赤い字で書いてあった。


「よくできた」


「よくできた」


「よくできた」


 下手な字。剣を握るような筆圧。一画ずつ力を込めた、不器用な文字。


 ──全部だ。一冊も欠かさず、書いてくれていた。


 業務評価メモだと思っていた。


 違った。


 これは──


 涙が落ちて、赤い字が滲んだ。慌てて袖で拭いた。


(ばか。泣いてどうするの。報告書が台無しになる)


 でも止まらなかった。





 翌朝。


 庁舎の前に馬が一頭、繋がれていた。


 ルーカス局長が旅装に身を包んでいた。外套を羽織り、剣を腰に差している。


「局長」


「……何だ」


「待っています」


 小さく言った。


 局長が一瞬だけ目を見開いて──それから、頷いた。


「……ああ」


 馬に跨った。


 蹄の音が遠ざかっていく。大きな背中が、朝靄の中に消えていく。


 モルテが私の足元で、去っていく背中をじっと見つめていた。


(行ってらっしゃい。……行ってらっしゃい、ルーカスさん)


 心の中で初めて、局長を名前で呼んだ。


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