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婚約破棄ですか?大歓迎です!これからは辺境で定時退勤を満喫しますね  作者: 九葉(くずは)


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第2話 定時退勤って、本当にあるんですね!

 森の匂いがした。


 土と、苔と、知らない花の──五年ぶりに、深く息を吸えた気がした。


 馬車を降りると、目の前に小さな城下町が広がっていた。石畳の中央通りに並ぶ雑貨屋や食堂。背後には深い森と、遠くに雪を冠った山脈。


(王都から馬車で五日。遠い。最高に遠い。殿下の声が届かない距離)


 空気が、甘い。


「セラフィーナ・ローゼンベルクさん?」


 声をかけてきたのは、四十代くらいの陽気そうな男性だった。


「副局長のトビアスです。ようこそ辺境へ! いやぁ、まさか本当に来る人がいるとは。求人出して一年、応募ゼロだったんですよ」


(応募ゼロ。一年間)


 嫌な予感がする。





 魔物保護局の庁舎は、町外れの森に面した木造の建物だった。


 入り口で、男が腕を組んで立っていた。


 大きい。


 背が高くて、肩幅が広くて、腕が丸太みたいに太い。傷だらけの手。日に焼けた肌。表情は、無い。


「……よろしく」


 低い声。それだけ。


 局長、ルーカス・ベルクハイト。


(怖い。めちゃくちゃ怖い。前世の上司のほうがまだ愛想があった。前世の上司は社畜を殺したけど)


「局長は口下手なだけで、悪い人じゃないですよ」


 トビアスが耳打ちしてくれる。


「……入れ」


 ルーカス局長が踵を返す。その背中を追いかけながら、私はふと目を細めた。


 局長が書棚の前で立ち止まり、小さな眼鏡をかけた。あの巨体に、華奢な銀縁眼鏡。ファイルの小さな文字を睨みつけるように読んでいる。


(……ちょっとかわいいかも)


 いや。関係ない。


 定時退勤、定時退勤。


 事務室に通された瞬間、足が止まった。


 書類。


 机の上にも、棚にも、床にも。分類のラベルはなく、日付もバラバラで、何の書類かすら判別できない山が三つ。


(……これ、体系が一個もないですね)


 前世のOL魂が震えた。ダメだ、手が勝手に仕分けを始めそうになる。


「勤務は朝八時から夕方五時まで」


 ルーカス局長の声が背後から降ってきた。


「定時退勤を守ること。……これが一番大事なルールだ」


 振り返った。


 局長は相変わらず無表情で、腕を組んでいる。


「──え?」


「定時を過ぎて残っている職員がいたら、俺が追い出す」


 目が、熱くなった。


「……定時退勤って」


 声が震えた。情けないと思ったけど、止められなかった。


「本当に、あるんですね……!」


 涙が溢れた。


 ルーカス局長が目を見開いた。トビアス副局長が慌てて駆け寄ってきた。飼育員のミラが「え、何、なんで泣いてるの!?」と叫んでいる。


(すみません。五年間、定時という概念が存在しない職場にいたもので)


「……すまない。何か気に障ったか」


「いえっ、嬉しくて! 嬉しくて泣いてるんです!」


 局長が困った顔をしている。困った顔もできるんだ、この人。





 昼食はマルタさんが作ってくれたスープとパンだった。


 野菜がたっぷり入った、湯気の立つスープ。焼きたてのパン。食堂の窓から差し込む午後の光。


 温かい。


(王宮では、書庫の片隅で冷めたスープを啜っていた。椅子もなかった。立ったまま食べて、また書類に戻る)


「美味しいです。ありがとうございます、マルタさん」


「あらまあ、そんなに喜んでもらえるなんて。大したものじゃないのにねぇ」


 マルタさんが目を細めた。五十代くらいの、丸くて温かい人だ。


(普通の昼食。普通に温かくて、普通に美味しくて。私、これが欲しかっただけなんだけどな)





 午後、マルタさんに借家を案内してもらった。


 城下町の通りから一本入った、石造りの小さな家。二部屋と台所。日当たりのいい窓。


「私……五年ぶりに、ベッドで寝られるんですか」


「ベッドで寝てなかったの……?」


 マルタさんが心配そうな顔をする。


「最高ですこの家! 窓がある! 日が差す! 隙間風がない!」


「……それ、普通だと思うけど」


(普通が、最高なんです。マルタさん)


 共同浴場も教えてもらった。町の裏手にある温泉だという。


(温泉。温泉がある。定時退勤して温泉に入れる人生がこの世に存在する)


 もう帰りたくない。王都には二度と帰りたくない。





 夕方、保護区の開放エリアを見学させてもらった。


 ミラに連れられて森の手前まで来ると、ルーカス局長がすでにいた。大型の魔物の柵を点検している。


「ここの子たちは全部保護対象。人に危害を加える種はいないから安心して」


 ミラが笑顔で説明してくれる。彼女は二十代前半くらいで、魔物の話になると目が輝く。


 柵の向こうに、白い毛並みの小さな生き物がいた。


 丸くて、ふわふわで、小さな翼がぱたぱたと動いている。


 ──目が合った。


 次の瞬間、白い塊が突進してきた。柵の隙間をすり抜けて、私の膝に飛び乗る。


「きゅう」


(もふもふ……!!)


 白い毛に顔を埋めた。柔らかい。温かい。前世でも今世でも味わったことのない至福の感触。


「もふもふぅぅぅ……!!」


「……珍しいな」


 ルーカス局長が、少しだけ目を見開いていた。


「モルテが人に懐くのは」


「モルテ……この子、モルテっていうんですか」


「雪毛フリューゲルの幼体だ。……臆病で、飼育員にも近づかない」


 私の膝の上で、モルテは目を細めて丸くなっていた。小さな翼がぱたぱた、ぱたぱた。


(定時退勤、もふもふ、温泉、温かいスープ。──人生に必要なもの、全部ある)





 五時の鐘が鳴った。


「……退勤だ」


 ルーカス局長が短く言った。


「今日はもう帰れ」


「はい!」


 即答した。残業の「ざ」の字も口にしない。


 庁舎を出て、借家に向かう。


 夕焼けの赤が山の稜線を染めていた。空気が冷たくて、深く吸うと肺が澄んでいく。


 ──明日も、ここに来ていいんだ。


 明日も、五時に帰っていいんだ。


 足取りが、なんだか軽い。





 翌朝。


 出勤して机に向かうと、湯気の立つお茶が一杯、置いてあった。


 カップの取っ手が、利き手の側に向いている。


 誰が淹れたのかは、わからない。


 でも──温かかった。

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