第6話 怪我は
「これ、すっごくわかりやすいですね!」
ミラが目を輝かせた。
テーブルに広げた図解入りの冊子──魔物の種類別鎮静手順書。各魔物のイラスト横に、接近方法、鎮静魔法の使用タイミング、緊急時の退避手順を書き込んだ。
「前の職場でマニュアル作りは嫌というほどやりましたから」
(嫌というほど、文字通り。前世では過労死するほどに)
「こっちの予算管理表もすごいですよ。計画、実行、確認、改善……このサイクルで回すんですか?」
「ええ。来年度の予算申請が格段に楽になります」
ルーカス局長が手順書を手に取り、ページを繰っていた。その指が止まった。
「……これは、すごい」
(局長が三文字以上の感想を述べた。これは大事件では)
──その平和が、午後に崩れるとは思わなかった。
◇
午後の定期巡回。
ルーカス局長と二人で保護区の奥地を歩いていた。管理台帳を更新しながら、個体ナンバーと実態を照合する作業。
風が変わった。
木々のざわめきが、急に止まった。鳥の声が消える。
静寂。
──嫌な静けさだった。
「伏せろ」
局長の声が、硬くなった。
言われるより先に、地面が揺れた。
木立の向こうから、黒い塊が突進してきた。異常個体──四話で報告のあった、保護区境界の暴走魔物。角が異常に発達し、目が赤く濁っている。
逃げようとした。
足が根に引っかかった。地面に手をつき、膝を擦りむいた。
(──死ぬ。前世に続いて二度目!?)
風を切る音がした。
違う。剣を抜く音だ。
ルーカス局長が、私と魔物の間に立った。
背中しか見えなかった。大きな背中。その背中が一歩も退かない。
剣が弧を描いた。速い。見えない。ただ、金属が空気を裂く音だけが二回、連続して鳴った。
魔物の突進が止まった。
殺していない。鎮静──巨体を制圧し、急所を避けて筋を断ち、動きを封じた。
剣を納める音。
それから──沈黙。
森の中で、彼の呼吸だけが聞こえた。
「……怪我は」
振り返ったルーカス局長の声が、震えていた。
あの低くて硬い声が。あの怖い局長の声が。
「大丈夫です。擦り傷くらいで──」
「見せろ」
膝を見せた。
局長がしゃがみ込んで、私の手を両手で包んだ。
大きな手だった。剣を握っていた手。たった今、暴走する魔物を一人で制圧した手。
その手が、私の小さな擦り傷をまるで致命傷のように丁寧に確認した。
──局長の手のほうが、私の手より震えていた。
「……血は止まっている。……だが、庁舎で消毒を──」
「局長」
「何だ」
「手、離してください」
局長が自分の手を見下ろした。
──そして、弾かれたように手を引いた。耳の先が、少しだけ赤い。
「……すまない」
(……なんで謝るんですか。助けてもらったのは私のほうなのに)
◇
庁舎に戻ると、マルタさんが飛んできた。
「怪我したって聞いたよ! 座りなさい! 温かいもの食べな!」
スープを温め直してくれた。膝の消毒をトビアスが手伝ってくれた。
その合間に、トビアスが言った。
「局長は三年前まで王宮の護衛騎士だった。王国トップクラスの使い手だったんだよ」
「護衛騎士が、なぜここに?」
「ある日突然辞めて、叔父の領地に来たんだ。理由は……俺も詳しくは知らない」
治療室の向こうで、局長が柱に寄りかかっていた。腕を組んで、目を閉じている。
私が見ていることに気づいたのか、目を開けた。
「……剣を振るうより、命を守る方がいい」
それだけ言って、目を閉じかけた。でも、もう一度だけ目を開けて、私を見た。
「……王宮にいた頃、夜中に書庫で書類に埋もれている人を見たことがある」
低い声だった。独り言のような。
「……それだけだ」
それ以上は語らなかった。
(この人にも、逃げてきた場所があるんだ)
(──私と、同じだ)
◇
──同じ頃。王宮。
「殿下、隣国からの書簡の返答期限が明後日です」
宮廷官僚がクラウスの前に立っていた。
「リリアーナに任せてある」
「リリアーナ嬢は……昨日も書庫に来られませんでした」
クラウスの眉が寄った。
──誰かがやるだろう。
そう思おうとした。しかし今度は、声に出すことができなかった。




