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婚約破棄ですか?大歓迎です!これからは辺境で定時退勤を満喫しますね  作者: 九葉(くずは)


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第6話 怪我は

「これ、すっごくわかりやすいですね!」


 ミラが目を輝かせた。


 テーブルに広げた図解入りの冊子──魔物の種類別鎮静手順書。各魔物のイラスト横に、接近方法、鎮静魔法の使用タイミング、緊急時の退避手順を書き込んだ。


「前の職場でマニュアル作りは嫌というほどやりましたから」


(嫌というほど、文字通り。前世では過労死するほどに)


「こっちの予算管理表もすごいですよ。計画、実行、確認、改善……このサイクルで回すんですか?」


「ええ。来年度の予算申請が格段に楽になります」


 ルーカス局長が手順書を手に取り、ページを繰っていた。その指が止まった。


「……これは、すごい」


(局長が三文字以上の感想を述べた。これは大事件では)


 ──その平和が、午後に崩れるとは思わなかった。





 午後の定期巡回。


 ルーカス局長と二人で保護区の奥地を歩いていた。管理台帳を更新しながら、個体ナンバーと実態を照合する作業。


 風が変わった。


 木々のざわめきが、急に止まった。鳥の声が消える。


 静寂。


 ──嫌な静けさだった。


「伏せろ」


 局長の声が、硬くなった。


 言われるより先に、地面が揺れた。


 木立の向こうから、黒い塊が突進してきた。異常個体──四話で報告のあった、保護区境界の暴走魔物。角が異常に発達し、目が赤く濁っている。


 逃げようとした。


 足が根に引っかかった。地面に手をつき、膝を擦りむいた。


(──死ぬ。前世に続いて二度目!?)


 風を切る音がした。


 違う。剣を抜く音だ。


 ルーカス局長が、私と魔物の間に立った。


 背中しか見えなかった。大きな背中。その背中が一歩も退かない。


 剣が弧を描いた。速い。見えない。ただ、金属が空気を裂く音だけが二回、連続して鳴った。


 魔物の突進が止まった。


 殺していない。鎮静──巨体を制圧し、急所を避けて筋を断ち、動きを封じた。


 剣を納める音。


 それから──沈黙。


 森の中で、彼の呼吸だけが聞こえた。


「……怪我は」


 振り返ったルーカス局長の声が、震えていた。


 あの低くて硬い声が。あの怖い局長の声が。


「大丈夫です。擦り傷くらいで──」


「見せろ」


 膝を見せた。


 局長がしゃがみ込んで、私の手を両手で包んだ。


 大きな手だった。剣を握っていた手。たった今、暴走する魔物を一人で制圧した手。


 その手が、私の小さな擦り傷をまるで致命傷のように丁寧に確認した。


 ──局長の手のほうが、私の手より震えていた。


「……血は止まっている。……だが、庁舎で消毒を──」


「局長」


「何だ」


「手、離してください」


 局長が自分の手を見下ろした。


 ──そして、弾かれたように手を引いた。耳の先が、少しだけ赤い。


「……すまない」


(……なんで謝るんですか。助けてもらったのは私のほうなのに)





 庁舎に戻ると、マルタさんが飛んできた。


「怪我したって聞いたよ! 座りなさい! 温かいもの食べな!」


 スープを温め直してくれた。膝の消毒をトビアスが手伝ってくれた。


 その合間に、トビアスが言った。


「局長は三年前まで王宮の護衛騎士だった。王国トップクラスの使い手だったんだよ」


「護衛騎士が、なぜここに?」


「ある日突然辞めて、叔父の領地に来たんだ。理由は……俺も詳しくは知らない」


 治療室の向こうで、局長が柱に寄りかかっていた。腕を組んで、目を閉じている。


 私が見ていることに気づいたのか、目を開けた。


「……剣を振るうより、命を守る方がいい」


 それだけ言って、目を閉じかけた。でも、もう一度だけ目を開けて、私を見た。


「……王宮にいた頃、夜中に書庫で書類に埋もれている人を見たことがある」


 低い声だった。独り言のような。


「……それだけだ」


 それ以上は語らなかった。


(この人にも、逃げてきた場所があるんだ)


(──私と、同じだ)





 ──同じ頃。王宮。


「殿下、隣国からの書簡の返答期限が明後日です」


 宮廷官僚がクラウスの前に立っていた。


「リリアーナに任せてある」


「リリアーナ嬢は……昨日も書庫に来られませんでした」


 クラウスの眉が寄った。


 ──誰かがやるだろう。


 そう思おうとした。しかし今度は、声に出すことができなかった。


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