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婚約破棄ですか?大歓迎です!これからは辺境で定時退勤を満喫しますね  作者: 九葉(くずは)


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第7話 もう私の業務ではありませんよね

 いつもより風が冷たい朝だった。


 庁舎に向かう坂道を登ったところで、足が止まった。


 ──見覚えのある紋章を付けた馬車が、停まっていた。


 ヴァルトハイム王家の紋章。金の鷲。


(……なんで、ここに)


 心臓が跳ねた。前世の上司が退職後に連絡してきた時と同じ、あの嫌な予感。


 庁舎の前にルーカス局長が立っていた。腕を組んで、いつも以上に険しい顔をしている。


「……王太子殿下が来ている」





 会議室に通された。


 クラウス殿下が椅子に座っていた。


 変わらない。自信に満ちた姿勢。完璧に整えた金色の髪。上質な外套。


 でも──目の下に、薄い隈がある。


「久しぶりだね、セラフィーナ」


 柔らかい声。社交界で人を動かすための、あの声。


「殿下。ご無沙汰しております」


 私は立ったまま、頭を下げた。座る気はない。


「急ぎの公務で辺境に来たついでなんだが──率直に言おう。君に、王宮に戻ってほしい」


(……来た)


「婚約者としてではない。事務官として。力を貸してほしい」


 殿下の指が、テーブルの上で無意識に動いた。焦りの仕草だ。これを五年間、近くで見てきた。


「外交書簡の処理が滞っている。フォーマットの体系を理解できる者がいなくて──」


(体系を理解できる者がいない、って、それ全部私が一人で作ったやつですよね)


「条件は出す。報酬も、前とは違う形で──」


「ごめんなさい」


 笑顔で言った。


「今日は定時なので」


 殿下の言葉が止まった。


「それに──もう私の業務ではありませんよね」


 にっこり。


 殿下の目が見開かれた。


「だが、外交問題が──」


「五年間、無給でしたけど」


 穏やかに告げた。


 音が消えた。


 クラウス殿下が、初めて言葉に詰まった。あの朗々とした声が、喉の奥で止まっている。


「……侍女もいませんでした。部屋は倉庫でした。食事は書庫で冷めたスープを立って食べていました。週三日午前のみの名誉職のはずが、毎日深夜まで勤務でした」


 一つずつ、事実だけを並べた。


 感情は混ぜない。怒鳴らない。泣かない。


 退職面談は、冷静に。前世で学んだことだ。


「ですから、申し訳ありませんが──」


 もう一度、にっこりと笑った。


「定時なので」





 会議室を出た。


 廊下に、ルーカス局長が立っていた。


 壁に寄りかかって腕を組んでいる。ずっと、ここにいたのだろう。


 クラウス殿下が後ろから出てきた。局長と目が合った。


「……この人は」


 ルーカス局長が、低い声で言った。


「うちの大切な職員です」


(局長……)


 大切な、職員。


 その一言が、胸のどこかに落ちた。温かくて、少しだけ重い。


 クラウス殿下は局長を見上げた。自分より背の高い男を、初めて見たような顔で。


「……そうか。だが、元婚約者として機密文書に関わっていた以上、法的な手続きは必要になる。──後日、正式に連絡する」


 踵を返した。外套の裾がひるがえる。


 馬車の扉が閉まり、蹄の音が遠ざかった。


 庁舎が静かになった。





 事務室に戻ると、トビアスが待っていた。


「追い返したのか。よくやった」


「追い返したんじゃなくて、定時だったので帰っていただいただけです」


 ミラが椅子の上に膝を抱えて、目を丸くしている。


「王太子殿下に断るとか……セラフィーナさん、すごい……」


「ちなみに」


 トビアスが、にやっと笑った。


「局長、『大切な職員』って新しい名称ですか? 俺は『職員』止まりですけど」


 廊下の向こうで、ルーカス局長が歩き去る足音がした。返事はない。


「あとね、局長」


 トビアスが続けた。


「彼女の退勤時間だけ覚えてるの、不公平ですよ」


 足音が止まった。


 そして、何も言わずに再び歩き出した。


(退勤時間? 局長、私の退勤時間を覚えてる……? まあ、定時退勤を重視する方ですし)


 マルタさんが後から手にパンと干し肉を持ってきてくれた。


「クラウスとかいう人のせいで昼食食べ損なったんだろ。ほら、食べな」


 パンをかじった。温かくはないけれど、マルタさんの手から渡されたというだけで、少しだけ安心した。





 夜、借家で一人。


 窓から月が見えた。


 ルーカス局長も、王宮から逃げてきた人だった。理不尽な命令を拒否して。


 私たちは同じだ。向こうの居場所を失って、ここで新しい場所を見つけた。


 ──この場所を、守りたい。


 定時退勤を。温かいスープを。もふもふを。そして──


 そして。


(……そして、何だ?)


 答えが出ないまま、月を眺めた。


 ルーカス局長の「大丈夫だ。何があっても」という声が、まだ耳に残っている。


 でも──出口のところで、局長の拳が白くなるほど握りしめられていたのも、見えていた。


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