第10話 最高じゃないですか
朝陽が窓から差し込んで、モルテの白い毛並みがきらきら光った。
──ああ、帰ってきたんだ。
借家のベッドの上で、膝の上に丸くなったモルテの頭を撫でた。小さな翼がぱたぱたと動く。
窓の外に、森が見える。山が見える。空が見える。
(この風景が──私の日常なんだ)
前世でも、王宮でも、こんな朝を迎えたことはなかった。
◇
辺境に帰った日、局の全員が庁舎の前で待っていた。
「おかえり! スープ温めてあるよ!」
マルタさんが叫んだ。
「局長、お疲れさまです。書類は溜まってませんよ、みんなで回しましたから」
トビアスが笑った。
「セラフィーナさーん!!」
ミラが駆け寄ってきた。その後ろからモルテが全力ダイブしてきて、私の胸に飛び込んだ。
「きゅうっ!」
「ただいま」
その一言が、こんなにも重くて温かいとは。
マルタさんのスープを飲んだ。いつもの野菜スープ。王都の洗練された料理を散々食べた後なのに、これが一番美味しい。
「マルタさんのスープが一番です」
「あたりまえだよ!」
◇
休日の朝。
借家の庭で、パンを半分に割った。モルテにあげると、もぐもぐと食べて満足そうに目を細める。
「よしよし」
林檎をかじった。甘い。市場で買った、あの宝石みたいに赤い林檎。
風が吹いた。森の匂い。土と苔と、知らない花の──ああ、これは着任初日の匂いだ。
(もふもふ、あり。定時退勤、あり。温かいスープ、あり。温泉、あり。──人生は完璧)
完璧なはずだった。
でも最近、もう一つ、欲しいものが増えた気がする。
──あの人の声で、名前を呼ばれること。
◇
月曜の朝。出勤した。
机にお茶が置いてある。いつもの取っ手が利き手側のカップ。
でも今日は──カップの横に、小さな野の花が一輪、添えてあった。
白い、可憐な花。名前は知らない。でも朝の光の中で、きらきら揺れている。
局長室の扉が開いた。
ルーカスさんが出てきた。
いつもの無表情。──でも耳の先が赤い。
「……あの時、最後まで言えなかった」
声が出た。低くて、少しだけ掠れた声。
心臓が跳ねた。
あの時。「君がいてくれて、この局は変わった。俺も──」で途切れた、あの言葉。
「俺も──君が、愛おしい」
息が止まった。
「ずっと、言えなかった。言葉にするのが──下手で」
ルーカスさんの手が、自分の首筋を掻いた。目が泳いでいる。あの怖い局長が、今、中学生みたいに目を泳がせている。
「毎朝のお茶のこと……」
声が震えた。私の声だ。
「取っ手のこと。帰ったら話があるって──これ、だったんですか」
「……すまない」
「なんで謝るんですか」
「毎朝──君の利き手を、見ていた」
(知ってた。知ってた気がする。トビアスが教えてくれた。ミラが教えてくれた。みんな気づいてた。……私だけが、気づかなかった)
一拍、置いた。
涙が出た。でも、笑った。
「ルーカスさん」
「何だ」
「定時退勤の恋人って──最高じゃないですか」
ルーカスさんが目を見開いた。
それから、不器用に笑った。初めて見る笑顔だった。口角がぎこちなく上がって、目元が柔らかくなって。
──ああ、笑えるんだ、この人も。
大きな手が、私の頬に触れた。温かかった。
額に、唇が触れた。
軽い。一瞬。
でもそこに全部──言えなかった全部が詰まっている気がした。
ガタン。
事務室の扉の隙間が揺れた。
「「「おめでとーーー!!!」」」
トビアス、ミラ、マルタさん、飼育員たち。全員が扉の隙間から覗いていた。
「い、いつから──」
「花を置いた時点からです」
ミラがにやにやしている。
「局長、告白にどれだけかかるかの賭けしてました」
トビアスが腕を組んだ。
「俺は三ヶ月かかると思ってたんだが、意外と早かったな」
ルーカスさんの耳が、真っ赤になった。
マルタさんが二人分の弁当を差し出した。
「デートに持っていきな!」
◇
保護区の開放エリア。
木漏れ日の下、ルーカスさんと並んで弁当を広げた。
マルタさんの手作り。卵焼きとソーセージと、パンと、小さな林檎のコンポート。
「……美味い」
ルーカスさんが短く言った。
「ですね」
モルテが私たちの間に割り込んできた。弁当を狙っている。
「モルテ、人の弁当を取らないの」
「きゅう」
膝に乗ったモルテの頭を撫でながら、ルーカスさんを見た。
この人は、まだ言葉が下手だ。多分これからも下手だ。
でも──お茶の取っ手と、報告書の赤入れと、外套と、震える手と。言葉以外の全部で、もう伝わっていた。
「ルーカスさん」
「何だ」
「モルテも、定時退勤の恋人がほしいんですかね」
「……多すぎる」
◇
──同じ頃。王国東部の地方領地。
「こ、こんな量を……毎日……?」
クラウスが書類の山を前に硬直していた。
実務研修。自分の手で書類を処理する──かつてセラフィーナに押しつけていた、あの業務を。
隣でリリアーナが青い顔をしていた。
「なんで私がこんな所に……」
──セラフィーナが辺境で定時退勤を楽しんでいることは、まだ知らない。
◇
辺境。五時の鐘が鳴った。
「定時退勤です」
「……ああ」
庁舎を出る。
並んで歩いた。ルーカスさんの歩幅が、私に合わせて小さくなっている。
夕焼けが山の稜線を染めていた。モルテが私の肩の上で「きゅう」と鳴いた。
定時退勤の恋と、もふもふと、温かいスープのある人生。
──私は今、帰れる場所の中にいる。
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