第5話 うちの職員だ
「あなたのような人材がこんな辺境にいるのは、正直もったいない」
爽やかな声だった。
アルベルト伯爵は二十五歳の好青年で、栗色の髪を整えた育ちのいい顔立ちをしている。事務室の椅子に腰かけて、色分けされたバインダーの棚を感心したように眺めていた。
「この分類体系、素晴らしいですね。全個体のナンバリングまで。うちの領地の経営にも、ぜひあなたの手法を取り入れたい」
にこやかに微笑む。嫌味がない。純粋な称賛だ。
(スカウト、かな。悪い人ではなさそうだけど──)
「ありがとうございます。ただ、私はこの局が気に入っておりまして」
「もちろん引き抜こうなどとは! ただ、定期的にご指導いただけないかと──」
アルベルトが身を乗り出した、その瞬間。
影が割って入った。
ルーカス局長が、無言で私たちの間に立った。腕を組み、アルベルトを見下ろす。
「……うちの職員だ」
低い声。それだけ。
アルベルト伯爵が一瞬目を見張り──それから、小さく笑った。
「失礼いたしました、局長殿」
目が笑っている。何かに気づいたような、面白がるような笑み。
(……縄張り意識の強い方なのかな、局長は)
◇
夕方、アルベルト伯爵を歓待するため、城下町の「森の蜜亭」で食事会が開かれた。
鹿肉のロースト。山菜のスープ。焼きたてのライ麦パン。辺境の料理は素朴だけれど、素材の力がある。
「辺境は食が豊かですね。これは見事な鹿肉だ」
アルベルトが上品にナイフを動かしている。
その隣で、ルーカス局長がフォークでジャガイモを刺した。力が強すぎて、皿が鳴った。
「局長、食器に八つ当たりしないでください」
トビアスが小声で囁いた。局長は答えなかった。
アルベルトがセラフィーナに話しかけるたびに、局長のフォークの動きが荒くなる。
「セラフィーナ殿、王都ではどのような業務を?」
「書類の処理全般を。……まあ、独りでやるには少し量が多かったですが」
「お一人で? それは──」
「セラフィーナ」
ルーカス局長の声が、不意に割り込んだ。
「……追加のパンがある。食べるか」
「あ、はい。いただきます」
パンの籠を差し出す局長の声が、いつもより少しだけ高かった。
ミラがスープに口をつけたまま、ぼそっと呟いた。
「局長、私たちにもその声で話してください」
局長が黙った。スープの湯気だけが昇っている。
(その声? ……普通の声だと思うけど)
◇
食事の後、保護区の開放エリアでモルテを撫でていた。
白い毛並みに頬を押しつけると、モルテが「きゅう」と鳴いて目を細める。小さな翼がぱたぱた動く。
至福。
「この子が噂のモルテですか。可愛いですね」
アルベルト伯爵が近づいてきた。手を伸ばそうとした瞬間──
「きゅぅうっ!!」
モルテが毛を逆立てた。小さな体を精一杯膨らませて、アルベルトに向かって威嚇している。
「モルテ! お客様に失礼でしょ!」
「いやいや、大丈夫ですよ。嫌われたようだ」
アルベルトが苦笑して手を引いた。
モルテは私の膝にしがみついて、アルベルトを睨んでいる。
(もふもふも嫉妬するのか……かわいいな)
(でもね、モルテ。安心して。もふもふと定時退勤のためにここにいるんだから。スカウトなんて受けないよ)
◇
アルベルトが帰った後、トビアスが何気なく言った。
「そういえば王都から来た商人が言ってたんだが、王宮で外交書簡の返答が遅れまくってるらしいぞ」
私は食後のお茶に口をつけたまま、少しだけ目を伏せた。
(……ああ。外交書簡のテンプレート、私しか管理してなかったからなぁ)
各国との定型書簡、前例文書の参照番号、宛名の序列ルール。全部、私の頭の中にあった。引き継ぎ書も──作る暇がなかった。
「もう君の仕事じゃない」
ルーカス局長の声が、静かに落ちてきた。
顔を上げると、局長はまっすぐ私を見ていた。無表情。でも、声が──なんだろう。少しだけ、柔らかかった。
「……関係ない。ここにいる仕事だけやればいい」
(局長。……そうですよね)
お茶を飲んだ。温かかった。取っ手は利き手側だった。
◇
──同じ頃。王都、社交の夜会にて。
社交の夜会で、アルベルト伯爵が何気なく話した。
「辺境の魔物保護局に、とびきり優秀な事務官がいましてね。業務効率が倍になったとか」
「それは結構な人材ですな。名前は?」
「セラフィーナ・ローゼンベルク嬢ですよ。元は王太子殿下の──」
話を聞いていた側近が、翌日クラウスに報告した。
「殿下、元婚約者のセラフィーナ嬢が辺境で評判を呼んでいるそうです」
クラウスのペンが止まった。
「……何?」
声のトーンが変わった。低くなったのではない。硬くなった。
「あの女が──評判?」
窓の外で、夕方の鐘が鳴っていた。




