第7話 もう私の業務ではありませんよね
いつもより風が冷たい朝だった。
庁舎に向かう坂道を登ったところで、足が止まった。
──見覚えのある紋章を付けた馬車が、停まっていた。
ヴァルトハイム王家の紋章。金の鷲。
(……なんで、ここに)
心臓が跳ねた。前世の上司が退職後に連絡してきた時と同じ、あの嫌な予感。
庁舎の前にルーカス局長が立っていた。腕を組んで、いつも以上に険しい顔をしている。
「……王太子殿下が来ている」
◇
会議室に通された。
クラウス殿下が椅子に座っていた。
変わらない。自信に満ちた姿勢。完璧に整えた金色の髪。上質な外套。
でも──目の下に、薄い隈がある。
「久しぶりだね、セラフィーナ」
柔らかい声。社交界で人を動かすための、あの声。
「殿下。ご無沙汰しております」
私は立ったまま、頭を下げた。座る気はない。
「急ぎの公務で辺境に来たついでなんだが──率直に言おう。君に、王宮に戻ってほしい」
(……来た)
「婚約者としてではない。事務官として。力を貸してほしい」
殿下の指が、テーブルの上で無意識に動いた。焦りの仕草だ。これを五年間、近くで見てきた。
「外交書簡の処理が滞っている。フォーマットの体系を理解できる者がいなくて──」
(体系を理解できる者がいない、って、それ全部私が一人で作ったやつですよね)
「条件は出す。報酬も、前とは違う形で──」
「ごめんなさい」
笑顔で言った。
「今日は定時なので」
殿下の言葉が止まった。
「それに──もう私の業務ではありませんよね」
にっこり。
殿下の目が見開かれた。
「だが、外交問題が──」
「五年間、無給でしたけど」
穏やかに告げた。
音が消えた。
クラウス殿下が、初めて言葉に詰まった。あの朗々とした声が、喉の奥で止まっている。
「……侍女もいませんでした。部屋は倉庫でした。食事は書庫で冷めたスープを立って食べていました。週三日午前のみの名誉職のはずが、毎日深夜まで勤務でした」
一つずつ、事実だけを並べた。
感情は混ぜない。怒鳴らない。泣かない。
退職面談は、冷静に。前世で学んだことだ。
「ですから、申し訳ありませんが──」
もう一度、にっこりと笑った。
「定時なので」
◇
会議室を出た。
廊下に、ルーカス局長が立っていた。
壁に寄りかかって腕を組んでいる。ずっと、ここにいたのだろう。
クラウス殿下が後ろから出てきた。局長と目が合った。
「……この人は」
ルーカス局長が、低い声で言った。
「うちの大切な職員です」
(局長……)
大切な、職員。
その一言が、胸のどこかに落ちた。温かくて、少しだけ重い。
クラウス殿下は局長を見上げた。自分より背の高い男を、初めて見たような顔で。
「……そうか。だが、元婚約者として機密文書に関わっていた以上、法的な手続きは必要になる。──後日、正式に連絡する」
踵を返した。外套の裾がひるがえる。
馬車の扉が閉まり、蹄の音が遠ざかった。
庁舎が静かになった。
◇
事務室に戻ると、トビアスが待っていた。
「追い返したのか。よくやった」
「追い返したんじゃなくて、定時だったので帰っていただいただけです」
ミラが椅子の上に膝を抱えて、目を丸くしている。
「王太子殿下に断るとか……セラフィーナさん、すごい……」
「ちなみに」
トビアスが、にやっと笑った。
「局長、『大切な職員』って新しい名称ですか? 俺は『職員』止まりですけど」
廊下の向こうで、ルーカス局長が歩き去る足音がした。返事はない。
「あとね、局長」
トビアスが続けた。
「彼女の退勤時間だけ覚えてるの、不公平ですよ」
足音が止まった。
そして、何も言わずに再び歩き出した。
(退勤時間? 局長、私の退勤時間を覚えてる……? まあ、定時退勤を重視する方ですし)
マルタさんが後から手にパンと干し肉を持ってきてくれた。
「クラウスとかいう人のせいで昼食食べ損なったんだろ。ほら、食べな」
パンをかじった。温かくはないけれど、マルタさんの手から渡されたというだけで、少しだけ安心した。
◇
夜、借家で一人。
窓から月が見えた。
ルーカス局長も、王宮から逃げてきた人だった。理不尽な命令を拒否して。
私たちは同じだ。向こうの居場所を失って、ここで新しい場所を見つけた。
──この場所を、守りたい。
定時退勤を。温かいスープを。もふもふを。そして──
そして。
(……そして、何だ?)
答えが出ないまま、月を眺めた。
ルーカス局長の「大丈夫だ。何があっても」という声が、まだ耳に残っている。
でも──出口のところで、局長の拳が白くなるほど握りしめられていたのも、見えていた。




