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婚約破棄ですか?大歓迎です!これからは辺境で定時退勤を満喫しますね  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 最高じゃないですか

 朝陽が窓から差し込んで、モルテの白い毛並みがきらきら光った。


 ──ああ、帰ってきたんだ。


 借家のベッドの上で、膝の上に丸くなったモルテの頭を撫でた。小さな翼がぱたぱたと動く。


 窓の外に、森が見える。山が見える。空が見える。


(この風景が──私の日常なんだ)


 前世でも、王宮でも、こんな朝を迎えたことはなかった。





 辺境に帰った日、局の全員が庁舎の前で待っていた。


「おかえり! スープ温めてあるよ!」


 マルタさんが叫んだ。


「局長、お疲れさまです。書類は溜まってませんよ、みんなで回しましたから」


 トビアスが笑った。


「セラフィーナさーん!!」


 ミラが駆け寄ってきた。その後ろからモルテが全力ダイブしてきて、私の胸に飛び込んだ。


「きゅうっ!」


「ただいま」


 その一言が、こんなにも重くて温かいとは。


 マルタさんのスープを飲んだ。いつもの野菜スープ。王都の洗練された料理を散々食べた後なのに、これが一番美味しい。


「マルタさんのスープが一番です」


「あたりまえだよ!」





 休日の朝。


 借家の庭で、パンを半分に割った。モルテにあげると、もぐもぐと食べて満足そうに目を細める。


「よしよし」


 林檎をかじった。甘い。市場で買った、あの宝石みたいに赤い林檎。


 風が吹いた。森の匂い。土と苔と、知らない花の──ああ、これは着任初日の匂いだ。


(もふもふ、あり。定時退勤、あり。温かいスープ、あり。温泉、あり。──人生は完璧)


 完璧なはずだった。


 でも最近、もう一つ、欲しいものが増えた気がする。


 ──あの人の声で、名前を呼ばれること。





 月曜の朝。出勤した。


 机にお茶が置いてある。いつもの取っ手が利き手側のカップ。


 でも今日は──カップの横に、小さな野の花が一輪、添えてあった。


 白い、可憐な花。名前は知らない。でも朝の光の中で、きらきら揺れている。


 局長室の扉が開いた。


 ルーカスさんが出てきた。


 いつもの無表情。──でも耳の先が赤い。


「……あの時、最後まで言えなかった」


 声が出た。低くて、少しだけ掠れた声。


 心臓が跳ねた。


 あの時。「君がいてくれて、この局は変わった。俺も──」で途切れた、あの言葉。


「俺も──君が、愛おしい」


 息が止まった。


「ずっと、言えなかった。言葉にするのが──下手で」


 ルーカスさんの手が、自分の首筋を掻いた。目が泳いでいる。あの怖い局長が、今、中学生みたいに目を泳がせている。


「毎朝のお茶のこと……」


 声が震えた。私の声だ。


「取っ手のこと。帰ったら話があるって──これ、だったんですか」


「……すまない」


「なんで謝るんですか」


「毎朝──君の利き手を、見ていた」


(知ってた。知ってた気がする。トビアスが教えてくれた。ミラが教えてくれた。みんな気づいてた。……私だけが、気づかなかった)


 一拍、置いた。


 涙が出た。でも、笑った。


「ルーカスさん」


「何だ」


「定時退勤の恋人って──最高じゃないですか」


 ルーカスさんが目を見開いた。


 それから、不器用に笑った。初めて見る笑顔だった。口角がぎこちなく上がって、目元が柔らかくなって。


 ──ああ、笑えるんだ、この人も。


 大きな手が、私の頬に触れた。温かかった。


 額に、唇が触れた。


 軽い。一瞬。


 でもそこに全部──言えなかった全部が詰まっている気がした。


 ガタン。


 事務室の扉の隙間が揺れた。


「「「おめでとーーー!!!」」」


 トビアス、ミラ、マルタさん、飼育員たち。全員が扉の隙間から覗いていた。


「い、いつから──」


「花を置いた時点からです」


 ミラがにやにやしている。


「局長、告白にどれだけかかるかの賭けしてました」


 トビアスが腕を組んだ。


「俺は三ヶ月かかると思ってたんだが、意外と早かったな」


 ルーカスさんの耳が、真っ赤になった。


 マルタさんが二人分の弁当を差し出した。


「デートに持っていきな!」





 保護区の開放エリア。


 木漏れ日の下、ルーカスさんと並んで弁当を広げた。


 マルタさんの手作り。卵焼きとソーセージと、パンと、小さな林檎のコンポート。


「……美味い」


 ルーカスさんが短く言った。


「ですね」


 モルテが私たちの間に割り込んできた。弁当を狙っている。


「モルテ、人の弁当を取らないの」


「きゅう」


 膝に乗ったモルテの頭を撫でながら、ルーカスさんを見た。


 この人は、まだ言葉が下手だ。多分これからも下手だ。


 でも──お茶の取っ手と、報告書の赤入れと、外套と、震える手と。言葉以外の全部で、もう伝わっていた。


「ルーカスさん」


「何だ」


「モルテも、定時退勤の恋人がほしいんですかね」


「……多すぎる」





 ──同じ頃。王国東部の地方領地。


「こ、こんな量を……毎日……?」


 クラウスが書類の山を前に硬直していた。


 実務研修。自分の手で書類を処理する──かつてセラフィーナに押しつけていた、あの業務を。


 隣でリリアーナが青い顔をしていた。


「なんで私がこんな所に……」


 ──セラフィーナが辺境で定時退勤を楽しんでいることは、まだ知らない。





 辺境。五時の鐘が鳴った。


「定時退勤です」


「……ああ」


 庁舎を出る。


 並んで歩いた。ルーカスさんの歩幅が、私に合わせて小さくなっている。


 夕焼けが山の稜線を染めていた。モルテが私の肩の上で「きゅう」と鳴いた。


 定時退勤の恋と、もふもふと、温かいスープのある人生。


 ──私は今、帰れる場所の中にいる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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