第3話 フォーマット?
開始五分で悟った。
この書庫は──前世のブラック企業の資料室を超えている。
棚にラベルがない。日付がバラバラ。案件名も書いてない。束ごとに紐で括ってあるが、その紐は少なくとも三年は解かれた形跡がない。
(これ全部、体系が存在しないまま放置されてきたということ……?)
前世のOL魂が震えた。
いや。震えている場合じゃない。
「……やりましょう」
袖をまくった。
◇
まずバインダーを色分けする。
赤は外部提出用。青は内部管理用。緑は保護区関連。黄色は経理。ここまでは前世と同じだ。
次に日付順に並べ直す。崩れた紐束をほどくと、五年前の報告書と先月の受領書が同じ束から出てきた。
(……五年前。私が王宮で書類に埋もれていた頃と同じだけの時間、この書庫も埋もれていたのか)
「おい、なんだこの速さは」
トビアス副局長が書庫の入り口から覗き込んでいた。
「もう半分片づいたのか? まだ昼前だぞ」
「分類体系を作れば、あとは当てはめるだけですから」
「分類体系……」
トビアスが呆然と棚を見渡した。色分けされたバインダーが整然と並んでいる。ラベルには番号と案件名。索引もつけた。
「こんなの、うちの局始まって以来だ」
「書庫が整えば業務時間も短縮できます。定時退勤の確度が上がります」
「そこに繋がるのか……」
(全ての業務改善は、定時退勤のために存在するんです。トビアスさん)
◇
昼食の鐘が鳴った。
食堂に行くと、マルタさんのスープの匂いが漂っている。今日は豆と根菜のスープ。焼きたてのパンの横に、小さなチーズが添えてあった。
「今日も美味しいです。ありがとうございます、マルタさん」
「あんた、毎回そう言うねぇ」
マルタさんが嬉しそうに笑う。
「前のお勤め先じゃ、ご飯はどうしてたの?」
「冷めたスープを……書庫で」
しん、と食堂が静まった。
「書庫? 椅子は?」
「ありませんでした」
「あんた……」
マルタさんが立ち上がって、私の頭を両手でぎゅっと抱えた。
「もう! うちにいる間は温かいもの食べさせるからね! 毎日!」
「ま、マルタさん、苦しいです」
(でも、温かい。この人の手も、この人の声も)
テーブルの向こうで、トビアスが黙ってパンをちぎっていた。何かを飲み込むような顔をしていた。
◇
午後、ルーカス局長に提出した報告書が戻されてきた。
開いて、目を瞬いた。
余白に、下手な字で何か書いてある。
「よくできた」
三文字。
(……業務評価のメモかな)
不格好な筆跡だった。一画ずつ、力を入れて書いている感じがする。剣を握るような筆圧。
(前世の上司は、こんなこと書いてくれなかったな……)
報告書をファイルに綴じる。
少しだけ、嬉しかった。理由は──まあ、褒められて嬉しくない人間はいない。それだけだ。
トビアスが通りすがりに呟いた。
「局長、俺の報告書にはそういうの書かないんだけど」
「……気のせいだ」
廊下の向こうから、ルーカス局長の低い声が聞こえた。
◇
五時の鐘。
モルテが窓に張り付いている。小さな翼をぱたぱた揺らして、こちらを見ている。丸い瞳が「まだ?」と訴えていた。
「はいはい、定時退勤ですよ〜」
鞄を持って外に出ると、モルテが飛びついてきた。白い毛に顔を埋める。柔らかい。温かい。
(一日の報酬がもふもふ。これ以上のインセンティブが存在するだろうか。いや、しない)
ミラが笑いながら「モルテ、すっかりセラフィーナの子になっちゃったね」と言った。
保護区の夕焼けが綺麗だった。赤と橙が森の梢を染めて──
……いや、風景の感想は後でいい。帰ろう。定時だ。
翌日は休みだった。
しかし朝、庁舎に向かうと──鍵がかかっていた。
(……え?)
ガチャガチャと取っ手を回す。開かない。
(休日で閉まってるの? でも、ちょっとだけ整理の続きを──)
諦めて帰った。
後日ミラから聞いた。
「あの鍵、局長が休みの朝に自分で閉めに来てるんだよ」
「わざわざ?」
「『休みの日まで来る必要はない』だって」
(厳しい人だ。……でもまあ、前世の上司が「休みの日は来るな」って言ってくれたことは一度もなかったから。ちょっとだけ、ありがたい)
◇
──同じ頃。王都、王宮。
クラウスは執務室の机を睨んでいた。
机の上には五日分の未処理書類が積み上がっている。
「……このフォーマットは何だ」
苛立ちを隠さない声で呟く。ファイルを開いても、分類番号の意味がわからない。索引の体系が読めない。
リリアーナが控えていた。
「わたくしがお手伝いいたしますわ」
微笑んで書類を手に取ったリリアーナが、一時間後、青い顔で戻ってきた。
「す、少し……頭が痛くて……」
書類は一枚も片付いていなかった。
リリアーナの足音が廊下に消えた後、クラウスは独りで呟いた。
「……まさか、あれを全部、一人でやっていたのか?」
一瞬だけ、考えた。
いや。そんなはずはない。あの地味な伯爵令嬢に、そんな能力があるはずがない。他に補佐がいたのだろう。すぐに代わりが見つかる。
──僕の判断は、正しい。
窓の外で、正午の鐘が鳴っていた。




