第4話 俺は平気だ
着任二週間にして、私は確信した。
──この職場は、天国だ。
朝八時に出勤すると、机の上にお茶が置いてある。取っ手は今日も利き手側。誰が淹れてくれているのかは相変わらずわからないけれど、毎朝温かい。
書庫のフォーマット標準化が定着し、局全体の書類処理速度が倍になった。保護区の魔物全個体にナンバーを振る「個体管理ナンバリング制度」も先週から導入した。
「前世の在庫管理の考え方をちょっと応用しただけです」
「その"ちょっと"が常識を超えてるんだよ」
トビアスが苦笑する。
ルーカス局長が辺境伯ハインリヒ閣下に月次報告を送ったところ、魔導通信石で返信が来た。
「近年でもっとも読みやすい報告書だ」
局長が無表情のまま紙片を私に見せた。
「……褒められている、と思っていい」
(局長、それは褒めるところだと思います。笑顔とかで)
「もうすぐ年次領主会議の季節だな」
トビアスが窓の外を見ながら言った。
「今年はいい報告ができそうだ」
◇
午後、ルーカス局長に連れられて保護区の奥地を視察した。
管理台帳の記載と実態が合っているか、現地で一つずつ確認していく。新しいナンバリングに基づいて、各個体の健康状態を記録する。
「この子、台帳だと体長二メートルになってますけど、どう見ても三メートル超えてますね」
「……成長が早い個体だ」
ルーカス局長が柵の中に入っていった。
大型の魔獣──角のある鹿に似た生き物──が後ろ足を引きずっている。局長がゆっくり近づき、しゃがみ込んだ。
「大丈夫だ。もう少しだけ我慢してくれ」
低い声だった。
いつもの無愛想な声とは、少しだけ違う。柔らかいというのとも違う。丁寧、だ。
傷口を診る手つきが繊細だった。あの丸太みたいな腕から、こんな動きが出てくるとは思わなかった。魔獣が鼻先を局長の肩に押しつけて、静かに目を閉じている。
(……怖い人だと思ってた。今も怖い顔してるけど。でも、この人の手は優しい)
不意に、奥の森から獣の鳴き声が響いた。
「局長、あれは?」
「……気にするな。ただの威嚇だ」
局長の目が一瞬だけ森の奥に向いた。何かを確認するような、鋭い視線。
「最近、保護区の境界付近で異常個体の目撃情報が出ている。奥地には一人で入るな」
「わかりました」
(異常個体。……少し、怖い)
でも、隣にいるこの人が怖いものの対処を知っている人だということは、なんとなくわかった。
◇
帰り道、空が暗くなった。
ぽつ、と頬に冷たいものが落ちた。
次の瞬間、雨が降り出した。夕立だ。山間の天気は変わりやすいとミラが言っていたけど、こんなに急に来るとは。
ばさ、と。
重い布が頭にかぶさった。
「……っ」
見上げると、ルーカス局長が外套を脱いで私の肩にかけていた。自分は濡れたまま、何も言わずに歩き出す。
「局長、風邪を引きます」
外套を返そうとした。
「……俺は平気だ」
差し出した手を、引っ込めた。
私の手が外套の端に触れた瞬間、ルーカス局長の手に触れた。大きくて、冷たい手。
雨に濡れたから冷たいのだ。それはわかっている。
わかっているのに「返します」と言えなかった。
外套は、局長の体温で温かかった。雨の匂いと、かすかに木の匂いがする。
(……手、冷たいのに)
それだけが、妙に頭に残った。
◇
休日は市場に出かけた。
城下町の中央通りに並ぶ露店で、野菜や果物を買う。人参が大きくて安い。林檎が宝石みたいに赤い。
(前世の都会のスーパーより品質がいい。そして圧倒的に安い。辺境万歳)
「お嬢さん、保護局の新入りかい?」
果物屋のおじさんが声をかけてきた。
「ルーカス局長によろしくな。あの人がいるから、うちの果樹園も安心なんだ」
(局長、町の人にはちゃんと信頼されてるんだ)
林檎をかじりながら歩いた。甘くて、酸味が少しだけ鼻に抜ける。
この町に来てから、食べるものが全部美味しい。
◇
翌朝、出勤すると事務室の空気が少しだけ違った。
ルーカス局長が書簡を読んでいる。いつもより眉間の皺が深い。
「局長、何かありましたか」
「……別に」
トビアスが目配せしてきた。後で教えてくれた。
「隣領のアルベルト伯爵から手紙が来たんだよ。『魔物保護局の業務改善が素晴らしいと聞いた。ぜひ一度お話を伺いたい』って」
「視察ですか? 情報交換なら歓迎ですけど」
「まあ、そうだろうね。──局長はなんだか不機嫌だけど」
局長は書簡を丁寧に折り畳み、引き出しにしまった。その動きが、いつもより少しだけ乱暴だった。
引き出しが、ガタン、と音を立てた。
「……局長、引き出しに八つ当たりしないでください」
トビアスが呟いた。
局長は何も言わなかった。




