第2話 定時退勤って、本当にあるんですね!
森の匂いがした。
土と、苔と、知らない花の──五年ぶりに、深く息を吸えた気がした。
馬車を降りると、目の前に小さな城下町が広がっていた。石畳の中央通りに並ぶ雑貨屋や食堂。背後には深い森と、遠くに雪を冠った山脈。
(王都から馬車で五日。遠い。最高に遠い。殿下の声が届かない距離)
空気が、甘い。
「セラフィーナ・ローゼンベルクさん?」
声をかけてきたのは、四十代くらいの陽気そうな男性だった。
「副局長のトビアスです。ようこそ辺境へ! いやぁ、まさか本当に来る人がいるとは。求人出して一年、応募ゼロだったんですよ」
(応募ゼロ。一年間)
嫌な予感がする。
◇
魔物保護局の庁舎は、町外れの森に面した木造の建物だった。
入り口で、男が腕を組んで立っていた。
大きい。
背が高くて、肩幅が広くて、腕が丸太みたいに太い。傷だらけの手。日に焼けた肌。表情は、無い。
「……よろしく」
低い声。それだけ。
局長、ルーカス・ベルクハイト。
(怖い。めちゃくちゃ怖い。前世の上司のほうがまだ愛想があった。前世の上司は社畜を殺したけど)
「局長は口下手なだけで、悪い人じゃないですよ」
トビアスが耳打ちしてくれる。
「……入れ」
ルーカス局長が踵を返す。その背中を追いかけながら、私はふと目を細めた。
局長が書棚の前で立ち止まり、小さな眼鏡をかけた。あの巨体に、華奢な銀縁眼鏡。ファイルの小さな文字を睨みつけるように読んでいる。
(……ちょっとかわいいかも)
いや。関係ない。
定時退勤、定時退勤。
事務室に通された瞬間、足が止まった。
書類。
机の上にも、棚にも、床にも。分類のラベルはなく、日付もバラバラで、何の書類かすら判別できない山が三つ。
(……これ、体系が一個もないですね)
前世のOL魂が震えた。ダメだ、手が勝手に仕分けを始めそうになる。
「勤務は朝八時から夕方五時まで」
ルーカス局長の声が背後から降ってきた。
「定時退勤を守ること。……これが一番大事なルールだ」
振り返った。
局長は相変わらず無表情で、腕を組んでいる。
「──え?」
「定時を過ぎて残っている職員がいたら、俺が追い出す」
目が、熱くなった。
「……定時退勤って」
声が震えた。情けないと思ったけど、止められなかった。
「本当に、あるんですね……!」
涙が溢れた。
ルーカス局長が目を見開いた。トビアス副局長が慌てて駆け寄ってきた。飼育員のミラが「え、何、なんで泣いてるの!?」と叫んでいる。
(すみません。五年間、定時という概念が存在しない職場にいたもので)
「……すまない。何か気に障ったか」
「いえっ、嬉しくて! 嬉しくて泣いてるんです!」
局長が困った顔をしている。困った顔もできるんだ、この人。
◇
昼食はマルタさんが作ってくれたスープとパンだった。
野菜がたっぷり入った、湯気の立つスープ。焼きたてのパン。食堂の窓から差し込む午後の光。
温かい。
(王宮では、書庫の片隅で冷めたスープを啜っていた。椅子もなかった。立ったまま食べて、また書類に戻る)
「美味しいです。ありがとうございます、マルタさん」
「あらまあ、そんなに喜んでもらえるなんて。大したものじゃないのにねぇ」
マルタさんが目を細めた。五十代くらいの、丸くて温かい人だ。
(普通の昼食。普通に温かくて、普通に美味しくて。私、これが欲しかっただけなんだけどな)
◇
午後、マルタさんに借家を案内してもらった。
城下町の通りから一本入った、石造りの小さな家。二部屋と台所。日当たりのいい窓。
「私……五年ぶりに、ベッドで寝られるんですか」
「ベッドで寝てなかったの……?」
マルタさんが心配そうな顔をする。
「最高ですこの家! 窓がある! 日が差す! 隙間風がない!」
「……それ、普通だと思うけど」
(普通が、最高なんです。マルタさん)
共同浴場も教えてもらった。町の裏手にある温泉だという。
(温泉。温泉がある。定時退勤して温泉に入れる人生がこの世に存在する)
もう帰りたくない。王都には二度と帰りたくない。
◇
夕方、保護区の開放エリアを見学させてもらった。
ミラに連れられて森の手前まで来ると、ルーカス局長がすでにいた。大型の魔物の柵を点検している。
「ここの子たちは全部保護対象。人に危害を加える種はいないから安心して」
ミラが笑顔で説明してくれる。彼女は二十代前半くらいで、魔物の話になると目が輝く。
柵の向こうに、白い毛並みの小さな生き物がいた。
丸くて、ふわふわで、小さな翼がぱたぱたと動いている。
──目が合った。
次の瞬間、白い塊が突進してきた。柵の隙間をすり抜けて、私の膝に飛び乗る。
「きゅう」
(もふもふ……!!)
白い毛に顔を埋めた。柔らかい。温かい。前世でも今世でも味わったことのない至福の感触。
「もふもふぅぅぅ……!!」
「……珍しいな」
ルーカス局長が、少しだけ目を見開いていた。
「モルテが人に懐くのは」
「モルテ……この子、モルテっていうんですか」
「雪毛フリューゲルの幼体だ。……臆病で、飼育員にも近づかない」
私の膝の上で、モルテは目を細めて丸くなっていた。小さな翼がぱたぱた、ぱたぱた。
(定時退勤、もふもふ、温泉、温かいスープ。──人生に必要なもの、全部ある)
◇
五時の鐘が鳴った。
「……退勤だ」
ルーカス局長が短く言った。
「今日はもう帰れ」
「はい!」
即答した。残業の「ざ」の字も口にしない。
庁舎を出て、借家に向かう。
夕焼けの赤が山の稜線を染めていた。空気が冷たくて、深く吸うと肺が澄んでいく。
──明日も、ここに来ていいんだ。
明日も、五時に帰っていいんだ。
足取りが、なんだか軽い。
◇
翌朝。
出勤して机に向かうと、湯気の立つお茶が一杯、置いてあった。
カップの取っ手が、利き手の側に向いている。
誰が淹れたのかは、わからない。
でも──温かかった。




